00 開幕
その日は朝から曇っていて、日枝義明が通学しようかという時間には、しとしとと小雨が降ってきていた。
白くふたをしたような空はいかにも重苦しく、これがいつ灰色になって土砂降りへ変わるのかと思わずにはいられない。
義明は雨合羽を羽織ろうかと迷ったが、天気予報では午後から晴れるということなので、大きめの傘を一本差して出かけることにした。
「いってきまーす」
「気をつけるのよ」
玄関で見送る母に向かって、義明はいつまでたっても心配性なのだから、と思わずにはいられない。
進級して二年生にあがってはや数週間である。
もはや一年と少し通った学校への道のり、車道の端は歩くが、いままでに事故など一度もなかったのだ。
心配するだけ無駄だろうと、内心、苦笑すら浮かぶのだった。
――その心配が結果的に正しかったのだが。
およそ一五分ほどして、義明がみたのは、自分へと突っ込んでくる一台のミニ・ワゴンであった。
「きゃあああああ!」
おなじ道を行く女生徒が悲鳴をあげ、事故に遭遇した男子生徒が携帯電話を取り出し、救急車を手配した。
車は逃げていったが、ナンバー・プレートの数字を携帯電話の撮影機能で納めた女生徒が、警察へ電話をする。
若い少年少女たちにしては、きわめて手際がよかった。
しかし、アスファルトに横たわったまま、ぴくりとも動かない義明に近づく生徒はいない。
いや、むやみに動かさないだけマシだった。
脈すら確認しなかったのは不手際といえるが、そこまで期待するのは欲張りすぎというものだろう。
やがて五分ほどして、救急車が到着した。ぐったりとしたまま動かない義明が車内に運ばれ、病院へと走り出した。
後日、ひき逃げ犯はナンバー・プレートが決め手となって逮捕された。
処置が早かったためか、義明は一命を取り留めた。意識もはやくに回復し、会話を交わせるまでになっている。
交通事故にあったわりには、かなりの幸運と言えた。たとえその代償が、小さいものでなくとも。
命に別条はないというフレーズは、TV番組ではよく耳にするフレーズだろう。
しかし実際に体験した方にとっては、これほど大きな枠はない。命が無事なら、いいのかという話だ。
義明の両親が見舞いにきて、笑顔を浮かべていた。
「命が助かっただけ、もうけものだな」
「そうよ。きっと日頃の行いがよかったのね」
ほんの薄皮一枚、ひっかけばめくれそうな。
「うん。そうだね。はやいとこ、学校へも復帰しなくちゃ」
まるで道化芝居だった。
命と引き替えに支払った代償は、軽くない。
下半身不随。
それがいまの義明の状態である。
現在の進化した医学でも、かんたんに治せるものではない。
医師が言うには、麻痺が良くなる可能性は、五パーセントあるかどうかだという。
たいていの医者がメインを張るようなドラマならば、一パーセントもあれば、たいてい病気は治ってしまうだろう。
だが、実際のところ、たった五パーセントという確率は、あまりにも低すぎる。
それはほとんどの場合、絶望的という言葉と同義であるように、義明には思われた。
集中治療室から出て一週間は安静にしていたが、その後は一般病棟で、学校へ行けないあいだの自習をしている時間が増えた。
歩けなくとも、車椅子で学校へ通う生徒はいる。義明も退院すれば、そういう方法をとるだろう。
現代社会で生きるには、少なくとも高校卒業ぐらいの学歴はあったほうがいい。
できれば大学も出ておくべきだが、義明はそうしたところで、未来は開けているのか、という考えに行き着いてしまう。
それを振り切るように、いまできることをしなければならない。
すくなくとも、そうしているあいだは、恐怖があたまの中に入ってこない。
苦痛をともなうベッド上でのかるいリハビリを終えてしまうと、義明はなにもすることがなかった。
自分で歩くことはできない以上、ベッドから動くことはできない。まだ車椅子も許されていないのだ。
それどころか、排尿、排便すらじぶんの自由ではなかった。
実用書、フィクション問わず、活字本を読むほどに読書家ではなかったし、TVを見続けるほどの元気があるわけでもなかった。
ただ、なにかをしていたいから、義明はひたすら勉強を続けていた。
予習と復習を繰り返し、ときには素数や円周率を無意味に上げていったりもした。
そういったことにも慣れ、勉強しながらもあたまに余地が増えると、義明にはいくらでも暗い未来が入り込んできた。
少年が将来を絶望視するには、いまの状況は十分すぎる。
ただ歩けない。たったそれだけのことが、どれほど不自由で不安なことか。
なにもすることがない。
なにも。
なにも。
漫画を読んだって、TVを見ていたって、胃が迫り上がってきて、吐いてしまいそうな焦燥感を消すことができない。
時計の針が動く音が大きく聞こえるほどに個室はしずかで、白く清潔で、ひどくただしい代わりに、縋れるような曖昧さがない。
不安をかき消すように、少年は勉学に打ち込んだ。たったそれだけが希望だった。
スポーツが好きなわけではなかったが、できなくなればなんでもしてみたくなった。
それを打ち消すように、ただ脳へ勉強をたたきこんでいく。
優秀なわけではなかったが、時間だけはあった。恐怖が集中力を冴えさせ、使っていなかったあたまに染みこんでいく。
そのうちに、教科書だけでは足りなくなった義明に、元・教師の母が自作のテストと参考書を与えた。
それすらも時間に飽かせて解いていく。このままで行けば、健常であったころよりも、ずっと義明の成績はよくなるだろう。
もしかすれば、有名な大学受験さえ成功してしまうかもしれない。
――だが、その必死さのなんと悲しいことだろうか。
ほとんど捨て鉢になった義明のことを見ていて、母は自分の胸の方がつぶれてしまいそうな気分になっていた。
ある夜、母――明子は、父――義弘に相談を持ちかけた。
「ねえ、あなた。あのままでは、義明はつぶれてしまうんじゃない」
その言葉に、元よりいだいていた懸念をはき出した。
「たしかにそう見える。もとから、そんなにがんばるような奴じゃなかったからな」
成績は高くもなく低くもなく、運動神経がいいわけでもないし、むかしから、なにかのトップを狙うような気概もない。
ただ、手を抜いているというわけではなかった。本気ではなかったにしろ、ある程度まじめにやって、それなのだ。
だから明子は義明を責めるようなまねはしなかったし、義弘もそれで充分だと思っていた。
しかし、そんな気力のなかった義明が、まるで崖から落ちてしまいかねない勢いで、がむしゃらになっている。
張り詰めた風船のようだとふたりは思った。そして、それを不憫に思った両親は、かねてから義明がほしい、とねだっていたものを与えることにした。
VRシステム。
仮想世界没入型デヴァイスである。
価格は七五万円と、けっして安いものではない。いや、はっきりと高い。
入院費はまだ県民共済に入れていたから負担は軽いが、義弘の稼ぎでは、購入は苦しいだろう。
すくなくとも、生活がかなり質素になることは避けられない。
だが、こどもが喜んでくれるならば安いものだと、すこしばかり無理をした。
翌日。
義弘は、ひいひい言いながら病室を訪れた。もちろんそれを隠そうとしているのだが、隠せていない。
それを不振に思いながらも、義明にとって、それは気にするほどのことではなかった。
じぶんのことだけで精一杯だったのだ。
「義明。今日の見舞いは、いいものを持ってきてやった」
「えっ、なんだろう。そんなにすごいものなの?」
異常なほどにこにこした父親に、義明はむしろ不安さえ覚えた。
「ほんとうにいいものなのよ。あのね、このせいでお父さん、お小遣いすくなくなっちゃったんだから」
「こら、余計なことは言わないでいい。……ほら、これだ。義明、ほしいって言ってたろ!」
いったん病室を出て、荷台に載せた荷物を運んできた。
その段ボールには、VR世界へ入るための機械が収められていることを示すプリントがしてある。
「え。こんな高いの、父さん、なんで」
目を丸くして、義明は父に問うた。
それは、いまの自分にはあまりにも過分なように思えて。
「金のことなんか、気にするな。おまえが勉強をがんばっているご褒美だ!」
いままで以上にほほえんで、義弘は息子のあたまをなでた。
すこしごつごつとした感触はひさしぶりで、義明はくすぐったい気がする。
仮想空間をつくり、みずからの意識を仮想体へと移し替え、その世界で生きる。
かつては夢の技術と謳われたものが、いまここにある。
夢へ落ちるようにして、五感すらあるもうひとつの現実へ飛び立つための道具が。
がんなどの末期患者に、安息の日々を送ってほしいという願いから生まれたもので、医療機器システムからの技術フィードバックから作られたものだ。そこまで絶望的ではないにしろ、患者である義明が使うにはふさわしい道具かもしれない。
父親が汗を掻きながらその機器を段ボール箱から出し、病室へセッティングしていく。
二〇キログラムはあるであろう縦横六〇センチほどの本体と、その端末であるヘルメットが、キャビネットに設置された。
ずいぶんと重そうで、中学教師という非肉体労働を仕事としている義弘には、すこしつらそうだった。
思わず口から、
「手伝おうか」
などと言いそうになったが、いまの義明には手伝うことはできない。
本体はベッドの脇に、重々しく設置された。
「ありがとう。父さん、ありがとう……」
ぎゅっと、ヘルメットを抱きしめた義明が、顔をくしゃくしゃにする。
それを見て、義弘は緩んできた涙腺を必死に締めつけた。震える声帯を叱咤し、義明にうながす。
「ばか。たいしたことじゃない。それより、ほら。使ってみるといい」
箱に、カード型ストレージを差し込むと、本体がしずかに動き出す。データ・インストールが始まったのだ。
「うん。ありがとう。父さん、母さん」
うなずいて、もう一度、感謝を言うと、義明はヘルメット型端末を深くかぶった。
そしてようやく、父と母の頬からこらえていたものがひとしずく落ちる。
インストールは数十秒で終わり、ヘルメットの横についていたスウィッチを押すと、システムが起動した。
さざなみにも似たリラクゼーション効果のありそうなBGMを聞きながら、視覚に直接投影される画面から、インストール済みのプログラムを視線で起動させると、義明の意識が分解、再構築された。
アルファベットで〔PARANORMAL WORLD ONLINE〕とあるのタイトルの下にあるNEW GAMEという文字列を開き、その世界への一歩を踏み入れた。
転瞬、こころを沸き立たせるような、勇敢なものになったBGMを聞きながら、義明がキャラクター・メイキング・フェイズへと入る。
容姿をいじるのすらもどかしく、自分をスキャンしたデータに、種族の特徴がオートで加えられたそのままの状態でメイキングを終える。
黒髪、黒瞳で、すこし耳がとがっているだけの日枝義明がそこにいた。
エルフという言葉からイメージされるような眉目秀麗ではない。
そのキャラクターを選択してログ・インすると、あたりは草原だった。
消毒液のにおいがする病室から、草木の香りとここちよい程度の微風が肌を撫ぜる世界へと変わっている。
「……これが、パラノーマル・ワールド・オンライン」
目から落ちる幾筋ものしずくが、風に散っていった。
くしゃりとブーツの下で草のつぶれる音がする。
たった数週間離れていただけの足の感触に、義明は生来の親友と再会したような懐かしさと感動を味わった。
どれほど感動に浸っていても、なにも変化がないのでは、それも飽きてしまう。
ぼけっとしているのもそこそこにして、義明はこの世界の風景を眺めてみた。
見渡すかぎり、草原の広がる場所というのは、コンクリートばかりの現代日本とくらべれば実によい景色だが、なんの説明もなく放り出された義明にとっては、不安を抱かずにはいられない。
昨今のゲームならば、根絶丁寧すぎるチュートリアル・クエストからはじまるものだ。
そこで経験値やらアイテムががっぽがっぽと手に入り、ノウハウをわからせた上でスタートさせるというものが多い。
しかし、パラノーマル・ワールド・オンライン――PWOでは、そのようなことはなかった。
超自然世界という名のとおり、現代の常識をわるい方向へ打ち破ったのだった。
というよりも運営者がレトロ・ゲーム好きで、説明書も読まずに始めるやつは自殺と同意義、というようなことをネット・ニュースのインタビューで語っていた。
そのゲームのラスト・イヴェント。
グランド・クエストとも言われる最大の目標――世界のもっとも高いところに住まう竜を倒す。
あまりも古めかしく、ともすれば陳腐でこどもが描いた絵本のような物語だ。
だが、実際にじぶんが英雄になれる世界というシステムは、レトロな物語をもっともあたらしい神話に変える。
そういう近年ではめずらしい作品であるが故に、義明もこの世界に興味を持ったのだった。
義明は二本の指でコツコツとあたまをたたき、記憶を呼び覚ます。
説明書こそ読んでいないが、あこがれていたゲームのことだ。Wikiを読んだり、情報を探ってはいた。
大むかしのこどもたちが、攻略本を読んでゲームをやった気分に浸っていたのとおなじことである。
「ええと、村だ。村は……っと」
現在地からすこし離れた北東に、プレイヤーやNPCが集合している場所があるはずだった。
それが最初のエリアでエルフが目指す場所〔浅い森の村〕である。
そこへ向けて、義明は〔歩き〕出した。
さくさくと草を踏む感触にいまだ感動を覚えながら、だんだんの緑がふかくなっていくのを眺める。
じぶんの知識が正しいことに安堵しつつ、目を凝らした。
そのうちに木々がぽつぽつとあらわれ、五〇〇メートルほど先から林か森のようになっているところを見つけると、義明はその足をはやめずにはいられなかった。
あとすこしというところで、草原の緑のなかから、ちがう色を見た気がして、ふと足を止めた。
見まちがえようもなく茶色をしていた。それは地面の色ではなく、草をかき分けてがさがさと動いている。
「うさぎだ」
ぴくり、と、草の葉より上に見えていた耳が、義明の近づいてくる音を聞いて、緑のなかに沈みこんだ。
森へ行くよりもこちらの方が気になってしまい、うさぎの方へ近づいていった。草をかき分けると、果たしてうさぎはいた。
ぴくぴくと鼻を動かしながら、あたりの匂いを嗅いでいた。現実世界でいうところの、シルヴァーのような種類だ。
頭上に浮かんでいるアイコンから、〔ラビット〕という名称以外のデータは知り得なかった。
そういう情報を知るためには〔怪物学〕や〔解析〕スキルが必要となるのだ。
「ちっちっちっ、おいで」
義明が呼ぶが、うさぎは一度だけ目をやるが、どこかへ行ってしまった。
「あーあ。……いいや、森に行こう」
草の中に混じっていた名も知らない花を一輪摘んで、香りを嗅ぎながらまた歩き出した。
しばらくすると花は枯れるでもなく、光の粒子となって消滅していった。耐久値が下限を下回ったのだ。
森の端へたどり着くのは、寄り道さえしなければすぐだった。
草原から急に木々が生えそろった場所に変わるというのは、すこし唐突な気もするが、密集するのはただしいのだろう。
といっても草原から木々の群れへと変わっただけで、緑に満ちていることに変わりはない。
ほとんど自然のままだが、ふと気がつけば木々の間隔が広く、森のなかでひらけた場所へでた。
そこには生木ではなく、自然に材木となった枯れ木、朽ち木などでテーブルや椅子をこしらえた空間があった。
ここが設定種族に〔エルフ〕をえらんだほとんどのプレイヤーが、はじめに目指す場所〔浅い森の村〕である。
見れば、ほっそりとしたシルエットに、人間よりもすこしばかり、ぴょこりと長い耳をしたのが談笑したり、木に背中を預けて座り込んだりしている。
見渡した限り、一七〇センチを超えるような背のやつはいない。森に住む存在としては、その方が都合がいいからだ。
メタ的な会話を楽しんでいるのもいるが〔なりきりごっこ〕を楽しむためか、そういう会話をしているのもずいぶんといた。
「ええと、このあとはたしか、どうすればいいんだっけか」
こめかみのあたりを義明がコツコツと指でたたいていると、黒い革鎧を身につけた男のエルフが声をかけてきた。
頭上のアイコンを見ると、名前だけが浮かんだ。彼はディルージョンというらしい。
「初心者プレイヤーか?」
「え、あ、はい。さっき、はじめたばかりです」
目を丸くしている義明に、すこし目をほころばせながら、男エルフは続けた。
おっかなびっくりの様子に、自身の過去を懐かしんでいるのだろうか。
「だったら、ほら。あっちの方にエント――歩く巨木――がいるだろ。あれに話しかけてみるといい」
目を向けると、木を隠すなら森のなかということなのか、なぜ気づかなかったのか不思議なぐらいに、自然に森を歩き回っている巨木がいた。三つの洞が目と口をになっているのか、そこから光が漏れていた。
「ありがとうございます。チュートリアルがなかったもので、ちょうど困ってたんです」
「おれもはじめた時は、なんて不親切なんだって思ったもんだよ」
くすくすと笑って、懐かしげに男エルフはひらひらと手を振った。
義明は軽くあたまを下げると、エントへ向けて歩き出す。
「あの、もしもし?」
義明が話しかけると、エントはゆっくりと振り返り、その矮躯を見下ろした。
「どうした森の子よ。はじめて見る顔だ。生まれたばかりの子だな」
「はい。ぼくはヨシュアと言います。あなたはこの森の守り神……みたいなものですか?」
威厳のようなものを感じて、義明――ヨシュアは思わず身がすくむ。
樹齢にして数百年、いや、四桁に届いているであろう年月の蓄積が、そのまま貫禄として伝わったのだ。
「そうとも言える。ではヨシュア。わたしから祝福を与えよう」
そういうと、エントはじぶんの葉や果実、朽ちかけの枝や表皮などを取ると、それを義明に差しだした。
エントの枝はよい弓の材質となり、葉は傷を治す効果があり、果実は美味で食べれば疲れを癒し、よく成長した表皮は防具になる。
「ありがとうございます。エントさん。じゃなくて……エント様?」
ヨシュアは問うが、返答はなかった。あまり高度なAIは有していないようだ。
しかたがなく去ろうとすると、その背に、
「足りなくなったらまた言うといい。頻繁に与えることは無理だが」
という言葉が投げかけられた。
あわててヨシュアはそれに返事をしたが、それにも回答せず、エントはどこかへ歩いて行った。
もう一度あたまを下げたあと、ヨシュアはさっきのディルージョンの下へ小走りで戻っていく。
「エント様に、いろいろいただけましたっ」
にこにこと笑うヨシュアに、思わずディルージョンは笑ってしまった。
「エント様か。いや、たしかにエルフからしたら敬う存在だけど、おまえ、そっち派か」
「え?」
と、ヨシュアがきょとんとすると、もう一度、ディルージョンは耐えかねたように笑い出した。
ゲームの世界で、あいてはAIなのだという感覚の彼からすると、エルフになりきっているその素直さは、すこし滑稽でもあり新鮮でもあり懐かしくもある。
「な、なにがおかしいんですか」
頬を膨らますヨシュアがまた子供っぽくて、男は笑いそうになるのをこらえながら、
「いや、わるいわるい。ちょっとマンチキン的な考えになりすぎてたと思ってさ」
謝罪ついでにディルージョンはごそごそと腰のバッグに手をやり、焼き菓子をふたつ取り出した。
刻んだドライ・フルーツを混ぜ込んだ大きめのビスケットで、やや堅めに焼き上げられている。
「これをやるから、許せ」
「……はい。ありがとうございます」
なんとなくごまかされたように思いながら、受け取ったヨシュアは、そのまま一口かじった。
ぼりっというしっかりした食感と、レーズンや蜜漬けにしたピールの甘さが混ざって、口内を満たす。
数日前から味気ない病院食ばかりだった舌には、あまりにも新鮮で、思わずそのまま一つをぺろりと平らげてしまった。
「けっこうイケるだろう。おれのお気に入りなんだ」
男エルフもフルーツ・ビスケットにかじりついた。
「うまいです。こんなにうまいもの食ったの、ひさしぶりな気がするなあ」
「おおげさだな。でも、喜んでくれてよかったよ」
「……すみませんでした。情報を教えてもらったのに」
冷静になって考えるとヨシュアはどうも、じぶんらしくないことをしたように思う。
あこがれのVR世界に入り込んでいることで、だいぶ興奮しているのだろうか。
そういうことにしても、やっぱり妙な気分になっているものだ。
つまり歩けるということは、それほどに重要なのだとヨシュアは納得した。
「いやいや。それより、なんだったら案内しようか。よければ、だが」
「それはありがたいですけど、迷惑にならないですか」
「こっちが言い出したことだ。さ、いこうぜ」
椅子から腰を上げると、いかにも軽々とした足取りで、ディルージョンは歩き出した
「待ってくださいよ。見てのとおり、ぼくは初心者なんですから!」
ヨシュアは、森から草原へ向けて歩き出すディルージョンに、あわてふためきながら続いた。
三分ほどあるいて森を抜け、ふたりは草原へやってきていた。
近くにとらえているのは先ほどとはちがう、ロップ・イヤーの〔ラビット〕である。
腰の鞘から引き抜いたナイフを逆手に構え、ヨシュアは掻くはずのない汗が額から落ちるのを感じた。
「ぼくが、やるんですよね」
「かわいいから倒せない、なんて言わないでくれよ」
ディルージョンは、がりがりとあたまを掻いて、どうしたものかと目を細める。
「や、やりますよ」
あえて倒すという言葉に置き換えたけれど、やることは変わらない。
微風がとおりすぎて、草が揺れ終わったところでヨシュアは覚悟を決める。
ぐっと眉間にちからを入れ、グリップを両手で握り、ヨシュアはロップ・イヤーのうさぎへとナイフを振り下ろした。
思ったよりもかるい手応えにおどろくと、ナイフが埋まったところから淡い光の粒が散っている。
それがこの世界における痛みの表現だった。低年齢層にも配慮したかたちである。
うさぎが悲鳴を上げ、からだをよじってナイフを抜くと、口を開いてヨシュアの手にかみついてきた。
「うわ、噛みついてきた!」
「落ち着け、痛みはほとんどないだろう」
ディルージョンの言うとおり、ヨシュアは噛みつかれたというのに、ほとんど痛みを感じていない。
いや、痛みですらなかった。むずがゆいような衝撃は、かすかな不快感としかいいようがない。
ゲームとして痛覚があるというのは、マイナスにしかならない。そういう部分は除かれているのだった。
「たしかに。……こいつめっ!」
食いついて離さないうさぎに向けて、ヨシュアは何度もナイフを落とした。
そのうちに〔ラビット〕はちからを無くして倒れ、先ほどの傷のように無数の光の粒となって消えていく。
この世界における破壊の表現だ。
その場に残ったのは、カードが三枚ばかり。
ヨシュアは一息ついて、ナイフを鞘にしまってから、ディルージョンに尋ねた。
「これがドロップ・アイテムですか」
「そのとおり。拾わないと、中身はみられない」
拾ってまじまじと見ると、カードの表面に変化があらわれた。
そこには納められたアイテムの名前が浮かんでいる。
カードには〔兎の肉〕、〔兎の毛皮〕、〔兎の足〕がひとつずつ入っていた。
「……うえ。肉と皮はわかるけど、足って。なんでこれだけ個別なんだろう」
ディルージョンは、眉を上げて口笛を吹いた。ずいぶんと古くさいアクションだが、癖なのだろう。
まるで二〇世紀に作られた映画の登場人物みたいじゃないかと、ヨシュアは内心、苦笑した。
「おめでとう。そいつはレア・ドロップだ。加工すると、ラックをあげるアイテムになる」
「ビギナーズ・ラックってやつか。珍しいこともあるもんだ」
表情をわかりやすいほどに緩ませて、ヨシュアが鼻歌を歌い始めた。
こんどはディルージョンが苦笑した。
その後、付き添ってもらいながら、ヨシュアは何匹かのうさぎを狩ることに成功した。
攻撃しているあいだに攻撃され、なんだかんだで殴り合いという原始的な戦いをしながら、ようやく経験値が規定量を超え、あたりにファンファーレが鳴り響いた。
まわりの手の空いているプレイヤーが「おめ」と祝福してくれるのに返しながら、ヨシュアは一息ついた。
「ようやくレヴェルがあがったな」
草笛などで暇をつぶしていたディルージョンが、立ち上がる。
「はい。ずいぶん待たせてしまって、すみません」
親指と小指をくっつけて二度振るアクションで、ウィンドゥを呼び出し、ヨシュアはステータス画面を表示した。
そこにはステータス値と装備とスキルなどのデータが並んでいて、右下の方に、ステータス振り分け可能ポイントとして三の数字が追加されていた。
「ヨシュアは成長方針とか決まってるか?」
「とくには。でも、近接戦闘は向いてないのかもしれません」
もともと魔法というものを体験してみたいという動機で、エルフをえらんだのだから、ヨシュア的にそれはそれで別にかまわないのだが、あまりのふがいなさに落ち込むのは仕方がないことだ。
あまりに情けない顔でいうものだから、ディルージョンはつい口を挟んでしまった。
「いやいや、そう決めつけたもんじゃない。なんだって、ある意味では覚えゲーなんだよ」
そういうと、ディルージョンはナイフを一本だけ、腰のバッグから取り出した。
ランクやクオリティの差はあれど、装備的には、いまのヨシュアとまったく変わらない。
そうして一匹の白いうさぎを見つけると、小指の先ほどの拾った小石を投げつけ、アクティヴ状態にする。
当然、白兎は敵意を見せてディルージョンへ襲いかかった。
「見てな」
ラビットが体当たりしてくるのを半身になって回避し、まるでマタドールのように何度も攻撃を避けていく。
直線的な動きをひらりとかわしていく様子に、周囲のプレイヤーも感嘆の声を上げた。
その内に、ものわかりがよい方ではないヨシュアにも飲み込めてきた。
「そうか。うさぎは接近するまで、体当たりしかしないんだ」
「そういうこと。だからこんなこともできる」
また突撃してきたところに、ディルージョンは避けながら、ナイフを突き入れた。
びくん、と一瞬、空中で震えたあと、うさぎは光の粒となって消えていく。
「なるほど」
と、うなずいてそれを見ていた周囲のプレイヤーたちは我先にと急ぎ、石を投げ、さっそくディルージョンの真似をしていた。
失敗して、結局、殴り合いになっているようなのもいるが、おおむね、成功しているようだった。
突っ込んでくるうさぎを半身になってナイフを突き立てるというのは、飛んでくるボールをバットで打つような感覚に近い。
さほど難しくなかったおかげで、ディルージョンのやっていたことを見ていたプレイヤーは、いくらか効率を上げるだろう。
それらのプレイヤーたちのことも眺めながら、ヨシュアはうなずいた。
「冷静になってみれば、むずかしくないように見える」
「だろう。じぶんで動くVRゲームとはいえ、コツさえつかめばこんなもんだ」
「はい。ありがとうございます!」
ぺこりとあたまを下げるのも、何度目かわからないほどだった。
がりがりとあたまを掻きながら、むず痒そうにディルージョンは困ったような表情を浮かべた。
そういう風に、丁寧にされるようなのは苦手なのか、慣れていないのだろう。
「ま、いいや。おれはそろそろ別のところへ行くが、あとはなんとかなりそうか?」
「自信はついてないですけど、なんとかやってみます」
「やっていれば慣れるさ。じゃあな」
ディルージョンはひらひらと手を振り〔浅い森の村〕へと戻っていった。
おそらくヴェテラン・プレイヤーなのだろうとあたりをつけたヨシュアは、彼がどうしてこの場所にいたのかはわからないが、彼の提案は実にありがたかった。
まったくの初心者をサポートするというのは、ヨシュアのようなド素人にとっても成長の糧になるし、経験者にとっては将来的に種が芽吹き、戦力になればいいという思いから、両者が得をするであろうことで、推奨されているようだ。
友達の多いほうではない義明にとっても、実際、どのような考えで親切にしてくれたかはわからなくとも、人のあたたかさに触れたことは感動であり、この先もこの世界でやっていこうという思いが増すのだった。
あれから数匹のラビットを倒したヨシュアは、慣れないことをしたせいか、疲れてしまい、草原の端に寄り、ステータス画面をにらんでいた。
PWO――パラノーマル・ワールド・オンラインには、五つの能力がある。
筋力、生命、敏捷、魔力、幸運の五つだ。
じぶんで考え、動けるというVRシステムを尊重するためか、DEXやINTというパラメータはなかった。
ラビットをすばやく倒すためにはSTRを上げるべきだし、攻撃されても耐えるためにはVITを上げるという選択は悪くない。
そもそもディルージョンのように、当たらなければいいという心構えならば、AGIがもっともよい。
ヨシュアが目指していた魔法使いになるなら、MAGは必須だ。
兎の足を入手したように、レア・ドロップを期待するなら、ふつうのMMOでは死にステとされるLUCというのもいいかもしれない。
――どれを上げるべきだろうか。
と、迷うことは珍しくない。しかしヨシュアは、攻略Wikiに載っているようなガチガチのテンプレートにする気はないのだった。
ヨシュアはいままでプレイしてきたゲームでも、最前線で敵と殴り合うよりは後方支援を得意としていた。
だからこそ、初期パラメータでMAGの数値が高めのエルフをえらんだのだ。
しかし、いま揺らいでいるのは、自分自身で動くということの楽しみを覚えてしまったからだ。
現実に戻ってしまえば、日枝義明は半身不随の人間だ。だがこの世界ならば、自由自在に動き回れる森の住人である。
歩けることがどれだけ楽しいか。うれしいことか。一度なくしてからふたたび手に入れて、義明は知ってしまった。
あの朝、母の忠告をどうしてもっと大事にしなかったのか。悔やんで夢から目を覚ますことが、何度もある。
生まれたころからなかったのなら、まだあきらめることができたのかもしれない。いや、そんなことはあり得ない。
知らなかったからこそだ。むしろ、そういう存在はもっとVR世界に深く浸り、決して離すことはない。
ヨシュアにはその気持ちが痛いほどに理解できる。どうして捨てることができるだろう。
自分で動けるという感覚を閉じこめることは、どうしてもがまんならないほどだった。
悩んだあげく、ヨシュアの指先はAGI、VIT、LUCをひとつずつあげることをえらんだ。
あこがれはあったが、魔法は使おうと思えばスキルを取得すれば下手なりに使うことはできる。
だが動ける範囲が直結するAGIなどのステータスは、あきらめることができなかった。
体当たりを華麗に回避するディルージョンへのあこがれと、すぐHPが減ってしまうことへの恐怖と、この世界でくらい幸運でありたいという願いの混ざった選択だった。
こうしてヨシュアは、魔法よりも、じぶんで動くという意思をえらびとったのである。
それから、中途半端に終わってしまった狩りを再開し、キリよく、もうひとつだけレベルをあげると、ヨシュアは〔浅い森の村〕へと帰り、安全を確保してからログ・アウトした。