第五話 決意
翌朝、いつものように靴箱を開けた僕は、いつもとちょっとだけ違う事に気がついた。
いつもなら上履きに唾が吐かれているだけだったのだが、きょうはそのうえに落書きが一つ。
「人殺しは死刑になれ」
僕には全く見覚えがない字でかかれた、赤いマジックで書かれたその字は。血のような色をしたそれは、水で洗っても落ちなかった。
教室に入ると、部屋の中は静まり返った。それは昨日と同じだったので、ためいきをつきながら自分の席へと向かう。
机は、ひどく切り刻まれていた。そしてその上に、マジックやその他のなにかで、ありとあらゆる罵詈雑言がかかれていた。
「死ね」「おまえが犯人だ」「失せろ」「クズ」「出ていけ」「人殺し」…。
僕はめまいがした。僕の机の上にあるのは、誰のものかもわからない悪意。色とりどりの、呪詛。
「よく学校に出てこれるよな」高原の声がした。
「木田は自殺だって、警察も言っていたじゃないか」
僕はそういい返したが、事の真相に気づいて愕然となった。
警察がなんと言っても、たぶん関係ない。
こいつらは、僕を犯人に決めたんだ。
「警察はごまかされても、俺たちはごまかされないぞ」
案の定、高原はそういった。
「早く自首しろよ。自首の方が罪は軽いそうだぜ」
佐久間が僕の顔を見ながら、あざけるように言った。
「強情なやつだな。おまえしか動機のあるやつはいないんだぞ。おまえがやったにきまってるじゃないか」
唐沢が、いまいましげにつぶやいた。
「僕はやってないって言ってるじゃないか」いらつきが声に出た。「第一、なんで僕が犯人だって決めつけるんだ?」
「それが事実だからさ」佐久間が、得意げな表情を口の端に浮かべながら言った。
「警察は、そう思ってないぞ」あまり自信はなかったが、言ってみる。
高原をはじめとして、ほとんどのクラスメイトが声を上げて笑った。
「まだ気がついてないだけさ」唐沢が、涙を流しながら言った。「もしも最後まで気づかなかったら、警察にちゃんと言ってやるから。『こいつは木田にいじめられていました。動機のあるやつは、こいつしかいません。さっさと捕まえてください』ってな!」
僕の頭は、その一言で沸騰した。こいつら…
僕で、遊んでやがる…!
無意識に拳を固め、一歩前へと進み出た。
しかし、彼らは笑顔を崩さない。
「こいつ、やる気だぜ」佐久間があざ笑った。
「べつにいいぜ、やっても」高原が続ける。「おもしろいから。どうせこいつ、勝てやしないし」
「どうぞ、おいでませ」唐沢が、残忍な笑みを浮かべていった。「また遊んでやるからな」
そのとき僕の心を横切った感情を説明することは、たぶん一生かかってもむりだろう。全身の血は沸騰していたが、心のどこかで、まだ冷静なもう一人の僕が、必死で感情を抑えようとしていた。
僕は高原達をにらみつけ、…やがて顔を逸らした。
そのまま僕は机に戻り、荷物を乱暴にかばんに詰め込んで教室を飛び出した。
このままあそこにいたら、きっと憤死してしまっただろうから。
制止の声はかかったが、それは無視することにした。これ以上さらし者になるなんて、耐えられない。
閉じられた教室のドアから、僕をあざ笑う声だけが、いつまでもいつまでも響いていた。
家へ戻ると、母さんに「具合が悪くて早退してきた」といって自分の部屋に戻った。
実際、そのときの僕はひどい顔色だっただろう。
ベッドに倒れ込むと、今日までのことが走馬燈のように浮かんでは消えた。そして僕は、そのまま深い眠りに落ちていった。
目が覚めると、もうあたりは夕日に赤く染められていた。どうやらうなされていたらしく、冬だというのに服は重く濡れていた。僕はベッドから這い出すと、服を着替え、カーテンを開けた。
冬の短い太陽は、まだ沈んではいなかったが、西の空で生気を失って紅くよどんでいた。そのよどんだ光の中、僕は膝を抱え、目を閉じ、これまでのことを頭から追い払おうとした。けれど、そんなことは無理だった。
これまでにあったことが、ぐるぐると頭の中を回っている。
誰もいない屋上で、ただひたすら殴られ続ける僕。面白がって殴り続ける高原、唐沢。後ろでゆがんだ笑みを浮かべる佐久間。
窓の下、閉ざした目の外の世界には、ありふれた日常があるのだろう。母親に手を引かれ、家路につく子供。二人三人と連れだって、おしゃべりに夢中な高校生。自転車に乗って、ゆっくりと進んでいく老人。 いつもと同じ一日。
ただし、僕には手が届かない。
遠い日常。それがますます遠くなることを、僕は知っていた。
このままでは、僕は犯人にされてしまう。
警察に捕まることは、今のところはなさそうだ。彼らはどうやらこれを自殺だと思っている。でも、もし他殺だということになったら、一番疑わしいのは僕だ。何しろ、ちゃんとした動機もある。アリバイもない。
そして、あいつらがいる。
高原たちはあのとき僕のことを犯人だと決めつけたけれど、おそれたりおびえたりは全然しなかった。ただそれを、僕を痛めつけるための口実にしただけ。
それで、わかってしまった。
つまり、あいつらは僕が犯人でないことを確信している。そのうえで、僕を犯人にしようとしている。僕が苦しんでいるのをみて、楽しむために。僕がなにもできないと思っているから。僕がただ笑われているだけの木偶だと思っているから。
僕はこれまで、ずっと泣いて過ごしてきた。僕は、なにもできないと思ってきたから。じっと我慢しているしかないと思っていたから。
その結果がこれだ。
もううんざりだ。
僕が何とかして生き残るためには、この事件の犯人を見つけなければならない。なんとしても犯人を見つけないと、逃げ出せない。そう、たとえこれが本当に自殺だったとしても、犯人を見つけなければ。
ここまで考えて、僕は激しく落ち込んだ。
僕はなにをやってるんだ。
これじゃあ、木田たちがやっていたことと、何にも変わらない。なるほど、僕がいじめられるのは当然なのかもしれない。
まず調べることは、この事件が自殺かどうかだ。自殺なら、その動かぬ証拠を。そしてもし他殺なら、そのときは真犯人を捕まえる。
真相を調べることは、いじめとはあまり関係がないかもしれない。
たとえ真犯人…もし、そんなものがいるとして…を捕まえたとして、彼らが僕を真犯人扱いすることをやめることは、たぶん、いやけしてないだろう。彼らにとって、これはただの愉快なゲームにすぎないのだから。
それでも僕は、調べなければならない。この事件の、真相を。
僕がもし、どうしようもない人間じゃないとするならば。僕にも、ひょっとして何かできるかもしれないとするならば。
僕にも何かできることを、証明しなければ。
僕が泣いてばかりの子供じゃないと、証明しなければ。
なによりも、まず自分に。
そうしなければ、いずれ立っていることもできなくなるだろうから。
僕は、まず僕という存在を作らなければならなかったのだ。
日はもう沈みかけている。明日のあいつの葬式には出席しなければと、そのとき思った。