第二十話 Deus ex machina
「ちくしょう…」
高原のうめき声で、僕は現実へと引き戻された。
高原の手には、冴え冴えと光るナイフがあった。
「こうなったら、おまえを道連れにして…」
高原の目には、尋常ではない光があった。見ると、他の奴らも、男も女もみんな得物をとりだしている。といっても、僕の目から見てもその握り方はぎこちない。人を脅すために見せつける、ただそれだけのためにナイフを使ってきた証拠だ。もしくは、自分の安全と自尊心を守るための、ただのこけおどしとして。
とはいっても、それだけに追いつめられた今は何をするかわからない。ナイフの怖さを知らないから。
「こんなことしても、なんにもならないぞ。僕を殺したところで、ここにはすぐにひとがくる。たった十分か二十分で、僕を殺した証拠を消すことなんてできるわけがない。どっちにしても、おまえらは捕まるぞ」
いいながら、さりげなく入り口の方へ体を寄せていく。
「うるせえ!」
優等生にしては陳腐な言葉を吐いて、高原がこちらに向かってきた。
「有坂!」
小さく叫んで、僕は有坂の手をつかみ、力任せに引っ張った。高原のナイフをかわし、そのまま教室の外へ回りこむ。左手で有坂を抱き留めながら、右手で入り口のドアを閉め、そこで踏みとどまってドアへと倒れ込む。誰かの指を挟んだらしい。何かが砕ける感触。それでも僕はドアを押し続け、やがて完全にドアは閉まった。
中から強い力で押されている。高原達が、力任せにこのドアを開けようとしているのだ。ありったけの力を、ドアへと掛ける。それでも、何度も体当たりを食らうたび、ドアが外へとたわむ。このままでは、ドアが破られるのは時間の問題だ。
腕の中の有坂を、ちらりと見る。
手伝ってもらいたかったけれど、それは都合がよすぎる。
有坂を裏切ったのは、僕なんだ。
手伝ってなんていえない。
それに有坂にしても、ここで僕が死んだ方が都合がいいだろう。
こうなった以上、有坂が助かるには、高原達と同じ方法…僕を殺して、証拠を消してしまうことしかないから。
だから僕は、有坂には頼まなかった。自分一人で、ドアを押し続ける。
「黒川君…」
有坂が、腕の中で身じろぎした。
「どうして、わたしを助けてくれたの?わたし、黒川君を、殺そうと…」
「だからって、あんなところにおいとけないよ!」
思ったより、ずっと強い声が出た。有坂が、びくっと身をすくませる。
「あんなところにおいといたら、有坂さんが殺されるかもしれないよ。そんなのはいやだ。
…僕は有坂を裏切ったけど、それでも、有坂が殺されるのなんか嫌だ。
どこかに逃げて。せめて、消防車が来るまでは。そうすれば、たぶん、生きてはいられるから」
それを聞いて、有坂が一瞬、泣きそうに顔をゆがめる。
そして、そのまま僕の腕から抜け出し、どこかに去っていった。
…よかった。これで、有坂が死ぬことはなくなった。
あとは、消防車が来るまで持ちこたえるだけだ。
…それが一番難しいことは、よくわかっていたけれど。
ドアに掛かる力は、ますます強くなっていった。
これまで持ちこたえていたことの方が不思議なんだ。
消防車は、まだ来ない。
また、強い衝撃が来た。
たぶん、次はもたない。
もう、体に力が入らない。
手足のあちこちが痛い。膝ががくがくと震えている。
それでもドアに力を掛け、最後の衝撃に備えようとしていたとき…
「黒川君!」
有坂が、そこにいた。
大きなロッカーを、一生懸命に引きずってきていた。
そして僕の脇に、ドアの入り口にしっかりと立てかける。
これだけで、ドアはほとんど動かなくなった。
そのあとも、有坂は机や椅子を次々と持ってきて、無言のままドアに立てかける。
やがて外開きのドアは、完全に動かなくなった。
中からはドアを力任せにたたく音が聞こえる。破られることはないだろうけど、それでも怖くて、僕らはずっと体をドアに押しつけていた。
「…有坂さん、どうして…」
僕の質問に、有坂は少し悲しげな顔をしただけだった。
中からは、悔しまぎれの高原の声が聞こえてくる。
「有坂はおまえを裏切ったんだぞ。そんなやつが信用できるのか?」
「おまえよりはな」短く、僕は答える。
「有坂」里中の声。
「これを計画したのはあんたじゃないの。もしそっちに残ったら、警察に捕まって少年院に送られるわよ。それでもいいの?」
有坂の顔が青ざめた。が、きっぱりと首を振る。
「もう…嫌だよ。檻の中で、みんなにばかにされて暮らすのは。このままそっちに戻ったところで、結局いじめられるのは変わらないもの。だったら、あんた達の作った檻の中だけは、絶対入らない。それなら、本物の牢屋の方がまだまし」
いたたまれなくなった。そこまで彼女を追いつめたのは僕なのに、今はなんにもしてやることができない。
「もっと早くから、こうしていればよかった。どちらにしても捕まるのなら、黒川君と里中さん達なんて、くらべるのもおかしいよ。黒川君は、できる限りのことはしてくれた。それで、じゅうぶん」
そう言う有坂の体が震えているのに、僕は気づいた。
けれど、抱きしめられない。支えてはあげられない。
有坂をこんな状況に追い込んだのは、有坂が捕まりそうになっているのは、僕のせいなんだ。
とても、そんなことはできない。
だから、震えている有坂を、ただじっと見ていることしか、僕にはできなかった。
消防車のサイレンの音が、やっと遠くから近づいてきた。
「頼むから、おとなしくしててくれないかな。見苦しいから」
「おまえ…」
「もうすぐ消防車が来るから、それまでの我慢だよ」
もちろん、あいつらはわめき立てる。それを無視し、僕はいった。
「でも、わからないことがひとつあるんだ」
質問を、ドアの向こうに投げかける。
「いったい、誰が首謀者だったんだ?いや…誰を首謀者にするんだ?」
ドアの向こうの騒ぎが、一瞬でやんだ。ほんとうに、ぴたっと。
「…どういうことだ?」
「有坂は計画を立てただけだろ。有坂をこの計画からはずして、木田と秋川を殺し、僕らをスケープゴートにしようとしたとき。その計画を立てて実行に移したリーダーが、必ずいるはずなんだ。それは、誰だったんだ?一番責任のある奴は、誰だったんだ?」
その一言で、ドアの向こうの雰囲気が変わったのがわかった。
ぼそぼそと声が漏れてくる。お互いをののしり合う声、いらだった声。
どうやらあいつらの攻撃対象は、仲間内の誰かに移ったようだ。
ドアにかかる圧力は、もう感じられなかった。その代わり、口論だけが激しくなっていく。
「有坂」小声で呼んだ。
「なに?」おびえたように身をすくませる有坂。
「そろそろ消防車が来るよ。玄関まで降りていこう」
「ドアを押さえなくてもいいの?」
「そこまで手が回らないよ。それより、このままだと…」
そのとき、中から悲鳴が聞こえた。今まで、聞いたこともないような、それでいて二度と忘れられなくなるような、そんな声だった。
「急ごう!巻き込まれたら大変だ!」
そういって、呆然としている有坂の手を引き、階段を駆け下りる。
玄関には、いらだった様子の消防士達がいた。
「ベルを押したのは、君たちか?こういういたずらは、困るんだが…」
「それはあとです!とにかく、すぐに来て!」
僕の声に切迫したものを感じたのだろう、何人かの消防士が僕と一緒についてきた。
理科準備室の前のバリゲードを見て、彼らは絶句した。
「これは、いったい…」
だがその声も、中からの声で中断された。
悲鳴がまた上がったのだ。それから、何かが倒れるような音。
彼らは一瞬顔を見合わせたあと、すぐさま掃除道具入れをどかし、ドアを開けた。
準備室の中は血の海だった。
佐久間が首から血を流し、里中の制服の胸は赤く染まっていた。
そのほかのものも、体の至る所から血を流し、ぴくりとも動かずに横たわっている。
たったひとり、奥の方でふるえている男がいた。高原だった。目にはすでに正気の光はなく、血塗れのナイフを見つめて何事かをぶつぶつとつぶやいていた。
後ろの方で、だれかが吐く音がした。
みなさん、ここまで「冬の話」読んでいただきまして、ありがとうございました。
感謝感激雨霰です。
さて、一応の決着は付きましたが、この話はもう少し続きます。
「なんじゃあこりゃあ!」とか思った方は、タイトルの意味を調べてみるといいかもしれません。
意味するところとしては、「不自然な解決」です。