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第23話 水辺のない屋敷

 婚約解消は、思ったより静かに決まった。


 少なくとも、表向きは。


 王太子アルブレヒトとコンスタンツェ・フォン・ルーデンドルフの婚約は、ハルトヴィヒ家側近による不正工作、王太子派内部の混乱、両家の信頼関係の再整理を理由として、双方合意のうえで解消された。


 たいへん上品な文面だった。


 上品な文面というものは、たいてい血と泥と毒を洗ってから干した布のようなものである。乾いてしまえば、一見きれいに見える。


 だが、コンスタンツェは知っている。


 その布の下には、毒杯と豚小屋と堀があった。


 マグヌス・フォン・ハルトヴィヒは正式に取り調べを受けた。ハルトヴィヒ家そのものも無傷では済まない。王宮管理局の副長は更迭され、関わった下役たちも処分されることになった。


 エリーザベト・フォン・ヴァルテンブルクは、毒婦という噂から完全に自由になったわけではない。

 だが、王宮薬草管理の助言役として招かれる話が出た。

 本人は「面倒です」と言いながら、毒の扱いを無知な者に任せる方がもっと面倒だと言って受けるつもりらしい。


 ヴィルヘルミーネ・フォン・ゼッケンドルフは、帳簿の強さによって未亡人としての悪評をさらに別の方向へ育てた。

 今では「男を破滅させる女」ではなく、「帳簿で男を黙らせる未亡人」と呼ばれている。本人は気に入っているようだった。


 リーネ・フォン・アーレンスは、王太子の直接庇護から離れた。

 アーレンス男爵家も王太子派から少し距離を置き、彼女自身はしばらく地方の親類のもとで静かに過ごすことになった。

 別れ際、彼女はコンスタンツェに手紙を送ってきた。


『馬車は、自分で選びました』


 たった一行だった。


 コンスタンツェはその手紙を、命乞い帳に挟んだ。


 なぜ挟んだのかは、よく分からない。

 挟む場所がそこしかなかったから、ということにした。


 王太子アルブレヒトは、謹慎というほどではないが、公務の一部を制限された。


 彼は一度、ルーデンドルフ公爵邸を訪れた。


 コンスタンツェは会うか迷った。

 迷った末に、応接室で会った。


 茶器は白磁。銀の匙はなし。

 蜂蜜はある。


 アルブレヒトは以前より少し痩せて見えた。

 美しさは変わらない。

 だが、その美しさに、自分を見るための鏡のような光は少し減っていた。


「コンスタンツェ」


「はい、殿下」


「もう、殿下と呼ばなくてもいい」


「では、何と?」


 少し考え、彼は言った。


「アルブレヒトでいい」


「それは馴れ馴れしすぎますわ。元婚約者というのは、親戚より扱いが難しいのです」


 彼は苦く笑った。


「君は変わらないな」


「かなり変わりましたわ。豚小屋を突破する程度には」


「その話は、王宮でも聞いた」


「王宮の口を縫って回りたいですわ」


「民の間では、好評らしい」


「救国の豚姫などと呼んだ者は、全員名簿化します」


「君らしい」


「殿下」


 コンスタンツェは茶杯を置いた。


「笑いにいらしたのなら、お帰りを」


「違う」


 アルブレヒトはまっすぐ彼女を見た。


 以前のように、相手を自分の物語へ引き込む目ではなかった。

 まだ揺れている。

 まだ若い。

 まだ、自分の正しさを完全には手放せない目だった。


 それでも、一度目よりはずっとましだった。


「謝りに来た」


 彼は言った。


 コンスタンツェは黙った。


「私は、君を見ていなかった」


「ええ」


「そこは否定しないのだな」


「嘘は健康に悪いですわ」


「リーネも、見ていなかった」


「ええ」


「マグヌスを信じすぎていた」


「ええ」


「君のことを、悪女にすれば分かりやすかったんだ」


 その言葉には、痛みがあった。


 コンスタンツェは茶の表面を見た。蜂蜜の色が、光の中で薄く揺れる。


「わたくしも、悪女にされやすい女でしたわ」


「それでも」


「それでも、あなたが悪かった部分はあります」


 アルブレヒトは頷いた。


「そうだな」


 謝罪というものは、受け取るにも体力が要る。


 一度目の自分なら、彼を罵っただろうか。

 あるいは泣いただろうか。

 分からない。


 二度目の自分は、生き残るだけで疲れていた。


「殿下」


「何だ」


「謝罪は高価ですわ」


「リーネにも言われた」


「では、安売りなさらないで」


 彼は顔を上げる。


「わたくしは、あなたを今すぐ許すほど善人ではありません。けれど、あなたが謝ったことは記録しておきます」


「命乞い帳に?」


「なぜご存じですの」


「レーエンスベルク卿が、少し」


 あの男。


 あとで問い詰める。


「書きますわ」


 コンスタンツェは言った。


「ただし、許したとは書きません」


「それでいい」


 アルブレヒトは立ち上がった。


「君が王太子妃にならなくてよかったのかもしれない」


「今さらお気づき?」


「王宮の噴水を全部止めろと言いそうだ」


「一部は止めるべきですわ。開放型の罠ですもの」


 彼は少し笑った。


 その笑いは、以前より軽くなかった。

 だが、その分、少しだけ人間に近かった。


 アルブレヒトが帰った後、コンスタンツェは命乞い帳を開いた。


 百二十四、王太子殿下、謝罪。許したわけではない。記録のみ。

 百二十五、人は自分の正義で他人を見失うことがある。要警戒。

 百二十六、噴水はやはり罠。


 書いていると、イーダが来客を告げた。


「レーエンスベルク卿がお見えです」


「ちょうどよろしいわ。命乞い帳について尋問します」


 オスカーは、相変わらず灰色の上着で現れた。


 手に書類を持っていない。


 それがまず不審だった。


「今日は書類がありませんの?」


「あります」


「どこに」


「頭の中に」


「もっと悪いですわ」


 応接室ではなく、庭に面した小部屋へ通した。噴水は止めてある。庭師には、しばらく止めるよう命じている。水辺のない生活は、文明の基礎である。


 オスカーは窓の外を見た。


「噴水を止めたのですね」


「ええ。平和ですわ」


「庭師が困っていました」


「庭師には蜂蜜菓子を」


「解決策がいつも蜂蜜ですね」


「毒より安全ですもの」


 しばらく、二人は黙って庭を見ていた。


 春の光は柔らかかった。

 薔薇は少しずつ開き始めている。水音がないので、鳥の声がよく聞こえた。


「公爵令嬢」


 オスカーが言った。


「何ですの」


「婚約解消、おめでとうございます」


「祝い方が難しい話ですわね」


「では、ご生還おめでとうございます」


「そちらの方がしっくりきますわ」


 本当に、婚約解消より生還の方が大事だった。


「命乞い帳は続けるのですか」


「当然です」


「まだ命乞いを?」


「人生に油断は禁物ですわ」


「では、項目を一つ増やしていただきたい」


「何を?」


 オスカーは、少しだけこちらを見た。


 その目はいつも通り眠たげで、乾いていて、余計な熱を見せない。

 だが、今日は少し違った。

 紙の奥に隠すものを、珍しく隠しきれていないようだった。


「レーエンスベルク家との縁談について、検討すること」


 コンスタンツェは瞬きをした。


 一度。


 二度。


「……今、何と?」


「レーエンスベルク家との縁談について、検討すること」


「それは、どなたの?」


「私とあなたの」


「あなた、求婚を命乞い帳の項目として提出しましたの?」


「あなたが一番確実に検討する形式かと」


「最低ですわ!」


「そうでしょうか」


「求婚というものには、もっと花とか、詩とか、月とか、そういう無駄な装飾があるものでしょう!」


「必要ですか」


「必要かと問われると、困りますけれど!」


 コンスタンツェは扇を開き、閉じ、また開いた。


 心臓が変な音を立てている。

 毒杯の時とは違う。豚小屋の時とも違う。堀へ落ちる前のそれでもない。


 非常に困る。


「あなたは」


 彼女はどうにか声を整えた。


「わたくしのことを、どう思っておりますの」


「臆病で、強欲で、見栄っ張りで、口が悪く、面倒です」


「求婚前に人を解体する習慣がおあり?」


「ですが」


 オスカーは続けた。


「逃げたあと、戻ってくる」


 その一言で、コンスタンツェは黙った。


「あなたは勇敢ではない。善人でもない。動機はよく汚れている。ですが、最後に自分が本当に嫌う自分になるところで止まる。あるいは、泣きながら戻る」


「泣いておりませんわ」


「記録上は、雨でした」


「なら雨です」


「はい。雨ということに」


 彼は少しだけ笑った。


「私は、そういう人間なら信用できます」


「愛ではなく、信用ですの?」


「愛という言葉は、私が使うと軽くなりそうなので」


「では、信用なら軽くならないと?」


「少なくとも、私はそちらの方が得意です」


 コンスタンツェは窓の外を見た。


 止められた噴水。

 静かな庭。

 薔薇の蕾。

 水音のない午後。


 この男は、自分を美しいとは言わない。優しいとも言わない。救われた女とも、救国の何とかとも言わない。


 臆病で、強欲で、見栄っ張りで、面倒だと言う。


 その上で、逃げたあと戻ってくると言う。


 それは、ひどい褒め言葉だった。


 だが、コンスタンツェには少し深く届いた。


「レーエンスベルク卿」


「はい」


「わたくし、王太子との婚約を解消したばかりですの」


「承知しています」


「公爵令嬢ですわ」


「はい」


「あなたは伯爵家の次男で、書類ばかり持っている、社交的には地味な文官です」


「正確ですね」


「身分差も、家の都合も、父の承認も、世間の噂もあります」


「ですので、今すぐ結婚してくださいとは言っていません」


「では?」


「検討してください」


「命乞い帳に?」


「そこが一番安全かと」


 コンスタンツェは、しばらく彼を見た。


 そして、笑ってしまった。


 小さく。

 不本意に。

 だが、たしかに。


「あなた、本当に面倒な方ですわね」


「お互い様です」


「求婚の返答としては、保留です」


「はい」


「ただし、条件があります」


「何でしょう」


「水辺のない屋敷」


「難しいですが探します」


「豚小屋から遠い寝室」


「それは可能です」


「宝石箱は軽量化」


「箱ごと持ち逃げしない前提で」


「毒杯を置かない」


「当然です」


「蜂蜜を切らさない」


「努力します」


「あと」


 コンスタンツェは少し迷った。


「命乞い帳を勝手に読まないこと」


 オスカーは真面目な顔で言った。


「それは難しい」


「そこは即答で約束しなさい!」


「では、許可を得て読みます」


「許可を出すとは限りませんわ」


「待ちます」


 まただ。


 この男は、待つと言う。


 急かさず、押しつけず、道だけを残す。


 コンスタンツェは扇で口元を隠した。


「では、検討します」


「ありがとうございます」


「喜ぶのは早いですわ」


「承知しています」


「かなり?」


「かなり」


 午後の光が、庭に落ちていた。


 水音はない。

 毒杯もない。

 豚の声もしない。


 ただ、春の風が、止まった噴水の縁を静かに撫でている。


 その夜、コンスタンツェは命乞い帳を開いた。


 百二十七、オスカー・フォン・レーエンスベルクより求婚。形式が最悪。

 百二十八、わたくしを臆病・強欲・見栄っ張り・面倒と評した。失礼。

 百二十九、ただし、逃げたあと戻ってくると言った。評価としては、悪くない。

 百三十、返答は保留。条件、水辺のない屋敷、豚小屋から遠い寝室、軽量宝石箱、毒杯禁止、蜂蜜常備。

 百三十一、命乞い帳を勝手に読まないこと。要監視。


 そこまで書いて、ペンを止めた。


 命乞い帳の最初の方には、震えた字でこう書かれている。


 二十、死にたくない。


 今もそれは変わらない。


 死にたくない。

 痛いのも嫌。

 恥も嫌。

 貧乏も嫌。

 水も、豚も、毒杯も嫌。


 けれど、その下へ新しい行を書けるくらいには、朝が来た。


 コンスタンツェはしばらく考えたあと、最後に一行を加えた。


 百三十二、生きる場所について、検討すること。


 それは命乞いではなかった。


 少しだけ、命乞いではなかった。


 彼女は帳面を閉じ、空になった宝石箱の上に置いた。


 重い箱は、もう彼女を沈めない。


 窓の外では、夜の庭が静かだった。

 止められた噴水の上に、月が落ちている。


 水はまだ怖い。


 けれど今夜は、その月影を見るくらいなら、できた。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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