表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「七月三十一日の夜に、君はもう死んでいた」  作者: ポリウレタン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/1

第1話 鏡に映る顔

引っ越して三ヶ月になる。

鏡月荘404号室。

築五十年の古い集合住宅で、エレベーターはない。階段は鉄製で、足を踏み込むたびにキィン、と乾いた音が響く。

各階の踊り場に蛍光灯が一つずつ吊り下げられていて、どれも寿命が近いのか、点滅の間隔が不規則だ。

夜になると特にひどい。廊下の壁に長い影が揺れて、まるで誰かが立っているように見えることがある。

僕は佐伯悠真、二十四歳。

フリーランスのWebデザイナーで、締め切り前以外は基本的に引きこもり気味。

実家を出てから一年経つが、鏡月荘を選んだのは家賃の安さと「静かそう」という印象だけだった。

今となっては、それが間違いだったのかもしれない。

毎晩、同じ夢を見る。

七月三十一日の夜。

共用廊下の蛍光灯が点滅する中、誰かが叫ぶ。

鈍い音。血の匂い。倒れる影。

最初はただのぼやけた映像だった。

でも、日を追うごとに鮮明になっていく。

音がクリアになり、匂いが鼻を突き、感触まで伝わってくるようになった。

昨日――ようやく「顔」がはっきり見えた。

倒れていたのは、僕だった。

首にナイフが刺さり、血だまりの中でこちらを見上げている。

瞳はまだ生きていて、驚きと痛みと……何か、懇願するような色を浮かべていた。

犯人の手は、震えていた。

細くて、白くて、僕の手だった。

いや、違う。あれは僕じゃない。

僕の手じゃないはずだ。

夢の中で僕は立っている側で、倒れているのは別人のはずだ。

なのに、どうして手が震えているのか。

どうして、僕の指がナイフを握っているように見えるのか。

朝、いつものように顔を洗おうと洗面台の前に立つ。

鏡に映る自分の顔は、少し青白い。

目が落ちくぼんでいる。疲れているせいだろう。

水を流す。

蛇口から出る水が妙に冷たい。

引っ越した頃はこんなに冷たくなかった。

味も、少し鉄っぽい。

水道管が古いせいか、それとも……。

顔を拭いて、鏡をじっと見つめる。

僕の後ろに、何か影が動いた気がした。

振り返る。

何もない。

ただの気のせいだ。

階段を下りて一階の共用ポストを確認する。

チラシばかり。

電気代の督促状が一枚混じっていた。

隣の403号室のドアが開く音がした。

「おはようございます、佐伯さん」

彼女だった。

大学生くらいの年齢。黒髪のボブで、いつも白いブラウスにデニム。

名前はまだ知らない。

引っ越してきてから何度か顔を合わせるが、挨拶以上の会話はない。

僕は小さく頷き返す。

彼女は階段を上りながら、ふと足を止めた。

振り返って、僕を見た。

「昨夜、変な夢見たんです。……佐伯さん、死んでましたよ?」

声が少し震えていた。

冗談めかした調子ではない。

本気で怯えているように見えた。

僕は一瞬、言葉に詰まった。

「僕も……似たような夢を見ました」

思わず口から出た。

彼女の瞳が大きく見開かれる。

「え……本当ですか?」

「うん。首を刺されて、血だまりの中で倒れてる僕がいて……犯人の手が、震えていて」

彼女は唇を噛んだ。

階段の蛍光灯が、チカッと点滅する。

「私も、それと同じ夢です。

佐伯さんが倒れてて、誰かがナイフを持って立ってる。

でも、犯人の顔は……ぼやけてて、見えなかったんです」

沈黙が落ちた。

階段の空気が、重くなった。

「七月三十一日……今日ですよね」

彼女が呟いた。

僕は頷く。

カレンダーを見なくてもわかる。

今日が、その日だ。

「じゃあ……今夜、何か起きるのかな」

彼女の声は小さかった。

僕は答えられなかった。

ただ、胸の奥がざわついている。

彼女は小さく頭を下げて、自分の部屋に戻っていった。

ドアが閉まる音が、妙に響いた。

部屋に戻って、鏡の前に立つ。

電気を点けなくても、窓から差し込む朝の光で顔ははっきり見える。

自分の目が、少し充血している。

疲れか、それとも……。

鏡に映る僕の後ろに、もう一度影が動いた気がした。

今度ははっきりした。

人の形。

細いシルエット。

彼女の髪型に似ている。

振り返る。

何もない。

部屋は静かだ。

でも、心臓の音がうるさい。

午後、仕事に集中しようとしたが、手が止まる。

PCの画面に、鏡月荘の間取り図を検索して表示した。

築年数は五十三年。

過去に火事があった記録はない。

ただ、口コミサイトに一つだけ、気になる書き込みがあった。

「住んで三年目だけど、毎年7月31日になると変な夢を見る。

みんな同じ夢らしい。

引っ越した方がいいかも」

五年前の書き込み。

投稿者はもう退去済みらしい。

夕方、買い物に出かけた。

近所のスーパーで、いつもの弁当を買う。

レジの店員――五十代くらいの女性――が、ぼそっと言った。

「最近、この辺りで変な噂があるんですよ。

鏡月荘の住人が、みんな同じ夢を見てるって」

僕は凍りついた。

「夢……?」

「うん。七月三十一日に、誰かが死ぬ夢。

で、次の日には本当に誰かがいなくなってる、とか」

店員は笑った。

冗談めかして。

でも、僕の背中は冷たくなった。

「そんな……本当ですか?」

「さあね。ただの都市伝説かもよ。でも、毎年この時期になると、誰かが急に引っ越すんだよね」

袋を受け取って、外に出る。

空が少し赤くなっていた。

夕焼けだ。

部屋に戻ると、ドアの前に小さな紙切れが落ちていた。

拾う。

誰かの手書き。

『鏡を見ないで』

裏返す。

何も書かれていない。

僕は部屋に入り、ドアを閉めた。

鍵をかける。

二重に。

チェーンもかけた。

夜になる。

時計は二十三時を回った。

七月三十一日の夜。

僕はベッドに横になる。

眠れない。

目を閉じても、夢のシーンがフラッシュバックする。

倒れる僕。

血。

震える手。

……僕の手。

いや、違う。

あれは僕じゃない。

立ち上がって、洗面台の前に立つ。

電気を消して、暗闇の中で鏡を見る。

月明かりが、薄く窓から差し込んでいる。

鏡に映る僕の顔。

その後ろに、もう一つの顔が重なっている。

彼女の顔だ。

いや、違う。

僕の顔が、二重に映っている。

瞳が、笑っている。

「今夜、何が起きるのか」

僕は呟いた。

鏡の中の僕が、ゆっくりと口を開いた。

――僕が、殺すのか。

それとも、殺されるのか。

鏡の表面が、わずかに揺れた。

水面のように。

僕は後ずさった。

背中が壁に当たる。

部屋の隅で、何かが動いた音がした。

足音。

ゆっくりと、近づいてくる。

僕は息を止めた。

ドアの外から、ノックの音がした。

コン、コン。

「佐伯さん……起きてますか?」

彼女の声だ。

僕は動けなかった。

コン、コン。

「夢……また見たんです。

今度は、はっきり犯人の顔が見えました」

声が震えている。

「誰だったんですか?」

僕はようやく声を絞り出した。

彼女は、少し間を置いて答えた。

「……佐伯さんでした」

沈黙。

そして、ドアの隙間から、細い指が差し込まれた。

「開けてください。

話したいことがあるんです」

指が、鍵の方へ伸びる。

僕は後ずさった。

鏡の中の僕が、また笑った。

今夜、何かが終わる。

――いや、始まるのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ