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第5話 白い令嬢は檻の中にいる

 リーネ・フォン・アーレンスから手紙が届いたのは、茶会の三日後だった。


 封蝋は薄い桃色で、押された紋章も遠慮がちだった。

 アーレンス男爵家の紋章は、古い家のものではない。

 細い枝に小鳥が一羽とまっている。

 いかにも折れそうで、いかにも飛べそうにない。


 コンスタンツェはそれを見た瞬間、封を切る前から嫌な予感がした。


「イーダ」


「はい」


「この手紙、読まずに燃やした場合、何か問題がありますかしら」


「差出人がアーレンス男爵令嬢でございますので、問題になるかと」


「では、読んでから燃やすのは?」


「お返事が必要かと」


「世の中はなぜ、こんなにも逃げ道を塞ぐのかしら」


 イーダは答えなかった。答えなくてもよいほど、いつものことになっていた。


 コンスタンツェはしぶしぶ封を切った。

 中の便箋には、控えめで丸い文字が並んでいる。

 文章は丁寧すぎるほど丁寧で、一文ごとに頭を下げているようだった。


 内容は、先日の茶会で助けてくれた礼。

 それから、王太子殿下から「コンスタンツェに王宮作法を教わるとよい」と勧められたので、差し支えなければ一度会ってほしい、というものだった。


 コンスタンツェは便箋を閉じた。


「死刑宣告ですわ」


「お嬢様」


「違うと?」


「お茶のお誘いでございます」


「柔らかく包んだ死刑宣告ですわ。絹に包んでも刃物は刃物ですのよ」


 机の上には命乞い帳が開かれていた。


 二十二、リーネ・フォン・アーレンスは危険。ただし本人は悪くない可能性あり。


 コンスタンツェはその下に、小さく書き足した。


 二十二補足、本人が悪くない場合、なおさら厄介。


「お断りになりますか」


 イーダが聞いた。


 コンスタンツェは扇を開いて、閉じた。


 断れば、王太子の中の「冷たい婚約者」が育つ。

 受ければ、リーネと関わる。

 どちらも嫌だ。


 人生とは、たいてい二つの嫌なものから、より死ににくそうな方を選ぶ作業である。


「受けますわ」


「よろしいので?」


「よろしいわけがないでしょう。でも、断るよりはましですの」


 そうして三日後、リーネはルーデンドルフ公爵邸に来た。


 白に近い薄水色のドレスを着て、栗色の髪を低くまとめている。

 装飾は少なく、けれどそれがかえって彼女の細さを目立たせていた。

 春先の若葉というより、まだ寒さの残る朝に咲いてしまった花のようだった。


 コンスタンツェは応接室で彼女を迎えた。


 茶器は白磁。

 銀の匙は置かせなかった。

 蜂蜜はある。

 これは精神安定のためであって、毒杯対策ではない。

 ……たぶん。


「本日はお招きいただき、ありがとうございます」


 リーネは深く頭を下げた。


「お招きしたというより、王太子殿下がわたくしの逃げ道を塞いだだけですわ」


「え?」


「何でもありません」


 コンスタンツェは微笑んだ。


 自然な笑みではない。だが、不自然でも殴るよりはましである。


「おかけなさい。立っていられると、わたくしが威圧しているように見えます」


「そんなことは」


「あります。わたくしは顔が強いのです」


 リーネは困ったように目を伏せ、椅子に腰を下ろした。

 座り方は悪くない。

 ただ、手の置き場に迷っている。

 膝の上で指を重ねたりほどいたりしていた。


 一度目のコンスタンツェなら、その迷いを笑っただろう。


 王宮に出るなら、その程度は身につけておきなさい。

 田舎の小鳥が、金の籠に迷い込んだようですわね。


 そんな言葉を、たぶん吐いた。


 思い出すと、口の中が苦くなる。

 毒杯を飲んでいないのに、毒は過去から滲み出るらしい。


「手を動かしすぎですわ」


 コンスタンツェが言うと、リーネの肩が跳ねた。


「申し訳ございません」


「謝る前に止めなさい。謝罪は手の震えを止めませんわ」


「あ、はい」


「それから、椅子には浅く座りすぎないこと。逃げ出したいのが丸見えです」


 リーネは小さく息を呑んだ。


「逃げ出したいわけでは」


「では、帰りたい?」


 リーネは答えなかった。


 コンスタンツェは茶杯を持ち上げ、香りを確かめた。

 林檎と蜂蜜の匂い。

 毒の匂いなど分からないが、少なくとも嫌な記憶は少し薄まる。


「正直におっしゃい。ここには王太子殿下はいません」


 リーネは膝の上の手を見つめた。


「……ご迷惑ではないかと、思っております」


「迷惑ですわ」


 リーネの顔が白くなった。


 イーダが背後で、ごく小さく咳をする。


 コンスタンツェは慌てて言葉を足した。


「ただし、あなた個人というより、状況が迷惑ですの。そこは切り分けなさい。人間、何でも自分のせいにすると、あとで便利に使われますわ」


「便利に?」


「ええ。罪悪感のある人間は、非常に扱いやすいのです」


 リーネは少し顔を上げた。


 その目は怯えていたが、愚かではなかった。むしろ、ずっと考えている目だった。考えているのに、口に出す前に飲み込んでしまう目である。


「殿下は、わたしを助けてくださいます」


「でしょうね」


「ありがたいことだと、思います」


「思わなければならない、と?」


 リーネはまた黙った。


 春の応接室は明るい。窓の外には剪定された薔薇が並び、庭師が遠くで土を返している。風が薄いカーテンを揺らし、茶の表面に小さな影が落ちた。


 コンスタンツェは、その影を見ながら言った。


「庇護されること自体は悪くありませんわ。雨の日に屋根の下へ入れてもらうようなものですもの」


「はい」


「でも、屋根の持ち主が出口の鍵も持っているなら、それは少し考えた方がよろしいわ」


 リーネは、ゆっくり瞬きをした。


「殿下は、そんな方では」


「あなたを閉じ込めるつもりはないでしょうね」


「では」


「つもりがなくても、檻は作れます」


 リーネの指が、また動いた。

 今度はコンスタンツェは注意しなかった。


「アーレンス嬢」


「はい」


「殿下があなたを守る時、あなたは何をしたいか聞かれていますの?」


 リーネは答えようとして、口を閉じた。


 その沈黙だけで、十分だった。


 コンスタンツェは胸の奥が少し痛んだ。

 痛む筋合いはない。自分はこの娘を助けたいわけではない。

 助けると、未来の自分の首が遠のく。

 それだけだ。


 それだけのはずだった。


「まず、謝りすぎるのをおやめなさい」


 コンスタンツェは言った。


「ですが」


「謝罪は高価です。安売りすると、いざという時に値がつきませんわ」


「謝罪に、値が」


「あります。人間の言葉には、たいてい相場がありますの。社交界はそういう場所です」


 リーネは小さく頷いた。


「それから、殿下の後ろに隠れないこと」


「隠れているつもりは」


「なら、隠されているのです。どちらにせよ、外から見れば同じですわ」


 リーネの睫毛が震えた。


 きつく言いすぎただろうか。

 だが柔らかく言うと、この娘は全部を自分の非として飲み込む。飲み込んだものは、やがて毒になる。


 毒は、もう十分だった。


「ルーデンドルフ様は」


 リーネが、細い声で言った。


「なぜ、わたしにそのようなことを教えてくださるのですか」


 コンスタンツェは答えに詰まった。


 死にたくないから。

 あなたが泣くと、王太子殿下がわたくしを悪女にしやすいから。

 三年後のわたくしが、毒杯と豚小屋と堀に近づくから。


 どれも正しい。

 どれも言えない。


「あなたがあまりに無防備だからですわ」


 結局、そう言った。


「無防備な人間が近くにいると、こちらまで危なくなりますの」


「わたしが、あなたを危なくするのですか」


「正確には、あなたを守りたがる人間たちが」


 リーネは黙り込んだ。


 その沈黙には、先ほどまでと少し違う色があった。

 怯えだけではない。

 小さな疑問が、初めて自分の足で立とうとしている。


 コンスタンツェは茶を飲んだ。


 蜂蜜の甘さが舌に残る。

 生きている者の味だった。


 帰り際、リーネは玄関ホールで立ち止まった。


「ルーデンドルフ様」


「何ですの」


「先ほど、わたしを守りたがる人たちが危ないとおっしゃいました」


「ええ」


「わたしも、危ないのでしょうか」


 コンスタンツェは少し考えた。


 リーネ自身は悪女ではない。

 だが危険ではある。

 白い布は、血がつくとよく目立つ。

 誰かがそれを掲げれば、戦旗になる。


「あなたは、火ではありませんわ」


 コンスタンツェは言った。


「でも、油を持った人たちが周囲に多すぎます」


 リーネは目を伏せた。


「では、わたしはどうすれば」


「まず、燃えやすい場所に立たないことですわ」


「難しいです」


「知っています」


 リーネは小さく笑った。

 本当に小さな笑みだった。

 王太子の傍で見せる、感謝と緊張が混ざった笑みではない。

 少し疲れて、少し困って、少しだけ自分のものに見える笑みだった。


 その顔を見て、コンスタンツェは嫌な気分になった。


 見てしまった。

 また余計なものを。


「また、お伺いしてもよろしいでしょうか」


 リーネが言った。


 コンスタンツェは即答したかった。

 駄目ですわ、と。


 だが、リーネの後ろには王太子がいる。王太子の後ろには、あの広間がある。その奥には銀の毒杯が待っている。


「……火傷しそうな時だけにしなさい」


 コンスタンツェは言った。


 リーネは、今度は少しだけはっきり笑った。


「はい」


 馬車が去ったあと、コンスタンツェは玄関ホールに立ったまま、深く息を吐いた。


「イーダ」


「はい」


「命乞い帳を」


「もう用意しております」


 有能すぎる侍女は、ときに恐ろしい。


 コンスタンツェは帳面を受け取ると、立ったまま書き足した。


 二十七、リーネ・フォン・アーレンスは弱い。ただし愚かではない。

 二十八、謝りすぎる人間は、後で誰かの道具にされる。

 二十九、こちらが火傷しそう。


 最後の項目を見て、彼女は顔をしかめた。


「お嬢様」


「何ですの」


「火傷なさいますか」


「しませんわ」


 コンスタンツェは帳面を閉じた。


「わたくしは、火元に近づかない女ですの」


 そう言った瞬間、なぜかイーダは黙ってしまった。


 その沈黙が、少しだけ疑っているように聞こえた。

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