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第14話 王太子の恋物語

 リーネ・フォン・アーレンスは、王太子アルブレヒトから贈られた青いリボンを、机の上に置いたままにしていた。


 薄い絹のリボンである。

 よく見ると、織りの中に銀の糸が混じっている。

 光に当てると、朝の水面のように細く光った。


 美しい。


 美しいが、リーネには少し重かった。


 彼女はそのリボンに触れようとして、やめた。

 窓の外では、男爵家の小さな庭に白い花が咲いている。王宮の庭とは比べものにならない。石畳も古く、花壇の縁も欠けている。

 けれど、ここでは誰も彼女に「守ってやる」とは言わない。


 少なくとも、今は。


 机の上には、もう一枚の紙がある。


 コンスタンツェに言われた通り、リーネは王太子の言葉を書き出していた。


『君が困った時は、必ず私に言いなさい』

『君を傷つける者は、私が許さない』

『君は何も悪くない』

『私の傍にいれば、安全だ』


 書いている時は、ありがたい言葉だと思った。


 書き終えて、少し離れて見ると、なぜか息苦しかった。


 君が困った時は、必ず私に言いなさい。


 では、自分が何に困っているのかは、誰が決めるのだろう。


 君を傷つける者は、私が許さない。


 では、自分が傷ついたかどうかは、誰が確かめるのだろう。


 君は何も悪くない。


 それは慰めだった。

 だが、いつもそう言われると、自分が何を考え、何を選び、何を間違えたのかまで、全部遠ざけられていくような気がした。


 リーネはペンを置いた。


 自分は、贅沢なのかもしれない。


 王太子殿下が目をかけてくださる。

 貧しい男爵家の娘には、あり得ないほどの幸運だ。

 父も母も喜んでいる。

 親戚たちは急に優しくなった。

 王宮では、怖い視線もあるが、殿下がいれば誰も大きな声では何も言わない。


 守られている。


 それなのに、苦しい。


 その苦しさに名前をつけるのは、リーネにはまだ難しかった。


 午後、王太子から使いが来た。


 王宮の小庭で会いたい、という招きだった。


 リーネは青いリボンを髪に結ぶか迷い、結ばなかった。代わりに、白い細紐で髪をまとめる。


 馬車の中で、彼女は手紙の一節を思い返した。


 ――鍵を相手だけが持っているなら、それは檻ですの。


 コンスタンツェの声は、きつい。

 けれど、きつい言葉ほど、時々、薄い布を破って中へ入ってくる。


 王宮の小庭は、よく整えられていた。


 背の低い柘植が幾何学模様に刈られ、中央には小さな噴水がある。

 水は明るく跳ねていた。

 コンスタンツェなら顔をしかめるだろう、とリーネは思った。

 あの公爵令嬢は、噴水を開放型の罠と呼んでいた。


 思い出すと、少しだけ笑いそうになった。


「リーネ」


 アルブレヒト王太子は、噴水のそばに立っていた。


 光の中にいる人だった。

 金髪も、青い瞳も、白い手袋も、すべてが王宮の庭に似合っている。彼が立つだけで、そこが物語の一場面になる。


 リーネは頭を下げた。


「殿下」


「来てくれて嬉しい。先日の茶会はどうだった。コンスタンツェに何か言われなかったか」


 最初の問いから、少し息が詰まった。


 リーネは顔を上げる。


「いろいろと、教えていただきました」


「厳しいことを言われただろう」


「はい」


 アルブレヒトの眉が寄った。


「やはりそうか。君は無理をしなくていい。彼女は以前から言葉が強い。君のような優しい娘には、つらい相手だろう」


 優しい娘。


 その言葉は柔らかい。

 だが、柔らかすぎて逃げ場がない。


「ルーデンドルフ様は」


 リーネは、ゆっくり言った。


「厳しいですが、嘘は少ない方です」


 アルブレヒトは意外そうに瞬きをした。


「コンスタンツェが?」


「はい」


「君は、彼女をかばうのか」


「かばう、というより」


 リーネは言葉を探した。


 コンスタンツェは優しくない。

 少なくとも、優しいと言うには態度が悪い。

 声は刺さるし、謝るなと言うし、火傷しそうなら効率的な方法を探せなどと恐ろしいことを言う。


 でも、彼女はリーネに尋ねた。


 殿下があなたを守る時、あなたは何をしたいか聞かれていますの、と。


 それを尋ねてくれた人は、まだほかにいない。


「わたしに、考えなさいと言ってくださいました」


 アルブレヒトの顔に、不快に近い影が差した。


「君は、考えなくていいことまで考えさせられているのではないか」


 リーネの胸が、小さく痛んだ。


 考えなくていいこと。


 それは、誰が決めるのだろう。


「殿下」


「何だい」


「わたしは、何を考えなくてよいのでしょうか」


 アルブレヒトは少し戸惑ったように見えた。


「君を苦しめることだ」


「では、わたしが何に苦しんでいるかは」


 リーネは指先を握った。


「わたしが決めても、よろしいのでしょうか」


 噴水の水音が、急にはっきり聞こえた。


 アルブレヒトは、静かに彼女を見る。

 その目に怒りはない。だが、困惑があった。自分の手の中にいた小鳥が、急に別の枝を見ていることに気づいたような顔だった。


「リーネ。誰かに何か言われたのか」


「いいえ」


「コンスタンツェか」


「違います」


 リーネは少し強く言った。


 自分でも驚いた。


「ルーデンドルフ様は、わたしに命令なさいませんでした。ただ、言葉を書き出してみなさいと」


「言葉を?」


「はい。殿下のお言葉を、紙に」


 アルブレヒトの表情が硬くなる。


「それは、私を疑えということか」


「そうでは」


「リーネ。君は分かっていない。コンスタンツェは昔から、言葉で人を傷つけることが上手い。君の純粋さを、彼女はきっと利用する」


 純粋さ。


 また、一つの名を与えられた。


 リーネは王太子を見上げた。

 彼は心から自分を案じているのだろう。そのことは分かる。そこに嘘はない。けれど、嘘がないことと、正しいことは同じではない。


「殿下」


 声が震えた。


「わたしは、純粋ではありません」


「何を言う」


「怖がりです。人の顔色を見ます。嫌なことを嫌だと言えず、ありがたいふりをします。感謝しなければならないと思うと、息が苦しくなることもあります」


「リーネ」


「殿下に守っていただくのは、ありがたいことです」


 これは本当だった。


「でも、わたしがどうしたいのか、わたしにも考えさせてください」


 アルブレヒトは黙った。


 水の音が続いている。

 白い飛沫が、光の中で砕けては消える。


 しばらくして、彼は穏やかな声で言った。


「君は疲れているんだ。少し休むといい」


 その言葉は優しかった。


 だが、リーネの中の小さな火が、ふっと揺れた。


 疲れている。

 だから、そう言うのだと。

 本心ではなく、一時の迷いだと。


 言葉を紙に書き出したせいで、その形がよく見えた。


「はい」


 リーネは頭を下げた。


「今日は、これで失礼いたします」


「送らせよう」


「一人で戻れます」


「リーネ」


「王宮の門までは、道を覚えました」


 王太子が、また何か言いかける。


 けれどリーネは、それ以上聞かなかった。

 礼をして、噴水のそばを離れる。


 背後の水音が遠ざかる。


 王宮の回廊を歩くと、足が震えた。

 怖かった。

 王太子を傷つけたかもしれない。恩知らずだと思われたかもしれない。コンスタンツェの言葉に惑わされた娘だと、誰かに言われるかもしれない。


 それでも、ほんの少しだけ呼吸がしやすかった。


 王宮の門を出る前、リーネはふと立ち止まった。


 柱廊の向こうに、コンスタンツェの姿が見えたからだ。


 灰青のドレス。

 控えめな真珠。

 扇を持つ手が少し強ばっている。

 そばにはイーダがいた。

 コンスタンツェは噴水のある小庭の方を、露骨に避けるように歩いている。


 リーネは思わず近づいた。


「ルーデンドルフ様」


 コンスタンツェは振り向き、明らかに驚いた顔をした。


「あなた、なぜここに」


「殿下に呼ばれておりました」


「それはお気の毒に」


「お気の毒、ですか」


「いえ、光栄ですわね。貴族社会的には」


 リーネは、少し笑った。


 コンスタンツェは眉をひそめる。


「何を笑いますの」


「すみません。ルーデンドルフ様は、時々、言い直しがあまり言い直しになっていません」


「失礼ですわね」


 だが、コンスタンツェの目はリーネの顔をよく見ていた。

 頬の色、手の震え、呼吸。

 まるで火傷を見つける前のように。


「何かありましたの?」


 リーネは少し迷った。


「殿下に、言いました」


「何を」


「わたしがどうしたいのか、わたしにも考えさせてください、と」


 コンスタンツェは黙った。


 それから、ゆっくり扇を閉じた。


「まあ」


「変でしたか」


「いいえ」


 コンスタンツェは、やや不機嫌そうに横を向いた。


「思ったより早く、燃えやすい場所から一歩下がりましたわね」


「一歩だけです」


「一歩で十分ですわ。火事の時は、まず一歩逃げなければ丸焼けですもの」


「丸焼け」


「比喩です」


「はい」


 リーネは頷いた。


 その時、回廊の奥から男の声がした。


「コンスタンツェ」


 アルブレヒトだった。


 リーネの体がこわばる。

 コンスタンツェは、反射的に一歩後ろへ下がった。


 その一歩があまりに素直な恐怖だったので、リーネは驚いた。


 王太子は二人の前まで来ると、まずリーネを見た。


「ここにいたのか」


「はい、殿下。帰るところでございます」


「少し様子が変だ。無理をしていないか」


 リーネが答える前に、コンスタンツェが口を開いた。


「殿下」


 声は少し震えていた。

 けれど、はっきりしていた。


「アーレンス様は、お帰りになるところですわ。お疲れなら、なおさら引き留めない方がよろしいのでは?」


 アルブレヒトの視線が、コンスタンツェへ移る。


「君が彼女に何か言ったのか」


「いろいろと言いましたわ。わたくし、口数が多いので」


「冗談を聞いているのではない」


「わたくしも、冗談だけで生きているわけではありませんの」


 コンスタンツェの指先が白くなっている。


 怖いのだ、とリーネは思った。

 この人は、王太子殿下が怖いのだ。自分などより、ずっとはっきりと。


 なのに、前に出ている。


 なぜ。


「殿下」


 リーネは言った。


「ルーデンドルフ様は、わたしに考えるようおっしゃっただけです」


「リーネ」


「わたしが、考えると決めました」


 王太子は、また少し困惑した顔をした。


 コンスタンツェがちらりとリーネを見た。

 その目には、驚きと、迷惑そうな色と、ほんの少しの安堵があった。


「……そうか」


 アルブレヒトは静かに言った。


「なら、今日は帰るといい。馬車を用意させる」


「ありがとうございます」


 リーネは礼をした。


 今度は、断らなかった。

 自分で歩くことと、差し出された馬車に乗ることは、矛盾しない。そう思えたからだ。


 リーネが去った後、コンスタンツェは王太子と二人で回廊に残された。


 イーダは少し離れている。

 逃げ道としては、右の廊下。

 左は噴水のある小庭へ続くので却下。

 前には王太子。

 後ろには柱。

 命乞い帳に書くべき状況である。


「コンスタンツェ」


 アルブレヒトの声は低かった。


「君は、リーネに何を吹き込んでいる」


「呼吸の仕方ですわ」


「何?」


「自分の息で立つ方法、と言い換えてもよろしいです」


「君らしくない言い草だ」


「最近、らしくないことをするのが趣味ですの」


「なぜだ」


 その問いは、真っ直ぐだった。


 コンスタンツェは王太子を見た。


 一度目の夜、この人は自分を悪女として見た。

 今は、まだ婚約者として見ている。

 だが、その奥に、もう少しずつ舞台が組まれている気がした。

 リーネを守る正義の王子。

 その前に立つ、口の悪い婚約者。


 その配役に戻りたくなかった。


「殿下」


「何だ」


「わたくし、悪女としては未熟でしたの」


 アルブレヒトは眉をひそめた。


「何を言っている」


「悪女なら、もっと賢くやりますわ。もっと綺麗に嘘をつきます。もっと人を利用します。けれど、わたくしはどうにも臆病で、見栄っ張りで、すぐ余計なことを言う」


「コンスタンツェ」


「ですから、殿下の物語に必要な悪女には、向いておりませんわ」


 王太子の顔が、はっきりと硬くなった。


「私の物語?」


「ええ」


 コンスタンツェは微笑んだ。

 怖かった。けれど、微笑んだ。


「殿下は、誰かを守る時、とても美しく見えますもの。守られる相手と、裁かれる相手がいれば、なおさら」


「君は私を侮辱しているのか」


「いいえ」


 半分くらいは。


「わたくしは、自分の役を辞退したいだけですわ」


 アルブレヒトは何も言わなかった。


 彼の青い目に、怒りとも戸惑いともつかないものが浮かぶ。


 その時、回廊の向こうにマグヌス・フォン・ハルトヴィヒの姿が見えた。


 細い顔。整えられた髪。穏やかな礼。

 一度目の夜、毒杯を差し出した男。


 コンスタンツェの喉が縮んだ。


 マグヌスは何も知らない顔で近づき、王太子へ礼をした。


「殿下。会議の準備が整いました」


「分かった」


 彼はそれから、コンスタンツェへも礼をした。


「ルーデンドルフ公爵令嬢。ご機嫌麗しゅう」


 銀の杯の縁が、脳裏に光った。


 コンスタンツェは扇を握ったまま、どうにか礼を返した。


「ええ。おかげさまで、まだ生きておりますわ」


 マグヌスの眉が、ほんのわずかに動いた。


 オスカーなら気づくだろう。

 だが、ここにはいない。


 王太子は何も言わず、マグヌスと共に去った。


 残されたコンスタンツェは、柱にもたれそうになった。すぐにイーダが寄ってくる。


「お嬢様」


「命乞い帳」


「今ここで?」


「今ここで」


 イーダは小さな帳面を差し出した。


 コンスタンツェは震える手で書いた。


 九十五、リーネ、自分で考えると言った。予想外。

 九十六、王太子殿下、困惑。怒り未満。要観察。

 九十七、殿下の物語に必要な悪女役を辞退。言いすぎた可能性あり。

 九十八、マグヌス・フォン・ハルトヴィヒ接触。まだ毒杯なし。非常に不快。

 九十九、リーネは白いだけではない。細いが、折れてはいない。


 最後の一行を書いて、コンスタンツェはしばらくそれを見ていた。


 折れていない。


 そう書いた自分が、少し不思議だった。


 自分も、まだ折れてはいないのだろうか。


 少なくとも、毒杯はまだ飲んでいない。


 それだけは、確かだった。

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