第四話 事件
朝、僕は寝不足のまま目を覚ました。頭に鉛でも入っているようだ。有坂の、あの泣き声が頭から離れない。今も目を閉じると、有坂の悄然とした姿が浮かぶ。ぼくはそれを、ほんの少しさえも見ることはなかったのに。
あれから、三日が経っていた。有坂は学校を休んでいた。僕はまた、いつもと変わらない生活に戻っていた。
時計を見る。七時ちょうど。もうそろそろ起きないとまずい。のそのそと動き出し、なんとか服を着る。
下に降りると、めずらしく父さんがいた。新聞を片手に、コーヒーを飲んでいる。
「おはよう、父さん」
「ああ…」
いいかけて、父さんが僕の顔を心配そうに見た。
「だいじょうぶか、耕平?ひどい顔色だぞ?」
「そうかな、べつになんともないけど」
「そうか?そうは見えないけど」
「私もそう思う」母さんが、これも心配そうな顔で続ける。
「今日は休んだら、学校?」
「だいじょうぶだよ。そうそう学校休むわけにも行かないし。なんとかなるって」
「そう…」
母さんが、納得していない顔でうなずく。
僕は急いで朝食を平らげると、すぐに出ていった。
家からだいぶ離れてから、僕はほっと息を吐いた。
最近、父さんたちがなにか感づいているようだ。むりもない。毎日沈んだ顔で出ていく息子の顔を見れば、なにかあったということはすぐにわかるだろう。
正直、父さんや母さんにうち明けようと何度思ったことだろう。父さんも母さんもわるいひとじゃない。うちあければ、学校と談判もしてくれるだろうし、うちの先生の質は悪くないから、ひょっとしたらいじめ対策がとられるかもしれない。
けどだめなんだ。先生は教室を支配しているわけじゃない。先生は、ただ教室にいて、授業とホームルームをするだけ。いくらいい先生でも、結局生徒に影響力があるわけじゃない。生徒のことは、生徒同士で決めること。僕らの間では、それは暗黙の了解だった。もし先生や親に話して、対策がとられたとしても、その後でなにが起こるだろう?子供の世界に大人を引っ張り込んで、大人の力で解決したところで、みんながどう思う?「チクリ魔」のやつと、ほんとうに仲良くしてくれるだろうか?
無理だ。それはほんとうの解決にならない。大人の目の届かないところで、またおなじことが繰り返されるだけ。もっと多くの人が加わり、もっと陰湿になって。
これは、自分の力でなんとかしなければならないのだ。
けれど、いったいどうすればいい?どうすれば、ここから抜け出すことができる?そんなことが、ほんとうにできるのか?
そのまえに…
それまで、僕が保つだろうか?
そして、痛切に思った。もし、仲間がいれば。仲間じゃなくてもいい、おまえはここにいていいのだと、言ってくれるひとさえいれば。
そうすれば、僕は生きていられる。なんとか耐えていけると思う。もし、そんなひとさえいれば…
僕はふいに、笑みを漏らした。くちびるのはしに、あるかなしかの暗い笑みを。
いたじゃないか、そういうひとが。過去形で言わなければならないのが残念だけど。
有坂は、もう僕のそばにはこないだろう。当然だ。あたりまえだよ、僕が拒んだんだから。
彼女は僕が拒んだ訳をわかっているだろうか?僕が彼女に迷惑しかかけないだろうと言うことに、気づいただろうか?
たぶん、気づいてはいないだろう。気づかないでいてほしい。有坂、優しいから。気づいたら、彼女のことだ、僕のそばにきて、ずっといっしょにいてくれるだろうから。たとえ、僕がこれ以上迷惑をかけたとしても。
だから、これでいい。
耐えるのは僕一人でいい。
有坂を巻き込むなんて、耐えられない。
けれど、少しだけ、気づいてくれればと思ってる。それは無理だと、それは甘えだと、わかってはいるけれど。
わかってはいるけれども…
今日は木田たちの姿が見えない。めずらしいこともあるものだ。とはいえ、どこかでまた待ち伏せでもしているかもしれない。
そう思いながら歩くうちに、学校が見えてきた。けれど、どこかおかしい。門の前には、パトカーが何台か。そのとなりには、車が鈴なりになっている。そしてまわりには、カメラを抱え、マイクを持ち、忙しげに働く人々。
なにかあったんだ。僕は足を早め、校門をくぐった。
校門の先には、ひとだかりがしていた。いそがしく立ち働く警官に、そのまわりにどやどやと集う、制服姿の野次馬たち。校庭の一角にロープが張られ、なにかが起こった場所を示していた。
僕は野次馬の一人を捕まえて、聞いた。
「なにがあったんだ?」
「飛び降りだよ、飛び降り自殺!」興奮した声で彼は言った。
飛び降り自殺か。たぶんそいつもつらかったんだろうな。わざわざ学校で飛び降りたと言うことは、学校そのものか、あるいはこの学校の生徒に抗議するつもりだったのかもしれない。
僕がこの次飛び降りたら、マスコミは大きく取り扱ってくれるかもしれない。なにしろ、中学生が連続して飛び降りるのだから。そして大きく取り扱ってくれるほど、木田たちは追い込まれていく。
そんなことを考えている自分に気づいて、僕は身震いをした。おそらくは罪もないまま死んでいった自殺者。その死体の前にいるのに、その目の前でそんなことを考えていた。何となく冒涜のような気がして、僕はその考えを頭から振り払おうとした。
「だれが飛び降りたんだ?」
その質問は当然で、ごく普通のものだった。しかしこの答えは、決して普通の、僕の予想できる答えではなかった。
「1年3組の…確か木田とか言うやつらしい」
「木田が?」
どうして、木田が?他のやつならともかく、木田が自殺だって?どうなってるんだ、いったい?
ほんとうに木田か…?
僕は野次馬をかき分け、ロープにたどり着いた。
そこで見えたものは、白いチョークでかかれた人型に、紅くしぶいた血の残り。死体はすでにどこかへ運ばれたらしく、妙な格好で踊っているように見える人型のまわりを、捜査員たちがばたばたと動き回っていた。
知り合いの姿を見つけ、声をかける。
「木田が飛び降りたって、ほんとうか?」
「ああ…」と言って振り向いたそいつの顔が、一瞬でこわばった。
ああ、そういうことか。僕の顔もこわばる。彼とは、たぶん違った理由で。
「…どうやらほんとうらしいな」
それだけ言って歩き出す。
あいつの顔がこわばったのは、木田がほんとうに死んでいるから。そして、木田を殺したのが、僕だと思っているから。
考えてみれば当然かもしれない。木田が殺されたのか、それとも自分で空を飛んだのか。それがわからない以上、木田が誰かに殺されたとすれば、一番疑わしいのは僕だ。僕自身、そう思う。
とすると、僕は捕まってしまうのだろうか?やってもいない事件のせいで。それも、木田なんかのせいで?
そんなことはないだろう。もしこれが他殺だったら、警察が必死になって捜査するはずだ。とすれば、僕がやってないことはすぐにわかるだろう。何しろ、彼らはプロなんだから。
けれども、新聞なんかではよく冤罪のニュースを耳にする。警察も万能というわけじゃない。もし、僕が疑われたりしたら…
僕が考えていると、横から何かの記者らしい人に声をかけられた。
「殺された木田君って、どんな子だった?」
どんな子、といわれても、思ったことを言うわけにいかないじゃないか。
「そうですね、まじめで明るい子でした」当たり障りと誠意のない答え。
「昨日会ったときも、特に変な様子はなかったですし」
この何気ない答えに、彼は色めき立った。
「昨日の彼の様子について、もっと詳しく聞かせてくれないかな」
彼の必死な様子に、しかし僕はたじろいだ。
「もうすぐ授業なんで」と去ろうとしたところで、彼に名刺を渡され、「何か思いだしたことがあったら、個々にすぐに連絡してほしい」と言われた。
正直勝手だと思った。捨てようと思ったが、名刺なんて初めてみるので、しばらくためつすがめつしてからポケットへと入れた。
僕が入ると、教室の空気が変わる。それはいつものことだったけれど、今日は極め付きだった。
僕が来るまではにぎやかだった教室が、完全に静まり返った。
誰も僕の方を見ようともせず、ただ敵意と軽蔑の雰囲気だけが、しょう気のようにたちのぼっていた。
まあ、ある程度予想していたことだ。とはいっても、やはり応える。
有坂は来ていない。昨日のことが、まだショックなのだろう。胸が痛んだが、無理矢理押さえつけた。
そして罪悪感から逃れるために、有坂が今すぐにでもドアから入ってくるところを想像した。
けれど、有坂は始業のベルが鳴っても姿を現さなかった。
「みんなはもう知ってると思うが、きのう木田が飛び降り自殺をした」
やってきた担任の倉本の説明に、みんなが一斉に質問を始めた。
「木田は、ほんとうに自殺だったんですか?」
内海というクラスメイトが、疑問を顔いっぱいに浮かべて尋ねた。
「遺書があったそうだ」
倉本の短い説明に、クラスはいっそうざわめいた。
「遺書には、なんて書いてあったんですか?」
三浦というやつの声がした。
「『みんな、ごめんなさい。さようなら』だそうだ」
クラスのざわめきは、さらに大きくなった。
「警察はなんて言ってるんですか?」唐沢の声がする。
「警察は自殺だと断定した。遺書と靴も見つかったし、特に不審な点もないらしいからな」
「俺には、木田が自殺したとは思えません。自殺する理由がないじゃないですか」
高原の声が響いた。
「昨日だって、俺たちと遊んでたんですよ。そのときはすごい楽しそうでしたし、自殺するようなようすはかけらもなかったです。もし自殺だったら、そのときになにか気配がしてもよさそうなものじゃないですか」
楽しそう…ね。そりゃ楽しかったろうさ、抵抗できないやつをいたぶるのはな。
僕は昨日のことを思いだして、吐き捨てた。心の中で。
「最後だから、無理してたとは思えないか?おまえたちが気づかなかっただけで、ほんとうはずっと苦しんでたのかもしれない。いや、自殺するくらいだから、たぶんすごく苦しんでいたはずだ。それをわかってやれなかった俺が、あいつを殺したのかもしれないな…」
倉本が、絞り出すような沈痛な声で言った。
そんなことはないと思う。僕たちもずっと木田のそばにいたけど、そんなそぶりは毛ほどもなかった。それに、ほんとうなら倉本が責任を感じる筋はない。もし倉本が気づいたとしても、木田はどんな助力も拒んだはずだから。そんなことを他人に知られるくらいなら、それこそ死を選ぶかもしれない。
生徒と教師は、同じ世界には住んでいないのだから。
倉本の発言で、高原も一応黙った。納得したと言うよりも、反論ができなくなったと言った方が正しいだろうが。そしてそれを境に、木田の気持ちをわかってやれなかったことに対する反省が、あちらこちらで聞こえてくるようになった。かたちばかりの、反省。本当は人が何を考えているかなんて、誰にもわかりはしないのに。
けれど、ほんとうにどうして木田は死んでしまったのだろう?あの遺書では、なにが起こったのかさっぱりわからない。
この日は放課後までなにも起こらなかった。
有坂は、今日も最後まで学校に姿を現さなかった。
ホームルームでは倉本が、木田の通夜の話をした。今日は友引だから、明日の夜に行われるそうだ。みんなはそれを神妙に聞いていた。僕はもちろん行く気はなかった。
そして僕はごく平穏にうちへと帰った。高原たちの妨害は、まったくなかった。木田がいなくなったから、いじめがおさまったのかもしれない。そんな希望が、かすかに浮かんだ。
それが恐ろしく浅はかな希望にすぎないということを、翌日僕は思い知ることになる。