第二話 屋上
カーテンを開けると、弱々しい冬の光が射し込んできた。低いところでぐずぐずしている太陽は、冷たくとぎすまされた空気を暖めることができずに所在なげにたたずんでいた。
さわやかというには、寒すぎる朝だった。
学校へなんか、行きたくなかった。けれど行かなければ、家に嫌がらせがくることはわかりきっていたし、そもそもこんな事で休みたくはなかった。ここで学校を休んだとしても、彼らを喜ばせるだけだ。
急いで着替えを済ませ、家を飛び出した。
この時間なら、彼らはまだ学校へきてはいないはずだ。せめて登校するときだけでも、彼らから離れていたかった。
それに、朝の学校は結構好きだった。誰もいない教室の窓から、ようやく目を覚ました太陽の光がさしこんできて、教室の机や椅子や、ちらちらと光りながら舞い狂う埃をじっと見ている、その瞬間が。
そういったとき、僕は少しだけ今を忘れることができる。彼らも、そばで見ているだけのやつもいない。
教室のドアをあけると、予想通り彼らの姿はなかった。僕は誰もいない教室を堪能し、しばらくぼうっとしていた。けれども、そうしているうちに、僕は忘れていたかったことをまた思い出してしまった。
もうすぐ、彼らがやってくる。昨日のことについて文句を言い、そしてまた昨日と同じ事が繰り返される。 それはわかっていたけれども、だからこそここにはいたくなかった。せめて朝のうちだけでも、それからのがれていたかった。
僕は屋上へと行くことにした。この学校の屋上は、入口に頑丈な鍵がかかっていて、普段は生徒の立ち入りのできないようになっている。柵は老朽化しているし、そもそもひとが立ち入りできるようにはできていないのだという。
けれども、僕は鍵を持っていた。前にクラスの行事で屋上の鍵を借りてきたとき、こっそりと合い鍵をつくっておいたのだ。このころすでにクラスで孤立していた僕にとって、これはどうしても必要な物だった。
そしてこの合い鍵をつくって以来、屋上は僕の唯一の居場所になった。なにかあったとき、ひとりになりたいとき、僕はいつもここにいた。あまり頻繁に使うと、木田たちに感づかれてしまうので、そのおそれのない時にしか使うことはできなかったけれども。
古ぼけた階段を登りきると、そこに屋上への入口があった。鍵を差し込み、回すと、どっとあふれてくる光のむこうに、誰もいない小さな場所があるはずだった。
でも、そこは思った通りの場所ではなかった。射し込んでくる光の向こうに、小さな人影が見えたのだ。
…いったい、だれが…?
そう思いながら足を踏み出したとき、光がやってきてその人影を照らした。人影は光をはらんで、一瞬見えなくなり、ただ輪郭だけが金の糸ででもふちどられているかのように輝いていた。
目が光にようやくなれると、その人影もようやくだれだかわかる程度になった。
有坂優樹だ。
有坂は同じクラスの女の子だ。クラスでも、僕と同じようにかたすみでひっそりとしていることが多い。おとなしくて、めだたない女の子だ。ただ、最近は何人かと連んでいることが多い。それは決してよいことではなかった。
有坂も、いじめのターゲットになってしまったのだ。
こちらのほうは、主に女子が中心となっている。休み時間、彼女が女子のグループに呼び出されてどこかにつれていかれるのを、何度か見たことがあった。
そういうときの有坂は、いつも決まって無表情で、まるでこれからおこることを受け入れてしまっているように、すべてをあきらめてしまっているかのように見えた。僕は、彼女はそういう表情しかできないんじゃないかと思っていた。
けれど、今僕が見ている有坂は、いつものそんな彼女とはまるで別人のように見えた。彼女は柵に腕を乗せて、ただぼうっと空の方を見つめていた。顔には落ち着いた、そして満ち足りた表情を浮かべ、その表情を見て僕は、彼女が空を見ていた訳ではないことが分かった。
彼女は…。
「誰!?」
突然、有坂が叫んだ。どうやら、気づかれたらしい。
「ごめん。驚かせちゃったみたいだ」
「黒川くん?なんで、こんなとこにいるの?」
そう聞いた彼女の顔には、紛れもない怯えの表情が浮かんでいた。
「鍵が開いてたんだ。それで、ちょっとよってみたんだ」
「嘘!鍵なんかあけたままにしておく訳がないじゃない!絶対に閉めたわ!」
彼女の声は悲鳴に近かった。
どうやら、ごまかしてはいけないときらしい。僕はポケットからここの合い鍵を取り出した。
「作ったんだよ、合い鍵」
「どうして、そんなものを?」
「…たぶん、有坂さんと同じ理由だと思う」
「あたし?あたしはべつに…」
「じゃあ、何でこんなところに入れたの?」この問いに、彼女は明らかにうろたえた。
「たまたま鍵があいてたから…」
「うそはやめようよ」というと、彼女はうつむいた。
「…どうして、わかったの?」
「ずいぶんここになじんでるように見えたんだ。初めてには、とても見えない」
彼女がさっき見ていたものは、この空のその向こう。誰もいない世界。
「そう…」とだけ言うと、彼女は歩き出した。
「どこへいくの?」
「教室に帰るの」
「…僕のせい、か」
彼女は答えず、そのまま歩き出した。
「待った!」思わず、呼び止めていた。
「なに?」無表情な顔。いつもの、有坂の顔。
「僕が帰るよ。先にいたのは有坂さんだしね。…それから、」
すこしためらったが、続けて言う。
「ここで見たことは忘れる。なんなら鍵をあげてもいいよ。僕はもう、来ないと思うから」
「どうして?」
「どうしてって、有坂さんに悪いよ。せっかくここでのんびりしてるんだ。人の居場所に土足ではいるもんじゃないし」ポケットから鍵を取り出し、有坂に渡す。
「ぼくがさっきここにきたとき、有坂さんがすごくおこってるようにみえたけど、あれは、ぼくっていう邪魔者が、この場所にきたからだろ?有坂さんが唯一息ができるこの場所を、めちゃめちゃにしてしまうと思ったからじゃないか?」
自分一人の宝箱。そこに他人がいれば、誰だって腹が立つ。もし有坂と僕の立場が逆だったら、僕は間違いなく腹を立てていたはずだ。
「じゃあね。じゃまして悪かった」
そういってきびすをかえす。たったひとつの居場所がなくなるのはつらかったけれど、それでも有坂からここを取り上げる気にはならなかった。
ドアの前まできたとき、後ろからそでをつかまれる。
「やっぱり、この鍵は返すよ」有坂が、手のひらに鍵を載せて差し出していた。
「だって、ここは黒川君も使ってたんでしょ?ここでしか息ができないのは、黒川君もそうなんじゃないの?」
「だからって、人から居場所を取り上げる趣味はないんだ。それじゃ、あいつらと同じになっちゃうし」
「同じところをほかのひとも使うからって、居場所にならないとは限らないよ」
有坂はそういって、僕に鍵を握らせる。
「結局鍵は二人とも持ってるんだし、お互いのじゃまをしなければ、別に黒川君がいてもいいよ」
嘘だ、と思った。少なくとも僕は、自分の居場所に人は絶対はいってきてほしくなかった。一人きりでいられる場所。それが、僕らには絶対に必要だった。
けれど、だからこそ有坂がそこで譲ってくれると聞いたとき、ぼくはとてもうれしくなった。有坂は、ぼくの立場をわかってくれている。ぼくがここを譲ると言ったときどんな気分だったかも、たぶんわかっているのだろう。でなかったら、これまで通りここを使っていればいいだけなのだから。
「いいの?」だから、ぼくはそう尋ねた。
「うん。わたしがとやかくいうことじゃないしね」というと、彼女はまた空に意識をとばし始めた。
唇のあたりが、少しだけゆるんでいる。それを見てぼくは、彼女が完全に呆然としているのではないことを知った。
照れていたのだ、彼女は。だれかにいいことをしてやれた自分に。それに気づいて、ぼくも少し頬をほころばせた。
自分がずいぶん久しぶりに笑ったと気づいたのは、少し経ってからだった。
ぼくたちは、とてもよく似ていた。似たような苦しみを抱えて、同じ場所でわずかにいやされていた。
けれど、他人のこないこの場所に、もし似たような人がきたら、そして苦しみを分かち合ってくれたら。私にもやっぱりこの世界にいる場所はあるのだと、気づかせてくれたら。自分はいらない人間じゃないと、もし思うことができたら。それはなんてすばらしいことなんだろう。
たとえそれが錯覚であったとしても。
…僕は学校へ行くことが、次第に楽しくなり始めていた。
学校では、いじめは相変わらず続いている。クラスで僕と言葉を交わす者も、やはりだれもいない。
それでも屋上のドアを開けると、彼女がほほえんでくれていて、そこで僕たちは、昼食を食べながら、流れる雲を見ながら、おしゃべりをくりかえした。
話したいことは、きりもなくあった。授業のこと、おもしろかったテレビ、身近にあった小さな事柄。そういったささいなことを、僕らはいつまでも話し合った。こういった「普通の学生」らしいことをするのは久しぶりだっただけに、それはとてつもなく新鮮で、どうしようもないくらい楽しいことだった。
たまにいじめの話になることもあったけれど、やがてその話はお互いにさけるようになった。どちらも、相手にはどうすることもできないことなのだ。ここでやっと手に入れた、静かで落ち着いた、宝石のような空間。それを壊したくはなかった。
そして今日も、屋上のドアを開けると有坂がいる。
血のにじんだ僕の顔を見て、有坂が心配そうな顔をする。
「大丈夫?」
「別に。いつものことだから」そう強がって、有坂を見る。なんだか、元気がない。少し制服が汚れている。
「なにかあったの?」
「ううん、なんでもないの」
「そう」何かあったことくらいは、見ればすぐわかった。でも、何も言わない。
そのまま、お互い黙って空を見上げる。
「黒川君は、季節ならいつが好きなの?」唐突に、有坂に聞かれた。
「有坂は?」
「私は冬がいいわ。それも、雪がすごく積もって、何も見えなくなるくらいの日がいい。どっちを向いても、ただ白しかなくて、その中に埋もれて、凍るの。わたしだけじゃない、虫も鳥も森もひとも、みんな凍って、ひとりぽっちになるの。物音ひとつしない、何もかも覆い尽くされた中で、眠るの」
そういうと、有坂は寂しげに笑った。
「黒川君はどうなの?」
「僕?僕は夏だな。夏は、みんなにぎやかだから。鳥はなくし、蝉はうるさいし、海や山にも人がたくさん来る。みんな楽しそうで、この世に悩みなんかないような顔をしてて。夜にはお祭りで、幸せそうな顔をした人がどっと町に繰り出す…」
「そんなのの、どこがいいの?私たちには関係ないじゃない!」
「それでもさ、人から生き物から自然まで、なにもかも生き生きしてるから。あれを見てると、ひょっとしたらこの世はそんなに捨てたものじゃないんじゃないかって。ひょっとしたら、僕はこの世にいてもいいんじゃないかって、そう思えるから」
そのまま二人で空を眺めた。
冬だというのに雲一つない、穏やかな、平和な青空が広がっていた。
夢のような時間が過ぎていった。つい話し込んで、日が暮れかかることもあった。下校の音楽のかかる頃になると、かけていた屋上の鍵を開けて、誰もいないことを確かめてから二人で降りていく。そんなとき、隣の有坂を見ながら、僕はいいようもない幸福感を覚えていた。
…けれども、夢はいつか醒めるものだ。