第十一話 氷雨
次の日は雨だった。低くたれ込める灰色の空から、銀色の雨の線が何千と流れ下る、そんな日だった。
冬の雨は嫌いだ。ただ冷たくて、体の芯からぬくもりを奪い取る。ひとが、生きていくのさえいやになりそうな、そんな陰鬱な日。
せめて、雪ならよかったのに。雪なら積もれば、この世のすべてを覆い隠すこともできるだろうから。けれど現実には、この世は雨によって閉ざされている。
有坂の家へ寄ったが、有坂はもう出かけたそうだ。今日は係の仕事があるらしくて、僕が来たらそう伝えてくれるように頼んだという。
だったらしかたがない。僕は有坂の母に礼を言うと、学校へ向かって歩き出した。
少しだけ残念だ。
教室に入ると、沈黙が広がるはずだった。
けれど、この日はいつもとは違っていた。
みんなは前のように、いや、もっと興奮して、何かを話し合っている。
なにかあったのだろう。でも、いったいなにが?
「すごかったってさ、ビルの下に、秋川の死体があって…」
「なんか、頭から飛び降りたらしくて。顔とかぐちゃぐちゃで、だれだかわかんないくらいだったんだって」
秋川が死んだって?
「それ、ほんとか?」
思わず近くにいたやつに詰め寄る。
「ああ。木田の後追いってうわさだけど…」
おびえたように後ずさるそいつを問いつめることはせず、あたりのみんなの反応を見る。
今まで話していたみんなが、一斉にこちらを向いていた。その顔には、紛れもない怯えがある。
ということは…
有坂の席をみる。
投げ出された鞄。
何があったのかは、すぐにわかった。
急いで教室を出る。
何とかしないと。どんな気持ちで、あいつらの言うことを聞いたんだろう?
靴を履き替え、傘をつかんでそのまま走る。
差した傘はじゃまだから。たたんでしまった。すぐに、雨滴が目にかかる。容赦なく降り続く雨が、体から精気を奪っていく。ぺったりと張り付いたシャツが気持ち悪いし、凍り付きそうに寒い。
それでも僕は、有坂を捜し続けた。
どこだ。どこにいる。
商店街。駅前。通学路。
そのときふと、ある光景が浮かんだ。おとついの夜の、あの光景。あのときのことを、向こうも大切だと思っているなら…
公園の入り口をくぐる。
有坂はそこにいた。氷雨の中、傘も差さずにベンチに座っていた。
雨の中でふるえる有坂は、頼りなげで、はかなげで、さわったらそのまま崩れそうに見えた。そしてそのまま、雨にただ打たれていた。
制服はもうびしょぬれで、髪や服の端から滴が滝のように流れていた。
そこにいる彼女は、初めて屋上であったときの彼女とは違っていた。おとつい公園であったのとも、あの日に、屋上の鍵を奪われた日の彼女とも違っていた。
そこにいる彼女は、ただおびえてうずくまっていた。
そんな彼女を、みていたくはなかった。
だから、声をかけた。
「有坂さん」
すると、彼女がゆっくりと顔を上げた。
「黒川君…」
「きて、くれたんだ…」
そういうと、彼女はかすかにほほえんだ。
「きてくれたんだ、じゃないよ!ずぶぬれじゃないか!ほら、傘持ってきたから。帰ろう」
そういうと、有坂はゆっくりと首を振った。
「いやだよ…。ここにずっと、このままいたい…」
「たぶんそういうんじゃないかと思ったんだ。でもだめだよ。このままだと、倒れちゃうよ」
「別にいいよ」
「でも…」
言いかけて、気づいた。おとついの夜のぼくと同じだ。
たぶん彼女は、本当にここから離れたくないんだ。
どうして?自分を寒さの中に包み込んでしまえるから。自分が、このまま消えてしまえるように思えるから。
だから…。
「ここ、すわってもいいかな」
「うん」
「僕がいるとじゃま?」
「ううん、そんなことない。でも…」
「いいから」
強引に座ると、傘を彼女の上にさした。
やがて、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
「教室に入るとね、何にも声がしないの。なあんにも。それで、みんなこっちをみて、ひそひそはなすの。どうしたのかって思ったわ。そのうち、宮野さんががまんできなくなったみたいで、こっちにきてね。
「どうして秋川を殺したのよ」って。
「どうして秋川の電話の時、行って止めなかったのよ」って。
わたしね、黒川君の気持ち、初めてわかった。確かに黒川君にはいいたくないよ。おとつい、あんなにえらそうなこといったのにね。でも…」
有坂の泣き顔を見るのは、これで何度目になるだろう。
そっと手を伸ばした。
細い肩を引き寄せると、有坂の頭が胸の中に収まった。
「だいじょうぶ。これからは、ずっとそばにいるから。どんなことがあっても、有坂の味方だよ」そんなせりふが喉元まででかかったけれど、自制した。
代わりに、有坂がこれ以上雨に濡れないように、彼女の体を抱え込むように強く抱きしめた。
あの日あんなに暖かかったのに、有坂の体は冷え切っていた。まだ息をしているのが不思議なくらいに思えた。だから有坂が暖まるまで、ずっと抱いていた。
十分ぐらいそうしていると、だんだん有坂の泣き声が小さくなってくるのがわかった。
「落ち着いた?」
「うん、なんとか。ありがとう…」
「じゃあ、家まで送るよ。どっちにしろ、学校へはもう行けないだろうし。荷物は明日とってこよう」
「黒川君はどうするの?」
「僕も今日は帰るよ。教室を飛び出して来ちゃったからね。いまさら戻れないと思う」
僕がそういうと、彼女は小さくほほえんだ。
それはほんのかすかなものだったけど、僕には十分だった。