壁の呪い
脱衣所の電気が、チカチカと明滅していた。
西村拓也、三十二歳は、風呂から上がって裸のまま立っていた。
汗が、背中を伝った。
真夏の夜。クーラーは壊れている。
拓也は、壁を見た。
二年前から、そこにあるシミ。
死番虫の死骸。
潰れて、壁に張り付いている。
拓也は、覚えている。
あの夏の夜。
風呂に入ろうとして、壁を這う虫を見つけた。
何も考えずに、指で潰した。
プチッという音と共に、体液が飛び散った。
そのまま、放置した。
二年間。
毎日、それを見ていた。
でも、今夜は——何かが違った。
シミが、脈打っているように見えた。
拓也は、目を細めた。
気のせいか?
いや。
シミが、確かに動いていた。
膨らんでいた。
拓也の喉が、乾いた。
シミから、何かが這い出てきた。
最初は、一本の足。
細い。黒い。節がある。
次に、もう一本。
また一本。
六本の足が、壁から出た。
そして——頭。
触角。
複眼。
羽。
死番虫が、壁から剥がれた。
完全な形で。
生きている。
拓也は、後ずさった。
冷たい壁に、背中が当たった。
死番虫は、拓也を見ていた。
じっと。
動かずに。
拓也の心臓が、激しく打った。
「夢だ……」
拓也は、呟いた。
「これは、夢だ」
頬をつねった。
痛かった。
夢じゃない。
死番虫が、飛んだ。
ブーンという羽音。
拓也の顔の前を横切った。
拓也は、悲鳴を上げそうになった。
でも、声が出なかった。
死番虫は、脱衣所を出た。
廊下へ。
拓也は、濡れた足で廊下に出た。
床に、水滴が落ちた。
死番虫は、ゆっくりと飛んでいた。
まるで、拓也を誘うように。
リビングに入った。
壁に、止まった。
白い壁。
蛍光灯の光で、死番虫の影が壁に映った。
大きく。
歪んで。
拓也は、立ち尽くした。
距離を置いて。
三メートルほど。
死番虫は、動かなかった。
触角だけが、微かに揺れていた。
拓也の耳鳴りがした。
キーンという高い音。
そして——
死番虫が、口を開いた。
いや、虫に口はない。
でも、声が聞こえた。
拓也の頭の中に、直接。
「お前、俺を殺したな」
拓也の全身の毛が、逆立った。
「何を……」
「二年前の夏。お前は、俺を潰した」
死番虫の声は、擦れていた。
乾いていた。
死者の声。
「覚えているだろう?」
拓也の唇が、震えた。
「ああ……殺した……よ」
自分の声が、遠くから聞こえた。
「お前を殺してやる」
死番虫の声に、感情はなかった。
ただ、宣言するように。
拓也は、笑った。
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
「お前に……できるわけ、ないだろ」
拓也の手が、震えていた。
「こんな……ちっぽけな虫に……俺が……」
死番虫は、何も言わなかった。
ただ、壁に止まっていた。
じっと。
待っているように。
拓也は、死番虫を潰そうと思った。
もう一度。
今度こそ、完全に。
一歩、前に出た。
足が、重かった。
二歩目。
心臓が、口から飛び出しそうだった。
三歩目。
手を伸ばした。
死番虫まで、あと一メートル。
その時——
死番虫が、鳴いた。
コチ、コチ………。
小さく、乾いた音。
でも、その音は——
拓也の頭蓋骨の中で、増幅された。
コチ、コチ………。
耳を塞ぎたかった。
でも、手が動かなかった。
体全体が、石のように固まった。
筋肉が、硬直した。
関節が、錆びついた。
呼吸が、浅くなった。
心臓が、早鐘を打った。
でも、体は動かなかった。
拓也の目だけが、動いた。
死番虫を見た。
死番虫は、まだ鳴いていた。
コチ、コチ、コチ………。
その音が、拓也の全身を這い回った。
皮膚の下を。
血管の中を。
骨の髄を。
拓也の視界が、赤くなった。
いや、赤いものが見えた。
自分の血管が、透けて見えた。
心臓が、激しく動いているのが見えた。
でも——
心臓が、止まり始めた。
ゆっくりと。
鼓動が、遅くなった。
ドクン……ドクン……ドクン……
間隔が、開いていった。
拓也は、気づいた。
死にかけている。
この虫に。
殺されている。
拓也の意識が、薄れ始めた。
その瞬間——
体が、倒れた。
ドサリ。
床に、倒れた。
でも、意識は残っていた。
わずかに。
そして——
拓也の体が、浮いた。
床から、ゆっくりと。
見えない糸に引かれるように。
壁の方へ。
死番虫がいる壁へ。
拓也は、叫びたかった。
でも、声が出なかった。
喉が、潰れていた。
体は、加速した。
壁に向かって。
速く。
もっと速く。
ゴツン。
拓也の額が、壁に当たった。
痛み。
鋭い痛み。
でも、それは始まりに過ぎなかった。
拓也の顔が、壁に押し付けられた。
鼻が、潰れた。
軟骨が、砕ける音がした。
グシャリ。
拓也は、悲鳴を上げた。
でも、音にならなかった。
口が、壁に押し付けられていた。
歯が、折れた。
舌が、切れた。
血の味が、口の中に広がった。
でも、まだ終わらなかった。
顔だけじゃない。
体全体が、壁に押し付けられた。
胸が、潰れた。
肋骨が、バキバキと音を立てた。
肺が、破裂した。
内臓が、押し潰された。
腕が、平らになった。
骨が、砕けた。
皮膚が、破れた。
血が、飛び散った。
足が、消えた。
肉が、壁に押し込まれた。
拓也は、まだ意識があった。
痛みを感じていた。
すべてを。
体が、薄い膜になっていく感覚。
人間の形を失っていく感覚。
でも、死ねなかった。
意識だけが、残っていた。
そして——
完全に、壁に張り付いた。
拓也は、シミになった。
茶色い。
人の形をした。
でも、ぐちゃぐちゃに潰れた。
顔が、歪んでいた。
目が、飛び出していた。
口が、開いていた。
無音の悲鳴。
死番虫は、その隣で止まっていた。
コチ、コチ、コチ………。
まだ、鳴いていた。
満足そうに。
三日後。
拓也の母親が、部屋を訪れた。
電話に出ない息子を心配して。
合鍵で、ドアを開けた。
「拓也?」
返事はなかった。
母親は、部屋に入った。
暑い。
窓が閉まっていた。
クーラーも止まっていた。
異臭がした。
腐敗臭。
母親の顔が、青ざめた。
リビングに入った。
そして——
壁のシミを見た。
「あ……あ……」
母親の口から、声にならない声が漏れた。
人の形。
息子の顔。
苦悶の表情。
壁に、張り付いている。
母親は、その場に崩れ落ちた。
警察が来た。
鑑識が、シミを調べた。
「人体組織です。DNA鑑定が必要ですが、おそらく西村拓也さん本人のものでしょう」
鑑識の手が、震えていた。
「でも……どうやって……」
刑事が、壁を見た。
人間が、こんな風に潰れるなんて。
プレス機でも使わない限り。
でも、部屋には何もなかった。
機械も。
外傷を負わせた道具も。
ただ——
壁に、人間のシミがあるだけ。
そして、その隣に。
小さな虫が、止まっていた。
死番虫。
動かずに。
じっと。
まるで、見守っているかのように。
その夜。
鑑識が部屋を出た後。
誰もいない部屋。
死番虫が、壁から離れた。
飛んだ。
拓也のシミの上を。
ゆっくりと。
一周した。
そして、再び元の位置に戻った。
壁に、止まった。
シミの横に。
拓也の意識は、まだあった。
壁の中に。
閉じ込められて。
動けない。
叫べない。
ただ、感じるだけ。
永遠の苦痛を。
死番虫の声が、聞こえた。
「お前は、俺を二年間、壁に閉じ込めた。だから、お前も、永遠に壁に閉じ込められる」
拓也は、答えられなかった。
ただ、聞くだけ。
死番虫は、鳴いた。
コチ、コチ、コチ………。。
満足の声。
そして——
時間が経った。
一週間。
一ヶ月。
半年。
部屋は、誰も借りなかった。
事故物件として。
でも、大家は壁を塗り替えなかった。
塗っても、シミが浮き出てくるから。
何度塗っても。
拓也のシミは、消えなかった。
そして、その横に——
死番虫が、いつもいた。
二年前と同じように。
壁に張り付いて。
動かずに。
じっと。
見守るように。
拓也の苦しみを。
永遠に。




