『夫の腕の中にいたのは親友でした~男爵家の財産を奪われ父まで殺されたモブ令嬢ですが、静かに復讐を始めます~』
第一話 夫の腕の中にいた親友
「おかえりなさいませ、奥様」
使用人の言葉に、私は微笑んだ。
「ただいま」
夕暮れの王都。
私は市場で買ったパンの袋を抱えながら屋敷へ戻る。
フロスト男爵家の娘だった私が嫁いだ先は、子爵家。
決して大貴族ではない。
けれど優しい夫がいて、温かい家族がいる。
それだけで十分幸せだった。
少なくとも――今日までは。
「旦那様は?」
「書斎にいらっしゃいます」
「そう」
私は少し嬉しくなった。
今日は結婚三周年。
ささやかながら、夫の好きなアップルパイを焼こうと思っていた。
驚かせてあげたい。
そんなことを考えながら廊下を歩く。
だが、書斎の前まで来た時だった。
中から聞こえてきたのは。
女の笑い声だった。
「ふふっ、アルバート様ったら」
私は立ち止まった。
……誰? 聞き覚えのある声。
だが思い出せない。
使用人だろうか。
私は軽く扉を叩こうとして――手を止めた。
続いて聞こえてきた夫の声。
「アイスは本当に都合が良かった」
私は凍り付いた。
心臓が大きく脈打つ。
今……何て言った?
「男爵家の財産を取り込むためには必要だったからな」
「でも、あの女は本気で愛されてると思ってるわよ?」
「当然だろう。そう思わせたんだから」
クスクスと笑い声が響く。
私の背筋を冷たいものが流れ落ちた。
嘘、何かの冗談よね?
だってアルバートは優しかった。
いつも私を気遣ってくれた。
病気になった時も看病してくれた。
プロポーズだって。
愛していると言ってくれた。
だから。
だから――。
「それよりリリア」
夫の声が甘くなる。
「今夜は泊まっていくだろう?」
「もう、奥様に悪いわ」
「気にするな。あいつは気付かない」
その瞬間。
頭を殴られたような衝撃が走った。
リリア。
私の親友だった。
学院時代から十年以上の付き合い。
結婚祝いにも来てくれた。
泣きながら幸せになってと言ってくれた。
そのリリアが。
夫と?
私は震える手で扉を少し開いた。
隙間から見えた光景。
夫の腕の中で笑うリリア。
そして。
二人の唇が重なる瞬間だった。
――ガタン。
持っていたパン袋が落ちた。
書斎の中が静まり返る。
しまった。
そう思った時には遅かった。
勢いよく扉が開く。
夫と目が合った。
「アイス……?」
リリアの顔から血の気が引く。
私は何も言えなかった。
声が出ない。
涙も出ない。
ただ胸の奥が空っぽだった。
夫が慌てて近付いてくる。
「違うんだ!」
違わない。
私でも分かる。
今見た。
全部見た。
「アイス、話を聞いてくれ」
「……そう」
自分でも驚くほど冷静な声だった。
「分かったわ」
「本当か?」
夫が安堵したように笑う。
私は静かに頷く。
「ええ。よく分かった」
もう十分だった。
愛も。
信頼も。
友情も。
全て壊れた。
そして、その夜。
私はさらに知ることになる。
父が不審な死を遂げたこと。
男爵家が莫大な借金を背負わされたこと。
そして、その全ての裏で夫と親友が糸を引いていたことを。
まだ私は知らない。
自分が復讐のために立ち上がることを。
そして数年後。
王国中の貴族たちがこう語ることになる。
『絶対に敵にしてはいけない女』
第二話 私はただのモブ令嬢だった
その夜、私は一睡もできなかった。
夫アルバートと親友リリアの裏切り。
あの光景が何度も頭の中で繰り返される。
けれど涙は出なかった。
あまりにも現実感がなかったからだ。
まるで誰か別の人間の人生を見ているような気分だった。
窓の外が白み始めた頃。
私は寝室を抜け出した。
夫は昨夜から戻っていない。
おそらくリリアのところだろう。
考えたくもなかった。
「少し、整理しましょう」
私は父から教わった。
辛い時ほど感情ではなく事実を見ろ、と。
だから書斎へ向かった。
夫の書斎。
本来なら妻である私が自由に入れる部屋だった。
だが結婚して三年。
いつの間にか私は入らなくなっていた。
夫が嫌がったからだ。
『仕事の資料ばかりで危ない』
『難しい話ばかりだから』
『君は気にしなくていい』
そう言われ続けていた。
今思えば、おかしな話だった。
私は男爵家の娘として会計も契約書も学んでいる。
理解できないはずがない。
「……見せたくなかったのね」
私は机の引き出しを開けた。
すると。
一冊の帳簿が目に入った。
「これは……?」
見慣れない帳簿だった。
ページをめくる。
そして、私は凍り付いた。
「え……?」
そこには父の署名があった。
フロスト男爵家。
私の実家だ。
さらにページをめくる。
借金。
融資契約。
担保。
売却。
次々と現れる文字。
「嘘……」
手が震える。
父は二年前に亡くなった。
急病だった。
誰も疑わなかった。
私も。
だが、帳簿の日付を見る。
父が亡くなる直前から、莫大な金が動いていた。
その金の行き先。
全てアルバートだった。
「どういうこと……」
その時だった。
廊下から足音が聞こえた。
慌てて私は机の陰に身を隠す。
扉が開く。
入ってきたのはアルバートとリリアだった。
「昨日は焦ったわね」
リリアが笑う。
「だが問題ない」
アルバートは余裕の笑みを浮かべた。
「あの女は馬鹿だからな」
胸が痛んだ。
だが声は出さない。
「フロスト家も完全に終わったしな」
「本当に上手くいったわよね」
「病弱な老人は扱いやすい」
二人が笑う。
その言葉を聞いた瞬間。
私の世界が止まった。
「……病弱?」
「借金の契約書にサインさせるのも簡単だった」
「薬を増やしておけば判断力も鈍るものね」
リリアがくすくす笑う。
「本当に便利な親子だったわ」
頭の中で何かが切れた。
父は騙されていた。
利用されていた。
そして、殺された。
私は口を押さえた。
叫びそうになるのを必死で堪える。
今出ていけば終わりだ。
証拠もない。
力もない。
ただ潰されるだけ。
だから耐えた。
耐えて。
耐えて。
耐え抜いた。
やがて二人は部屋を出ていった。
静寂が戻る。
私はその場に崩れ落ちた。
「お父様……」
涙が溢れた。
止まらなかった。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
私は何も知らなかった。
幸せな妻を演じながら。
父を殺した人間を愛していた。
どれほど泣いただろう。
気が付けば昼になっていた。
涙を拭き、鏡を見る。
そこには別人のような顔が映っていた。
弱い女。
騙されるだけの女。
誰にも注目されないモブ令嬢。
それが私だった。
でも――。
「もう終わりよ」
静かに呟く。
私は帳簿を抱えた。
父の形見のペンダントを握る。
そして初めて口にした。
心の底からの本音を。
「アルバート」
「リリア」
「私から全てを奪ったことを後悔させてあげる」
モブ令嬢の復讐が始まった。
まだ誰も知らない。
王国中の貴族を震え上がらせる復讐劇の幕が上がったことを――。
――アイス=フロストの名を。
第三話 王都最強の情報屋とモブ令嬢
復讐を誓った翌日。
私は一人で王都の下町へ向かっていた。
質素な灰色のドレス。
貴族令嬢とは思えない地味な装い。
けれど、それが私だった。
元々私は社交界でも目立たない存在だ。
誰も私を覚えていない。
誰も気にしない。
それが今だけは好都合だった。
「黒猫亭……ここね」
王都の裏路地。
薄暗い路地の奥に小さな酒場があった。
表向きはただの店。
しかし裏では有名だった。
王都の秘密が集まる場所。
そして、王都最強の情報屋がいる場所として。
私は扉を押し開けた。
昼間だというのに店内は薄暗い。
数人の客が酒を飲みながらこちらを見た。
その視線に緊張する。
だが引き返さない。
もう失うものはなかった。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から声がした。
黒髪の青年だった。
二十代後半だろうか。
整った顔立ち。
だが、その銀色の瞳だけが異様だった。
まるで全てを見透かしているような目。
「何をお探しで?」
「人を探しています」
「名前は?」
「アルバート・グランディス」
その瞬間。
青年の眉が僅かに動いた。
「ほう」
私は銀貨を置く。
「彼の秘密が欲しいのです」
「面白い」
青年は笑った。
「普通の貴婦人なら夫の秘密など知りたがらない」
「普通ではありませんので」
青年の笑みが深くなる。
「なるほど」
そして、彼は私を真っ直ぐ見た。
「では質問を変えましょう」
空気が変わった。
「あなたは何を望む?」
「証拠です」
「違う」
銀の瞳が細められる。
「あなたは何を望む?」
私は息を呑んだ。
その問いの意味が分かったからだ。
秘密を暴きたいのか。
破滅させたいのか。
殺したいのか。
何を望むのか。
私はゆっくり答えた。
「全部です」
酒場が静まり返る。
「父の人生を壊した」
「私を騙した」
「私の家を奪った」
「だから――」
拳を握る。
「何もかも失わせます」
青年は数秒黙った。
やがて。
楽しそうに笑った。
「気に入りました」
「え?」
「自己紹介がまだでしたね」
青年は立ち上がる。
優雅に一礼した。
「レオン」
「王都で最も嫌われている情報屋です」
その名前は知っていた。
裏社会で知らぬ者はいない。
王侯貴族の不正。
商会の汚職。
貴族の隠し子。
どんな秘密でも暴く男。
それがレオン。
「なぜ私に協力を?」
レオンは肩をすくめる。
「退屈だからです」
「は?」
「あなたの夫は小物だ」
彼は笑う。
「だが小物ほど面白い秘密を隠している」
そう言うと、一枚の封筒を差し出した。
「開けてください」
私は恐る恐る中を見る。
そして。
「なっ……!」
思わず息を呑んだ。
そこには。
アルバートが複数の貴族と密会している記録。
偽造契約書。
横領の証拠。
賄賂の記録。
さらに。
「父の……」
父を騙した契約書の原本まであった。
震える手で紙を握る。
「どうして……」
「昨日から調べました」
レオンは紅茶を飲む。
「一晩で十分でしたよ」
化け物だ。
私は本気でそう思った。
だが、味方ならこれほど頼もしい存在もいない。
「条件は?」
レオンは楽しそうに笑う。
「簡単です」
嫌な予感がした。
「あなたの復讐劇を最前列で見せてください」
「……それだけ?」
「それだけです」
私は呆然とした。
だが、彼の目は本気だった。
きっと退屈しのぎなのだろう。
常人には理解できない。
けれど。
私は手を差し出した。
「協力をお願いします」
レオンはその手を握る。
「契約成立です、アイス嬢」
その瞬間。
復讐はただの誓いから計画へ変わった。
証拠がある。
味方もいる。
準備は整い始めていた。
そして数日後。
社交界最大の夜会で。
アイス=フロストは最初の反撃を開始することになる。
夫も。
親友も。
第四話 夜会で離婚を宣言されたので、全て暴露します
王都最大の秋季夜会。
煌びやかなシャンデリアが輝き、貴族たちが優雅に談笑している。
本来なら私のような男爵令嬢など目立たない。
誰も気にしない。
それがいつものことだった。
けれど今夜だけは違う。
私は主役になる。
望んでではなく。
復讐のために。
「アイス様」
隣でレオンが囁く。
「準備は?」
「できています」
私の手には一冊の帳簿。
父を陥れた証拠。
夫の不正の証拠。
全てが詰まっていた。
「では始まりますね」
レオンが楽しそうに笑った。
その時だった。
会場中央で拍手が鳴る。
視線が集まる。
そこに立っていたのは。
アルバート。
そしてリリアだった。
仲睦まじく腕を組んでいる。
会場がざわつく。
既婚者であるアルバートが堂々と別の女性を伴っているのだ。
普通ならあり得ない。
だが、彼は自信満々だった。
「皆様、本日はお集まりいただき感謝します」
アルバートが声を上げる。
「私から発表があります」
嫌な予感が走る。
いや、予想通りだった。
アルバートは私を見た。
勝ち誇った笑み。
「妻アイス=グランディスとの婚姻を解消することを決定しました」
会場がどよめく。
「なっ!」
「離婚だと?」
「夜会で?」
貴族たちが騒ぎ始める。
だがアルバートは続けた。
「妻は長年に渡り夫人としての責務を果たさず、さらに実家フロスト家の借金問題を隠していた」
ざわざわと囁きが広がる。
「私は被害者です」
嘘。
全部嘘だ。
けれど以前の私なら何も言えなかっただろう。
俯いて泣いていたはずだ。
だが今は違う。
私はゆっくり前へ出た。
「そうですか」
アルバートが笑う。
勝利を確信した顔だった。
「異論はないな?」
「ええ」
私は微笑んだ。
「離婚には賛成です」
その瞬間。
会場が静まり返る。
アルバートも驚いた顔をした。
私が抵抗すると思っていたのだろう。
「ただし」
私は帳簿を掲げる。
「まずは事実を確認しましょう」
「何?」
私は大きな声で言った。
「皆様にお聞きしたいのです」
貴族たちがこちらを見る。
今まで誰も見向きもしなかったモブ令嬢を。
「夫が妻の実家から不正に金を奪った場合」
「それは犯罪ではありませんか?」
ざわっ。
空気が変わった。
「何を言っている!」
アルバートが叫ぶ。
私は構わず帳簿を開く。
「こちらはフロスト家の資産記録」
「そしてこちらはグランディス家へ流れた資金の記録です」
次々と書類を見せる。
会場の貴族たちの顔色が変わる。
「まさか……」
「本物か?」
「数字が一致しているぞ」
アルバートの額に汗が浮かぶ。
「偽物だ!」
「ではこちらは?」
私は次の書類を出した。
父の署名入り契約書。
その隣に並ぶ偽造契約書。
「筆跡鑑定の結果付きです」
レオンが用意してくれた。
完璧な証拠。
逃げ場はない。
「偽造……」
「契約書の捏造か!」
「貴族として終わりだぞ!」
会場が騒然となる。
アルバートの顔が青ざめた。
「違う!」
「私は知らない!」
見苦しい言い訳だった。
そして、私は最後の一撃を放つ。
「それともう一つ」
リリアが嫌な顔をする。
私は微笑んだ。
「夫と親友の不貞の証拠です」
「――っ!?」
会場が爆発した。
「なんだと!?」
「愛人か!」
「最低だ!」
次々と非難の声が飛ぶ。
リリアの顔から血の気が引いた。
「嘘よ!」
「本当に?」
私は封筒を開いた。
中から出てきたのは。
抱き合う二人の絵姿。
密会の記録。
宿の宿泊証明。
完璧な証拠だった。
「そんな……」
リリアが膝をつく。
アルバートは言葉を失った。
私は二人を見下ろした。
かつて愛した人。
かつて信じた親友。
でも。
もう何も感じない。
「離婚届はこちらです」
私は書類を差し出した。
「慰謝料も請求いたします」
「ふざけるな!」
アルバートが叫ぶ。
しかし。
「ふざけているのは貴様だ」
低い声が響いた。
会場の入口。
そこに立っていたのは王国監査局の制服を着た男たちだった。
「アルバート・グランディス」
「横領、詐欺、文書偽造の容疑で拘束する」
会場が悲鳴に包まれる。
アルバートの顔が絶望に染まった。
私は静かに息を吐く。
これで終わりではない。
むしろ始まりだ。
なぜなら。
レオンの調査で分かっていた。
アルバートの背後にはもっと大きな黒幕がいることを。
父を殺した本当の犯人は。
まだ笑っているのだから――。
まだ何も知らないまま――。




