表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

壁の呪い

作者: 雨音トキ
掲載日:2026/02/28

脱衣所の電気が、チカチカと明滅していた。


西村拓也、三十二歳は、風呂から上がって裸のまま立っていた。


汗が、背中を伝った。


真夏の夜。クーラーは壊れている。


拓也は、壁を見た。


二年前から、そこにあるシミ。


死番虫の死骸。


潰れて、壁に張り付いている。


拓也は、覚えている。


あの夏の夜。


風呂に入ろうとして、壁を這う虫を見つけた。


何も考えずに、指で潰した。


プチッという音と共に、体液が飛び散った。


そのまま、放置した。


二年間。


毎日、それを見ていた。


でも、今夜は——何かが違った。


シミが、脈打っているように見えた。


拓也は、目を細めた。


気のせいか?


いや。


シミが、確かに動いていた。


膨らんでいた。


拓也の喉が、乾いた。


シミから、何かが這い出てきた。


最初は、一本の足。


細い。黒い。節がある。


次に、もう一本。


また一本。


六本の足が、壁から出た。


そして——頭。


触角。


複眼。


羽。


死番虫が、壁から剥がれた。


完全な形で。


生きている。


拓也は、後ずさった。


冷たい壁に、背中が当たった。


死番虫は、拓也を見ていた。


じっと。


動かずに。


拓也の心臓が、激しく打った。


「夢だ……」


拓也は、呟いた。


「これは、夢だ」


頬をつねった。


痛かった。


夢じゃない。


死番虫が、飛んだ。


ブーンという羽音。


拓也の顔の前を横切った。


拓也は、悲鳴を上げそうになった。


でも、声が出なかった。


死番虫は、脱衣所を出た。


廊下へ。


拓也は、濡れた足で廊下に出た。


床に、水滴が落ちた。


死番虫は、ゆっくりと飛んでいた。


まるで、拓也を誘うように。


リビングに入った。


壁に、止まった。


白い壁。


蛍光灯の光で、死番虫の影が壁に映った。


大きく。


歪んで。


拓也は、立ち尽くした。


距離を置いて。


三メートルほど。


死番虫は、動かなかった。


触角だけが、微かに揺れていた。


拓也の耳鳴りがした。


キーンという高い音。


そして——


死番虫が、口を開いた。


いや、虫に口はない。


でも、声が聞こえた。


拓也の頭の中に、直接。


「お前、俺を殺したな」


拓也の全身の毛が、逆立った。


「何を……」


「二年前の夏。お前は、俺を潰した」


死番虫の声は、擦れていた。


乾いていた。


死者の声。


「覚えているだろう?」


拓也の唇が、震えた。


「ああ……殺した……よ」


自分の声が、遠くから聞こえた。


「お前を殺してやる」


死番虫の声に、感情はなかった。


ただ、宣言するように。


拓也は、笑った。


喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。


「お前に……できるわけ、ないだろ」


拓也の手が、震えていた。


「こんな……ちっぽけな虫に……俺が……」


死番虫は、何も言わなかった。


ただ、壁に止まっていた。


じっと。


待っているように。


拓也は、死番虫を潰そうと思った。


もう一度。


今度こそ、完全に。


一歩、前に出た。


足が、重かった。


二歩目。


心臓が、口から飛び出しそうだった。


三歩目。


手を伸ばした。


死番虫まで、あと一メートル。


その時——


死番虫が、鳴いた。


コチ、コチ………。


小さく、乾いた音。


でも、その音は——


拓也の頭蓋骨の中で、増幅された。


コチ、コチ………。


耳を塞ぎたかった。


でも、手が動かなかった。


体全体が、石のように固まった。


筋肉が、硬直した。


関節が、錆びついた。


呼吸が、浅くなった。


心臓が、早鐘を打った。


でも、体は動かなかった。


拓也の目だけが、動いた。


死番虫を見た。


死番虫は、まだ鳴いていた。


コチ、コチ、コチ………。


その音が、拓也の全身を這い回った。


皮膚の下を。


血管の中を。


骨の髄を。


拓也の視界が、赤くなった。


いや、赤いものが見えた。


自分の血管が、透けて見えた。


心臓が、激しく動いているのが見えた。


でも——


心臓が、止まり始めた。


ゆっくりと。


鼓動が、遅くなった。


ドクン……ドクン……ドクン……


間隔が、開いていった。


拓也は、気づいた。


死にかけている。


この虫に。


殺されている。


拓也の意識が、薄れ始めた。


その瞬間——


体が、倒れた。


ドサリ。


床に、倒れた。


でも、意識は残っていた。


わずかに。


そして——


拓也の体が、浮いた。


床から、ゆっくりと。


見えない糸に引かれるように。


壁の方へ。


死番虫がいる壁へ。


拓也は、叫びたかった。


でも、声が出なかった。


喉が、潰れていた。


体は、加速した。


壁に向かって。


速く。


もっと速く。


ゴツン。


拓也の額が、壁に当たった。


痛み。


鋭い痛み。


でも、それは始まりに過ぎなかった。


拓也の顔が、壁に押し付けられた。


鼻が、潰れた。


軟骨が、砕ける音がした。


グシャリ。


拓也は、悲鳴を上げた。


でも、音にならなかった。


口が、壁に押し付けられていた。


歯が、折れた。


舌が、切れた。


血の味が、口の中に広がった。


でも、まだ終わらなかった。


顔だけじゃない。


体全体が、壁に押し付けられた。


胸が、潰れた。


肋骨が、バキバキと音を立てた。


肺が、破裂した。


内臓が、押し潰された。


腕が、平らになった。


骨が、砕けた。


皮膚が、破れた。


血が、飛び散った。


足が、消えた。


肉が、壁に押し込まれた。


拓也は、まだ意識があった。


痛みを感じていた。


すべてを。


体が、薄い膜になっていく感覚。


人間の形を失っていく感覚。


でも、死ねなかった。


意識だけが、残っていた。


そして——


完全に、壁に張り付いた。


拓也は、シミになった。


茶色い。


人の形をした。


でも、ぐちゃぐちゃに潰れた。


顔が、歪んでいた。


目が、飛び出していた。


口が、開いていた。


無音の悲鳴。


死番虫は、その隣で止まっていた。


コチ、コチ、コチ………。


まだ、鳴いていた。


満足そうに。


三日後。


拓也の母親が、部屋を訪れた。


電話に出ない息子を心配して。


合鍵で、ドアを開けた。


「拓也?」


返事はなかった。


母親は、部屋に入った。


暑い。


窓が閉まっていた。


クーラーも止まっていた。


異臭がした。


腐敗臭。


母親の顔が、青ざめた。


リビングに入った。


そして——


壁のシミを見た。


「あ……あ……」


母親の口から、声にならない声が漏れた。


人の形。


息子の顔。


苦悶の表情。


壁に、張り付いている。


母親は、その場に崩れ落ちた。


警察が来た。


鑑識が、シミを調べた。


「人体組織です。DNA鑑定が必要ですが、おそらく西村拓也さん本人のものでしょう」


鑑識の手が、震えていた。


「でも……どうやって……」


刑事が、壁を見た。


人間が、こんな風に潰れるなんて。


プレス機でも使わない限り。


でも、部屋には何もなかった。


機械も。


外傷を負わせた道具も。


ただ——


壁に、人間のシミがあるだけ。


そして、その隣に。


小さな虫が、止まっていた。


死番虫。


動かずに。


じっと。


まるで、見守っているかのように。


その夜。


鑑識が部屋を出た後。


誰もいない部屋。


死番虫が、壁から離れた。


飛んだ。


拓也のシミの上を。


ゆっくりと。


一周した。


そして、再び元の位置に戻った。


壁に、止まった。


シミの横に。


拓也の意識は、まだあった。


壁の中に。


閉じ込められて。


動けない。


叫べない。


ただ、感じるだけ。


永遠の苦痛を。


死番虫の声が、聞こえた。


「お前は、俺を二年間、壁に閉じ込めた。だから、お前も、永遠に壁に閉じ込められる」


拓也は、答えられなかった。


ただ、聞くだけ。


死番虫は、鳴いた。


コチ、コチ、コチ………。。


満足の声。


そして——


時間が経った。


一週間。


一ヶ月。


半年。


部屋は、誰も借りなかった。


事故物件として。


でも、大家は壁を塗り替えなかった。


塗っても、シミが浮き出てくるから。


何度塗っても。


拓也のシミは、消えなかった。


そして、その横に——


死番虫が、いつもいた。


二年前と同じように。


壁に張り付いて。


動かずに。


じっと。


見守るように。


拓也の苦しみを。


永遠に。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ