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第20話 悪女の告白

 銀杯は、広間の光を集めていた。


 それは美しい器だった。

 美しいものほど、時々たちが悪い。

 毒も、死も、名誉も、上等な器に入れられると、人は一瞬だけ中身を忘れる。


 コンスタンツェは忘れなかった。


 忘れようがなかった。


 銀の縁。

 赤黒い液体。

 喉の奥が冷える感覚。

 膝が床へ落ちる瞬間。


 それは今の記憶ではない。誰にも証明できない。けれど、彼女の体にはもう刻まれていた。


 王宮管理局の男は、銀杯を盆に載せたまま立っている。

 雨に濡れたような顔をしていた。

 おそらく、こんな広間の中央で、自分の持つ杯が一斉に見つめられるとは思っていなかったのだろう。


 マグヌス・フォン・ハルトヴィヒだけが、静かだった。


「この杯は、ヴァルテンブルク家の薬草園に隣接する保管庫から押収されたものです」


 彼の声は穏やかだった。


「中には毒草の痕跡がある。王太子殿下への害意、あるいは王宮内の混乱を狙ったものとして、調査すべきかと」


「嘘です」


 エリーザベトが言った。


 彼女の声は低い。

 けれど、硝子の刃のようによく通った。


「その杯は、我が家の保管庫にあったものではありません」


「断言されるのですか、ヴァルテンブルク令嬢」


「断言します」


 エリーザベトは一歩前へ出た。


 広間にいる者たちが、少し後ろへ引いた。

 毒婦と噂される令嬢が毒杯に近づくのだから、無理もない。

 人は噂を信じていない顔をしながら、足だけは正直に動かす。


 エリーザベトは、それを気にも留めない。


「ヴァルテンブルク家では、毒性のある薬草を扱う器に銀杯は使いません」


「なぜ」


 アルブレヒトが問う。


「変色するものがあるからです。薬草の性質を確認するには便利ですが、保管には向かない。保管用なら陶器か暗色硝子を使います」


 マグヌスが言う。


「では、誰かが意図的に銀杯へ移したのでしょう」


「ええ」


 エリーザベトは彼を見た。


「わたくしも、そう思います」


 沈黙が落ちた。


 コンスタンツェは、エリーザベトの横顔を見た。

 白く、冷たく、少しも揺れていない。


 毒婦と呼ばれた女は、毒の前で怯えなかった。

 その代わり、毒を使って誰かが物語を組み立てることを、ひどく嫌っているように見えた。


「杯をこちらへ」


 エリーザベトが言った。


 管理局の男はためらう。


「近づけるな」


 マグヌスの声が飛んだ。


「証拠品です。これ以上、誰かの手に触れさせるべきではない」


「では、証拠品として誰がどこで封じたのですか」


 オスカーが静かに言った。


 彼は広間の中央へ進み、管理局の男の手元を見た。


「封印紙がありません。受領者の署名もない。押収品としての目録番号もない。証拠品として扱うなら、最低限の手続きが必要です」


「急を要したのだ」


 マグヌスが返す。


「急を要すると、毒杯を裸で夜会へ持ち込むのですか」


 オスカーの声は、少しも荒くならない。

 それがかえって鋭かった。


「なかなか斬新な証拠管理ですね」


 コンスタンツェは、こんな時なのに少し感心した。

 この男は本当に手続きで人を刺す。


 マグヌスの顔から、ほんのわずかに温度が消えた。


「レーエンスベルク卿。あなたは今、ご自分の立場を分かっておいでか。管理外記録を勝手に閲覧した疑いがある」


「疑いはあります」


 オスカーはあっさり認めた。


「必要なら、後で調べてください。ただし、その杯の出所と管理経路も同じだけ調べるべきです」


「話を逸らすな」


「逸れていません。証拠とは、出所と経路が命です」


 コンスタンツェは思わず呟きそうになった。


 命綱としては、たいへんよく働く。


 しかし今は、それどころではない。


 銀杯はまだそこにある。

 何もしていない顔で、彼女の恐怖を握っている。


 アルブレヒト王太子は、杯とマグヌスとオスカーを見比べていた。

 その顔には怒りがあり、困惑があり、どこか傷ついたような色がある。


 自分の信じていた正義の道に、急に泥が見えたのだろう。


 泥ならば、コンスタンツェの方が詳しい。

 残念なことに。


「コンスタンツェ」


 王太子が彼女を見た。


「君は、何を知っている」


 その問いは、一度目にはなかった。


 一度目の彼は、彼女に問いなどしなかった。

 裁いた。決めた。断じた。


 今、彼は問うている。


 遅い。

 だが、ゼロではない。


 コンスタンツェは扇を閉じた。


「すべては知りませんわ」


 声が少し震えた。


 広間の床が、白く遠く見える。

 あの夜も、こうして視線が集まっていた。どれだけ叫んでも届かず、言葉が床に落ちて割れた。


 今日は、割れても拾う者がいる。


 そう思いたかった。


「けれど、わたくしは、自分が何をしたかは知っています」


 広間が静まった。


「コンスタンツェ?」


 アルブレヒトの声に、わずかな警戒が混じる。


 コンスタンツェはリーネを見た。


 リーネは立っていた。

 手は震えている。けれど、王太子の後ろではない。自分の足で、少し離れた場所に。


「アーレンス様」


 コンスタンツェは言った。


「わたくしは、あなたに意地の悪いことを言いました」


 リーネのまつ毛が震えた。


 広間に、浅いざわめきが走る。


「あなたの声が小さいことを笑いました。王宮に不慣れなことを見下しました。あなたが殿下の庇護を受けるたび、不愉快になりました。あなたが悪いからではありません。わたくしが、自分の立場を脅かされるのが怖かったからです」


「ルーデンドルフ様」


 リーネが小さく言う。


 コンスタンツェは止まらなかった。


 止まれば、二度と口が開かない気がした。


「イーダにも、使用人たちにも、冷たかった。王太子妃になる女として、屋敷の者は当然わたくしに従うものだと思っていました。ヴィルヘルミーネ様の悪評を聞いて、近づかない方がよいと思いました。エリーザベト様を、毒に詳しい怖い女だと思っていました。実際、怖いですけれど」


「そこで付け足しますか」


 エリーザベトが静かに言った。


「事実ですもの」


「否定はしません」


 広間の空気が、かすかに緩んだ。

 ほんの少しだったが、その少しにコンスタンツェは助けられた。


「わたくしは善人ではありませんわ」


 彼女は続けた。


「高慢で、臆病で、見栄っ張りで、強欲です。自分より弱い相手を見下したこともあります。都合が悪くなると逃げます。逃げる時は金貨も持ちます。宝石箱は持ちません。重いので」


 ヴィルヘルミーネが扇で口元を隠した。


 オスカーは目を伏せている。

 笑っているのかもしれない。あとで文句を言う。


 コンスタンツェは、銀杯へ目を戻した。


「でも」


 喉が詰まる。


「毒は盛っておりません。文書を偽造しておりません。王家に背くほど勇敢でも勤勉でもありません。エリーザベト様に罪を着せるほど賢くありませんし、ヴィルヘルミーネ様の帳簿を操るほど数字にも強くありません。アーレンス様を利用するほど、まめでもありません」


 アルブレヒトが低く言った。


「それは、弁明なのか」


「ええ」


「自分を貶めているように聞こえる」


「正確さを優先しておりますの」


「君は」


 王太子は、言葉を探しているようだった。


「君は、そんな女だったか」


 それは、少し残酷な問いだった。


 一度目の彼は、彼女を悪女にした。

 二度目の彼は、彼女が悪女として不足していることに戸惑っている。


 どちらにせよ、彼は自分の知る形に彼女を入れたがっている。


 コンスタンツェは微笑んだ。


「殿下がご覧になっていたわたくしも、わたくしですわ」


 その言葉は、自分の胸にも刺さった。


「ですが、それだけではありませんの。悪女として便利な部分だけを切り取られても、わたくし困りますわ。わたくしは、もっと複雑で、もっとみっともなくて、もっと生き汚い女ですもの」


 マグヌスが口を開いた。


「見事な自己弁護ですな。己の小さな罪を認め、大きな罪から逃れようとする」


「大きな罪を着せて、小さな罪ごと人を沈めるよりはましですわ」


「沈める?」


 マグヌスの目が光った。


 しまった。


 コンスタンツェは一瞬だけ息を止めた。


 堀。

 水。

 沈む宝石箱。


 マグヌスは知らない。誰も知らない。

 知っているのは自分だけ。


 オスカーが、すぐに言葉を入れた。


「比喩でしょう。公爵令嬢は、水辺を好まれない」


「あなた、そこで助け舟を出すと本当に舟ですわ」


 コンスタンツェは小声で言った。


「沈まない舟です」


「保証できますの?」


「努力します」


 なぜか少しだけ笑いそうになった。

 それを堪える。


 マグヌスは、二人を見た。


「ずいぶん親しいようですな」


「命綱ですので」


 コンスタンツェが言うと、広間の数人が意味を測りかねて黙った。


 オスカーは平然としている。


「私は書記官です」


「兼用ですわ」


「初耳です」


「今決めました」


 アルブレヒトが強く言った。


「茶番はやめろ」


 その声で、広間がまた引き締まる。


 彼は怒っていた。

 だが、その怒りは一度目のように真っ直ぐではない。

 迷いがある。

 迷いがある怒りは、鋭さを失う代わりに、人を傷つける方向を探して揺れる。


「リーネ」


 王太子は彼女を見た。


「君は、コンスタンツェに傷つけられたのだろう」


 リーネの顔が白くなる。


 それは一度目と同じ問いだったのかもしれない。


 違うのは、今のリーネが少しだけ顔を上げたことだ。


「傷ついたことは、あります」


 リーネは言った。


 広間が静まる。


 コンスタンツェは、胸の奥が痛んだ。


 そうだ。

 それは否定してはいけない。


「ルーデンドルフ様のお言葉が怖かったこともあります。自分が小さくて、何もできない人間だと思ったこともあります」


 リーネの声は震えていた。


「でも」


 彼女は王太子を見た。


「わたしが傷ついたことと、ルーデンドルフ様に毒の罪を着せることは、別です」


 アルブレヒトの顔が変わった。


「リーネ」


「わたしは、殿下の正義のための証人にはなれません」


 リーネの手は震えている。

 けれど、その言葉は広間の中央にきちんと立った。


「わたしは、わたしが見たことだけを申し上げます。ルーデンドルフ様は、わたしにきついことをおっしゃいました。でも、火傷しそうな時に止めてくださいました。考えなさいとおっしゃいました。殿下のお言葉も、自分の言葉も、紙に書いて見なさいと」


「彼女に惑わされている」


 アルブレヒトが言う。


 リーネは首を横に振った。


「いいえ。わたしは、初めて惑わされないように考えています」


 その声は小さかった。


 だが、王太子の美しい物語を壊すには十分だった。


 コンスタンツェは、深く息を吸った。


 リーネが物語から降りた。


 なら、自分も降りなければならない。

 悪女の役から。

 毒杯へ続く役から。


 銀杯はまだ盆の上にある。


 コンスタンツェはそれへ歩いた。


 広間がざわめく。イーダは扉の外にいる。オスカーが一歩動いたが、止まった。エリーザベトも、ヴィルヘルミーネも、リーネも見ている。


 銀杯の前に立つ。


 息が苦しい。


 手が震える。


 体が、一度目と同じように気絶しようとしている。

 逃げろと叫んでいる。

 泥へ、豚小屋へ、堀へ。

 いや、違う。

 あそこへは行きたくない。どこへも行きたくない。


 ここに立って、終わらせるしかない。


「その杯は」


 コンスタンツェは言った。


「わたくしには重すぎますわ」


 王宮管理局の男が戸惑う。


「証拠品ですので」


「証拠品なら、床に置きなさい」


「しかし」


「置きなさい」


 自分でも驚くほど強い声だった。


 男は、思わず銀杯を載せた盆ごと低い卓へ置いた。


 コンスタンツェは銀杯を見下ろした。


 飲まない。

 持たない。

 抱えない。

 沈まない。


「わたくしは悪女でしたわ」


 彼女は広間に向けて言った。


「でも、あなた方の都合のよい死に方をして差し上げるほど、親切ではありませんの」


 そして、銀杯を扇で横から払った。


 杯は卓から落ちた。


 床に当たり、甲高い音を立てて転がる。中の液体が白い大理石に散った。赤黒い雫が、床の模様を汚す。


 誰かが悲鳴を上げた。


 コンスタンツェは震えていた。


 けれど、倒れなかった。


「お断りいたしますわ」


 声は小さくなかった。


「毒杯も、豚小屋も、堀も、一度で十分ですの」


 意味を知る者はいない。


 だが、意味が分からなくても、人は拒絶の形だけは理解する。


 広間は静まり返った。


 その沈黙の中で、オスカーがゆっくりと口を開いた。


「殿下。証拠品が床に散った以上、成分確認ができます。エリーザベト嬢、可能ですか」


「可能です」


 エリーザベトが言った。


「今すぐに」


 ヴィルヘルミーネが微笑む。


「その間に、わたくしは帳簿の写しをお見せしましょう。今夜は、ずいぶん実務的な夜会になりましたわね」


 リーネは、コンスタンツェを見ていた。


 その目に涙はなかった。


 コンスタンツェは、やっと息を吐いた。


 床に広がった赤黒い液体は、もう杯の中には戻らない。


 それだけで、少しだけ勝った気がした。

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