まだ、気がつかないで。
彼が、こちらに向かって歩いてくる。
もちろん、私に向かって歩いてくるわけじゃない。
理科の時間は理科室に移動するので、彼の教室より私の教室の方が理科室に近いだけ。
彼の顔を正面から見られるチャンスはあんまりない。
だから、早く廊下に出なくちゃ。
彼に気付かれないように、不自然にならないように廊下で用事をさがさなくちゃ。
ああ、顔を見るだけなのにドキドキしてきた。
彼のクラスの子たちが、はしゃぎながら廊下を歩いている。
大きい声でふざけている集団の中に――彼。
彼のペンケースが背の高い男の子たちの間で、パス回しされてる。
「チョーシこくなよ、テメーら!返せ!」
「おーっと、あと10cm背が伸びれば取り返せるのにねぇ。」
なんてやりとりが聞こえてくる。
背が低くて、ノリがよくて、すぐムキになる彼は「いじられキャラ」だ。
みんなに好かれてる。
嬉しい、今日は顔が見られた。ラッキー。
同じクラスの子たちがうらやましいけど、彼の近くに立つのはイヤだ。
だって、私は彼よりもずっと背が高い。
中学の2年になって、すぐのことだった。
部活帰りの通学路に、バラバラになった新聞紙が風に舞っていた。
みんな、足に絡まりついたそれを蹴ったり、避けたりして歩いてた。
邪魔なのに誰も片付けない。
私も、その中のひとりだったけど。
「なんだよ、拾って読むのかよ。きったねーなー!」
後ろでふいに男子の声がして、振り向いた。
邪魔だった新聞紙を拾って丸めている男の子。
「向こうに、福祉施設あるじゃん。目が悪い人が歩けなくなるし。」
普通の声で答えたのは、多分隣のクラスで一番背が低い男子だった。
「オマエって、チビのくせに時々いい子だなー!」
「チビの分だけ、地面が近いんだよなー。」
と、冷やかす声を聞きながら小さく丸め終わった後
「チビチビうるせぇよ!テメーたちがデカイんだよ!」と
友達に蹴りを入れていた。
その時私はなんだかとっても恥ずかしかった。
自治委員なんかやって、「よく気がつく」って言われて
私自身も「私はよく気の回る、責任感のある子」だと思ってたから。
それ以来、ずっと彼のことが気になってる。
背が低いのに、バスケ部でレギュラーなこと。
成績はイマイチで、数学だけが平均以上。
部活用のシューズはナイキ。
小さな情報だけが、頭の中に積み上がっていく。
本当は話しかけてみたいけど、きっかけはない。
コクハクしてみようかな。
誰かに相談してみたいけど、それが他の人にバレちゃったら
もう、学校になんか行けない。
彼と向かいあって立った時に、私が見下ろす形になるのも怖い。
俺より10cmも背が高い女はイヤだ、とか言われそう。
悪い予感ばっかり。
あ、授業終わりのチャイム。
彼が理科室から戻ってくる。
今日はもう一回、顔を見られるかも。
早く廊下に出なくちゃ。
お読みいただき、ありがとうございました。