06【書物庫にて】2
扉を開けた途端、何かの花の香りが鼻に届いた。甘い匂いだ。しかし、灯りが付いていないため、何の花なのかを確認することはできない。何の花だったか、思い出せそうな気がするのだが。
「灯り……どこだろう」
先に入っていった、あの人も見つからない。というか、見えない。
「あのー……どこですかー……」
名前を聞いておけばよかったと、今更後悔する。
「あーごめんごめん。ちょっと待って」
近くで声がしたかと思うと、突然目の前が明るくなった。眩しいほどの光に、思わず目をしぼめる。しかし、間も置かないうちに、すぐ目が慣れた。
それは、どうやら火の光ではないようだった。ほんのり青く、しかし優しい光である。もしかしてこれは……魔術か。
「この部屋の灯りをつけると、あの方を起こしかねないし……睡眠を邪魔されると凄い怒るんだよな、はは。それと、ここにはかなり大事な書物も置かれてる書物庫だからな。火気厳禁なんだ」
『かなり』という部分を凄い強調されたのは、きっと気のせいではないだろう。
「俺は夜目が利くから、すっかり忘れていたよ。普段は灯りなんか使わないから」
月明かりも無い、真っ暗闇だった書庫で夜目が利くとは……相当な眼球の持ち主で。
改めて辺りを見渡すと、本の詰まった本棚がずらりと並んで、建物の大部分を占めていた。その背表紙を一瞥しただけでも、高価な書物が含まれていることは十分に理解できた。触ってはいけない気もする。が、手にとって読んでみたいという衝動も抑えきれない。手を伸ばしかけたところでちらりと彼のほうを見ると、案の定こちらを見ていた。
「……駄目?」
駄目元で聞いてみたが、特に反応は無かった。これは、読んでもいいって事か……?
「暗いからな、視力落とすぞ。明日にでもゆっくり読めばいい」
そう簡単に、大切な書物を一般の人に公開しない事ぐらい分かっていた。それも、夜中に町をうろついていた得体の知れない小娘になど。しかし、明日は読んでも良いということは、普段は一般公開しているのだろうか。
その旨を伝えると、彼はあっさりと答えた。
「するわけ無いじゃないか。まして今は、あの方がここに滞在しているというのに」
「あの方って?」
「この国の国民なら、知らない人は居ないだろうという人。お前も当然知っているはずだけど、情報が漏れると大変だから秘密って事で」
相当な情報が明かされているけれども、これは良いのだろうか。まあ、私には全く推測できないのだが。大貴族の人とか、英雄とかかな?
「それはそうと、これからどうするんだ? 宿はとってあるんだろ?」
「あ、はい。そろそろ戻らないといけないかな」
「そうか、ではそこまで送るよ」
そこまでは良いと遠慮しようとしたが、さすがに夜道を一人の娘に歩かせるのはしのばれると、彼も引かなかった。結局、彼も私の帰路についていくことになった。
大人の男性が横に付いて一緒に歩いてくれているというのは、結構心強い事だ。もしかして、あの書物庫から一人で帰る事となっていたら、正直心細かった。
「えっと……あれ」
黙って歩いているのもどうかと思い、話しかけようとしたが、ふとある事に気がついた。初めて会った時からもう半日ほど経つが、まだこの男性の名前を聞いていない。
「……すみません、大変失礼なことをお聞きしますが宜しいでしょうか」
「ん、何だ?」
「お名前は……?」
私がそう言うと、彼は吹き出した。何をそんなに笑うのか。どこかに笑う要素あったか?
「俺はラグレット・ウォルター。好きに呼んでくれて構わない」
「じゃあ、ラグと呼ばせていただきます。長くて呼びづらい」
「敬語も無くていいぞ? まあ、俺の方が大分長く生きているのは確かなんだけどな」
「それは、私が子供っぽいと? そう言いたいの?」
「否定はしない」
脛に蹴りを入れてやった。まあ、この男はそれくらいでは怯まなかったけれども。
「お前の名前は?」
「私はルエラ・ローウェル。ちなみに十六歳。そんなに子供じゃない!」
「そんなにムキにならなくても、良く分かってますよ。ルエラちゃん」
脇腹を殴ってやった。避けられたけども。
そんなやり取りをしている間に、私が泊っている宿が視界に入ってきた。宿の前に着いた頃には辺りも薄明るくなってきており、もうすぐ夜明けらしい。
「それじゃまあ、お休み。静かに寝てろよ、子供なんだから」
殴りたい衝動に駆られたが、必死に抑え込む。
「もう寝る気になれないよ、もうすぐ朝だし」
「そうか。じゃあ、昼にでもまた書物庫に来るといい。今度はお茶でも出してやるよ」
「そうしようかな。楽しみにしてるよ」
感謝の言葉を口にして、私は宿の建物の中に入った。奥の方からは朝食を調理しているようで、おいしそうな匂いが届いてきた。ここの宿の女将さんが作るシチューは、とても美味しいらしい。楽しみだ。




