第1話 鏡に映る顔
引っ越して三ヶ月になる。
鏡月荘404号室。
築五十年の古い集合住宅で、エレベーターはない。階段は鉄製で、足を踏み込むたびにキィン、と乾いた音が響く。
各階の踊り場に蛍光灯が一つずつ吊り下げられていて、どれも寿命が近いのか、点滅の間隔が不規則だ。
夜になると特にひどい。廊下の壁に長い影が揺れて、まるで誰かが立っているように見えることがある。
僕は佐伯悠真、二十四歳。
フリーランスのWebデザイナーで、締め切り前以外は基本的に引きこもり気味。
実家を出てから一年経つが、鏡月荘を選んだのは家賃の安さと「静かそう」という印象だけだった。
今となっては、それが間違いだったのかもしれない。
毎晩、同じ夢を見る。
七月三十一日の夜。
共用廊下の蛍光灯が点滅する中、誰かが叫ぶ。
鈍い音。血の匂い。倒れる影。
最初はただのぼやけた映像だった。
でも、日を追うごとに鮮明になっていく。
音がクリアになり、匂いが鼻を突き、感触まで伝わってくるようになった。
昨日――ようやく「顔」がはっきり見えた。
倒れていたのは、僕だった。
首にナイフが刺さり、血だまりの中でこちらを見上げている。
瞳はまだ生きていて、驚きと痛みと……何か、懇願するような色を浮かべていた。
犯人の手は、震えていた。
細くて、白くて、僕の手だった。
いや、違う。あれは僕じゃない。
僕の手じゃないはずだ。
夢の中で僕は立っている側で、倒れているのは別人のはずだ。
なのに、どうして手が震えているのか。
どうして、僕の指がナイフを握っているように見えるのか。
朝、いつものように顔を洗おうと洗面台の前に立つ。
鏡に映る自分の顔は、少し青白い。
目が落ちくぼんでいる。疲れているせいだろう。
水を流す。
蛇口から出る水が妙に冷たい。
引っ越した頃はこんなに冷たくなかった。
味も、少し鉄っぽい。
水道管が古いせいか、それとも……。
顔を拭いて、鏡をじっと見つめる。
僕の後ろに、何か影が動いた気がした。
振り返る。
何もない。
ただの気のせいだ。
階段を下りて一階の共用ポストを確認する。
チラシばかり。
電気代の督促状が一枚混じっていた。
隣の403号室のドアが開く音がした。
「おはようございます、佐伯さん」
彼女だった。
大学生くらいの年齢。黒髪のボブで、いつも白いブラウスにデニム。
名前はまだ知らない。
引っ越してきてから何度か顔を合わせるが、挨拶以上の会話はない。
僕は小さく頷き返す。
彼女は階段を上りながら、ふと足を止めた。
振り返って、僕を見た。
「昨夜、変な夢見たんです。……佐伯さん、死んでましたよ?」
声が少し震えていた。
冗談めかした調子ではない。
本気で怯えているように見えた。
僕は一瞬、言葉に詰まった。
「僕も……似たような夢を見ました」
思わず口から出た。
彼女の瞳が大きく見開かれる。
「え……本当ですか?」
「うん。首を刺されて、血だまりの中で倒れてる僕がいて……犯人の手が、震えていて」
彼女は唇を噛んだ。
階段の蛍光灯が、チカッと点滅する。
「私も、それと同じ夢です。
佐伯さんが倒れてて、誰かがナイフを持って立ってる。
でも、犯人の顔は……ぼやけてて、見えなかったんです」
沈黙が落ちた。
階段の空気が、重くなった。
「七月三十一日……今日ですよね」
彼女が呟いた。
僕は頷く。
カレンダーを見なくてもわかる。
今日が、その日だ。
「じゃあ……今夜、何か起きるのかな」
彼女の声は小さかった。
僕は答えられなかった。
ただ、胸の奥がざわついている。
彼女は小さく頭を下げて、自分の部屋に戻っていった。
ドアが閉まる音が、妙に響いた。
部屋に戻って、鏡の前に立つ。
電気を点けなくても、窓から差し込む朝の光で顔ははっきり見える。
自分の目が、少し充血している。
疲れか、それとも……。
鏡に映る僕の後ろに、もう一度影が動いた気がした。
今度ははっきりした。
人の形。
細いシルエット。
彼女の髪型に似ている。
振り返る。
何もない。
部屋は静かだ。
でも、心臓の音がうるさい。
午後、仕事に集中しようとしたが、手が止まる。
PCの画面に、鏡月荘の間取り図を検索して表示した。
築年数は五十三年。
過去に火事があった記録はない。
ただ、口コミサイトに一つだけ、気になる書き込みがあった。
「住んで三年目だけど、毎年7月31日になると変な夢を見る。
みんな同じ夢らしい。
引っ越した方がいいかも」
五年前の書き込み。
投稿者はもう退去済みらしい。
夕方、買い物に出かけた。
近所のスーパーで、いつもの弁当を買う。
レジの店員――五十代くらいの女性――が、ぼそっと言った。
「最近、この辺りで変な噂があるんですよ。
鏡月荘の住人が、みんな同じ夢を見てるって」
僕は凍りついた。
「夢……?」
「うん。七月三十一日に、誰かが死ぬ夢。
で、次の日には本当に誰かがいなくなってる、とか」
店員は笑った。
冗談めかして。
でも、僕の背中は冷たくなった。
「そんな……本当ですか?」
「さあね。ただの都市伝説かもよ。でも、毎年この時期になると、誰かが急に引っ越すんだよね」
袋を受け取って、外に出る。
空が少し赤くなっていた。
夕焼けだ。
部屋に戻ると、ドアの前に小さな紙切れが落ちていた。
拾う。
誰かの手書き。
『鏡を見ないで』
裏返す。
何も書かれていない。
僕は部屋に入り、ドアを閉めた。
鍵をかける。
二重に。
チェーンもかけた。
夜になる。
時計は二十三時を回った。
七月三十一日の夜。
僕はベッドに横になる。
眠れない。
目を閉じても、夢のシーンがフラッシュバックする。
倒れる僕。
血。
震える手。
……僕の手。
いや、違う。
あれは僕じゃない。
立ち上がって、洗面台の前に立つ。
電気を消して、暗闇の中で鏡を見る。
月明かりが、薄く窓から差し込んでいる。
鏡に映る僕の顔。
その後ろに、もう一つの顔が重なっている。
彼女の顔だ。
いや、違う。
僕の顔が、二重に映っている。
瞳が、笑っている。
「今夜、何が起きるのか」
僕は呟いた。
鏡の中の僕が、ゆっくりと口を開いた。
――僕が、殺すのか。
それとも、殺されるのか。
鏡の表面が、わずかに揺れた。
水面のように。
僕は後ずさった。
背中が壁に当たる。
部屋の隅で、何かが動いた音がした。
足音。
ゆっくりと、近づいてくる。
僕は息を止めた。
ドアの外から、ノックの音がした。
コン、コン。
「佐伯さん……起きてますか?」
彼女の声だ。
僕は動けなかった。
コン、コン。
「夢……また見たんです。
今度は、はっきり犯人の顔が見えました」
声が震えている。
「誰だったんですか?」
僕はようやく声を絞り出した。
彼女は、少し間を置いて答えた。
「……佐伯さんでした」
沈黙。
そして、ドアの隙間から、細い指が差し込まれた。
「開けてください。
話したいことがあるんです」
指が、鍵の方へ伸びる。
僕は後ずさった。
鏡の中の僕が、また笑った。
今夜、何かが終わる。
――いや、始まるのかもしれない。




