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第4章。 『バイト探しは地獄の入り口。』

バイト探しは大学生の通過儀礼――でも、匠にとっては『地獄の入り口』だった。

池袋での大失敗、渋谷での公開処刑、秋葉原での空振り……気づけば彼の奮闘記はすべて観察者つき。

すみれのカメラ、茜の悪戯、美雪の真剣さ――三人三様の先輩たちに囲まれて、匠の日常はすっかり実験場と化していく。

それでも、ほんの少しの勇気とちょっとした幸運で、思いがけない舞台が彼の前に用意される。

秋の風に揺れる銀杏の葉、そして三日後に迫る月見。

次に待つのは――実験か、恋か、それとも新しい地獄か?

新井・匠(あらい・たくみ)

篠原・茜(しのはら・あかね)

藤宮・美雪(ふじみや・みゆき)

如月・すみれ(きさらぎ・すみれ)


神保町、東京。

10月3日。


五日間。

五日間、街を歩き回り、ショーウィンドウに貼られた『バイト募集』を眺め、求人サイトをスクロールして――結果:ゼロ。

結論。バイト探しってのは、地獄行きの待合室みたいなもんだ。しかも俺はすでに特等席。

……いや、単に俺の運が悪いだけかもしれない。たぶんな。

スマホのアラームが震える。まるで『さあ、新しい失敗の日が始まるぞ。元気出せ』って言ってくるみたいだ。

足を引きずりながらキッチンへ。

昨日の残りご飯の上に半熟でもない中途半端な卵を落としただけの丼。おまけに段ボール味のインスタント味噌汁。

――はい、ひとり暮らし大学生の標準朝食セット完成。

「……はぁ。大人の生活って最高。母さんのご飯が恋しい」

シャワーを浴び、鏡に映ったのは 大学生ごっこ中の敗北者。

歯を磨いてもクマは消えない。

でも、人間のふりくらいはできる。

クローゼットから選んだのは、暗めのTシャツにカジュアルなパンツ、そしてスニーカー。

スーツなんていらない。バイト面接ごときに必死感全開はダサいし、穴あきオタクTシャツで行く勇気もない。

『……もしスーツ着たら、採用早まるかな』

――いや、ないない。バイトにフォーマル求めるやつなんていない。

アパートのドアを開けた瞬間、十月の空気が刺さるように冷たい。

黄色くなった銀杏の葉が風で転がり、街全体がオレンジ色に染まっていた。

秋の東京はいつだって中途半端に綺麗で、ちょっとくたびれてる。

数歩進んだところで――

「おはよ、匠」

背後から突き刺すような声。皮肉と悪戯心を同時に溶かしたトーン。

振り返れば、やっぱりいた。

すみれだ。

「……おい。休日の朝から人を尾行って、趣味悪すぎだろ」

肩までのラベンダー色の髪。風に遊ばれる前髪。

軽いブラウスにジャケット、動きやすいスカートにスニーカー。

もちろん首には小型のカメラ。まるで彼女専用のペットロボ。

その笑みは自信満々。瞳は『全部知ってるよ』とでも言いたげにキラキラ。

『……またかよ。俺ってGPS付きペットか? アンインストール不可アプリ=如月すみれ。』

「……寝てんのか、お前? なんでこんな朝っぱらからいるんだ」

まるで家賃の取り立てを迎えるみたいなテンションで聞いてみた。

「ふふっ。今日は取材じゃなく、ただの観察。明治大学三角関係の主人公のモーニングルーティーン、記事にしたら絶対バズるでしょ?」

俺は目を回して、そのまま歩き出す。

もちろん彼女はぴったり横に並び、カメラを胸にぶら下げて歩調を合わせてきた。

『はい、新しい地獄モード突入。新井匠のバイト探し、記者モードで密着中……俺の人生、完全に深夜バラエティ番組化。』

十月の風に押されるように駅へ向かう。

俺はバイト探しへ。

彼女は俺を地獄へ。

――最高のコンビだな。

東京の秋は、不思議な力を持っていた。

一日がどんなにクソでも、冷たい風や転がる落ち葉、人混みが――まるでポストカードみたいに誤魔化してくれる。

……俺以外にはな。

俺はハッピーエンドのドラマ主人公じゃない。安っぽいラブコメの被害者だ。

横を歩くすみれは、俺の惨めさをドキュメンタリーにでもするみたいにカメラをぶら下げていた。

「じゃ、最初はどこ?」

「観光ツアーじゃねーよ。俺の人生だ」

「だから面白いの。」

彼女は風で乱れるラベンダー色の前髪を整え、ニヤリと笑った。

――そして地下鉄で最初の目的地へ。

――第一ラウンド、池袋。

昼間でもネオンが競い合う街。

人の足音が蜂の巣みたいに響き、頭上の高架線からは電車の咆哮。

チラシが風で舞い、まるで人工の落ち葉。

コンビニの看板はやたら元気に『ようこそ』。

中は揚げ物と雑誌インクの匂い……だが、俺の目を引いたのは入口横の紙切れ。

『アルバイト募集』

――ビンゴ。

迷う暇もなく、店員に声をかける。

「人は必要だけど、まず簡単なテストを」

にこやかにそう言われた瞬間、背後から声。

「グッドラック、匠♪」

親指を立てるすみれ……嫌な予感しかしない。

テスト内容:レジ打ち。

「これ登録してみて。簡単だから」

――簡単? いや、俺にとっては爆弾処理班だろ。

ピ――ッ!!

「えっと……バーコードが……反応し、しない……」

機械がエラー音を鳴らした瞬間、心臓もエラー。

通路のすみれは、今度は哀れみ100%の親指を上げていた。

「コードは逆だよ。そっちじゃなくて裏」

店員の冷たい声に、魂ごと撃沈。

『……はい終了。俺の初バイトチャンス、バーコードに処刑されました。』

「またの機会に」

翻訳:永遠に不採用。

店を出た途端、すみれがニヤニヤしながら宣告。

「速報:大学一年、バーコードに完敗」

「……はいはい。いいスクープだな」

――第二ラウンド、渋谷。

ショーウィンドウが競い合い、スクランブル交差点は人の海。

でも少し外れると、小さなカフェからパンの匂いが漂ってきた。

落ち葉は水たまりに張り付いて、まるで秋の付箋。

「ここなら……」

扉を開ければ、またも『アルバイト募集中』の文字。

面接官は笑顔で言った。

「じゃ、これをテーブルに運んでみて」

水の入ったグラスとケーキ皿。

二歩、三歩――

「匠、頑張れー♪」

『……すみれ。わざと実況すんな。』

手が震え、ケーキがスライド。

次の瞬間――トレーは床と熱烈キス。

ガシャーンッ!

店内全員の視線が俺に突き刺さる。

すみれはカメラで口元を隠しながらクスクス。

「惜しいなぁ。録画してたらバズってたのに」

『……いや、勘弁してくれ。俺、芸人志望じゃないんだぞ。』

またもや深いお辞儀で撤退。敗北追加。

――第三ラウンド、秋葉原。

巨大スクリーンに映るアイドル広告。

ゲームセンターから鳴り続ける電子音。

揚げ物の匂いと新品プラスチックの匂いが入り混じる街。

……正直、ここは俺のホームグラウンド。

PVCヒーローの聖地。

有名フィギュアショップに吸い込まれるように入ると、すぐ横から客が駆け込んできた。

「限定版、ありますか?」

反射的に口が動く。

「2021年モデルで、カラーバリエは三種類。初回特典はもう配布終了です」

客は満足げに去っていき、店員が俺の肩をポンと叩いた。

「君、詳しいね。」

――胸が一瞬だけ膨らむ。

もしかして、ここなら……

「でも募集はしてないんだ。ごめんね」

『……おい。それ先に言えよ。俺のオタク情熱、完全に空振りじゃん』

まあ、別にいい。誰かのフィギュア選びを助けられただけでも。義務感みたいなもんだ。

店を出た瞬間、風がたい焼きの甘い匂いを運んできた。

「匠、お腹すいた。」

すみれが当然みたいに言う。

『……最高だな。俺、ストーカーに飯まで奢らされるのかよ。』

「当ててあげようか? お前が奢るんでしょ?」

「はぁ? それもうデートじゃん。怖すぎるだろ」とすみれは言った。

「ふふっ、冗談冗談。今日は私が奢るよ」

軽く腕を小突かれて、手渡されたのはアツアツのたい焼き。

湯気が立ち、手のひらが熱い。

尻尾からかじると――

砂糖と餡子の甘さが一気に広がる。

……はい、美味すぎ。

すみれは口元についた餡を、わざと優雅っぽく拭った。

「ほらね。私、そこまで悪い人じゃないでしょ」

「まあ、角度によるな」

思わず口にしたら、彼女はクスッと笑った。

一瞬だけ静寂。

改めて見る。

三年生とは思えない無邪気さ。

ラベンダー色の髪が秋の斜光で揺れ、いつもの挑発的な瞳が――どこか高校生みたいに見えた。

『……いやいや。危ない危ない。ストーカーが可愛いとか、たい焼きで幻覚見てるだけだ。』

俺は理性を叩き起こし、甘さに騙されないように自分に言い聞かせる。

その時、スマホが震えた。

――藤宮美雪のメッセージ。

『篠原と話した。今日は授業がないから、打ち合わせしない? 小説の進捗を確認したい。』

ため息。

「……予定変更だな」

「え、なに? トイレ?」

「いや、違ぇよ! 藤宮先輩が打ち合わせしたいってさ」

すみれが眉をひょいと上げた。

「へぇ……じゃ、私がいなかったら、大学生デートってわけ?」

「想像力豊かだな、お前……」俺はため息。

「むしろ好都合。小説ネタの真偽チェックしつつ、三角関係の主演俳優たちを生で観察できるからね」

彼女は小悪魔みたいな笑み。

***


秋葉原の街を一時間ほどぶらぶらし、合流を待つ。

正直、上京してから初めてのオタク天国フル体験。

俺にとっては宝の時間。

選んだのは、メイド喫茶ではなく、木目と観葉植物、丸い鉢、そして小さな大理石テーブルが並ぶ落ち着いたカフェ。

窓から斜めに入る光は冷たい黄味がかっていて、エスプレッソマシンの蒸気とジャズのBGMが外の喧騒を遠ざけていた。

最初に現れたのは――美雪。

象牙色のブラウスに、灰色のミディ丈スカート。黒いローヒール。シンプルなバッグ。

髪は半分まとめて、頬にかかる緩い毛先が彼女の真面目さに柔らかさを添えていた。

……休日なのに、完全に『プレゼン資料あります』モード。

続いて、茜。

オーバーサイズのレトロアニメTシャツに、ジョガーパンツ、白スニーカー。

秋の舗道を歩いた跡がしっかり残っていて、髪はわざと崩した無造作スタイル。

入ってくるなり、手をひらひら。

……この人はどこ行っても知り合いがいる気分。

テーブルの隅にいたすみれは、カメラをカップの横に置いて注文中みたいに鎮座。

「……いやぁ、俺、サーカス逃亡中ってことにしとけばよかった」

冗談半分に指をひょいと上げると、茜がすぐ噛みつく。

「いいじゃんいいじゃん。そういうノリなら記事のネタは無限供給でしょ、新井くん」

バッグを投げて椅子にだらっと座り、じっと顔を見てきた。

「うん、見事に全落ちフェイス。ふふふっ」

「……ありがとよ。励ましポイントゼロな」

美雪は席に着くや否や、カバンからタブレットを出した。

カチッとスタンド型のカバーを開き、画面点灯。

フォルダには日付、進捗バー、そして『原稿ⅹ目標』。

「カラオケの夜、書き直した。それから次の三話分、骨組みもできた――読んで」

無駄のない口調。迷いゼロ。

『……はい始まった。公開添削タイム。俺、モルモット兼読者A。』

すみれが身を乗り出し、記者モードの『興味あります』顔。

茜はだらけた姿勢のまま、でも画面に視線集中。

美雪は指でスクロールし、声を低くして読み上げた。

『――言葉はなかった。ただ肩が触れただけで、店の喧噪は遠くなった。窓に映る灯りはぼやけて、街が一瞬、二人の呼吸に合わせて音量を下げた。』

「……すごい。うん、普通に良いじゃん」俺は素直に口から漏らす。

「前は、もう脱がせタイムだったのにね」

「えっ!? そこまで飛ばしてたの?」すみれが思わず食いつく。

「うん、なかなか刺激的だったよ。ふふふっ」茜が代わりに答え、すみれの頬は赤く染まる。

「前は勢いで書いてた。でも今は呼吸を考える」美雪は視線を落としたまま。

……うっかり自分がド変態告白してるのに気づいてない。

次の段落。

『彼女は震えを隠すためにグラスに額を寄せた。彼は触れなかった。ただ沈黙を、壊せば砕ける宝物みたいに大切に抱えた。――幸せを探さないとき、ふいにそれはやってくる。』

「……ほら。シンプルで静か。でも読んでると、なんか自分がそこにいる気になる」茜が目を細めて笑う。

俺は後頭部をかく。

『……前はR18+一歩手前。今は文学の呼吸。成長カーブ急角度すぎ。』

「もっと見せて」

すみれが一歩前に出て、タブレットを手に取った。

数秒の沈黙。

……そして、じわじわと首筋から頬まで赤みが広がる。

ゴホン、とわざとらしく咳払いして、急造の皮肉モード。

「ふん……技術的には正しい。リズムもあるし……まあ、意外と悪くない」

翻訳:気に入ったけど、絶対に認めたくない。

茜が身を寄せて画面をのぞき込み、ふと笑った。

「ありゃ? 如月先輩、それ修正版じゃなくて――オリジナルの方読んでるよ」

「……え? ど、どういうこと?」

すみれが固まる。

窓の外を見ながら口笛を吹こうとする美雪……ただし音はゼロ。完全に挙動不審。

「ふふふ……そんな趣味あったんだね、如月先輩。意外と隠れピ――」

茜は肩をポンポン叩きながら、にやにや。

「最高だな。ツンデレ担当、煽り担当、そして自覚なき変態担当。フルハウスだ」

俺がぼそっと言った瞬間――

「……は?」

氷点下の声。

振り返ると、美雪の瞳がレーザー兵器。

「誰がツンデレ変態だって?」

次の瞬間――パァンッ。

頬に直撃。はい、正直者課税いただきました。

「ま、ま、落ち着けって。ここ喫茶店だから。公開処刑禁止」

茜がテーブルを指でトントン叩いて場を収める。

「感謝します! 茜様のおかげで、命拾いしました!」

俺は合掌。

「だから言ったでしょ。日常=ネタの宝庫。一日で独占記事、一日で沈黙朝食。全部、原稿に変換可能」

茜はさらっと結論。

美雪は小さく息を吐いたが、その目は燃えていた。

「……あと一か月弱。十一月二日、あの日は締め切りじゃない。断頭台だ」

カレンダーを見つめる彼女。

俺は肩をすくめる。

「でも二週間で四話書いたんだろ? かなりのスピードじゃん」

「そういえば――もうすぐ月見。ちょうどいいじゃん」茜が身を乗り出す。

「月見?」俺は首をかしげる。

「そう。月の下で恋人たちが集まって愛を囁く夜~♪」

茜がわざと歌うように言う。

「……悪くない。雰囲気の素材にはなる」美雪は即分析。

「わ、私も……いい写真撮れるかも……」

すみれはカメラを顔の前に持ち上げ、まだ赤みが残る頬を隠した。

『……記者の皮をかぶった月見ハイエナ。怖すぎ。』

注文したコーヒーが届く。

俺のはカプチーノ=敗北フレーバー。

美雪はエスプレッソ=無糖地獄。

茜は砂糖入りすぎて液体デザート。

すみれはモカチーノ=羞恥隠し用チョコ漬け。

――その時。

茜がふいに俺の方へ身を乗り出す。

「じっとして……ほら、頬に何かついてる。あんこ?」

親指の腹で、俺の頬をそっとなぞる。

妙にスローな仕草。

「……あのさ。俺、ママ持ちじゃなくてバイト探し中の大学生なんだけど?」

そう言いながらも、動けなかった。

茜の手はほんのり温かく、近くで香るのはいつもの柑橘系の香水。

前髪がふっとこぼれて、気づけば距離はゼロに近い。

隣のテーブルの客がわざと自分のカップに視線を落とすレベル。

「コホン」

美雪の咳払い。言葉はなくても、眉が信号の黄点滅。

「ストップ。動かないで」

すみれの声。

すでにカメラを半分持ち上げて、完全に裁判官のハンマー状態。

「もしキスするなら証拠写真いるでしょ?」

「お前、倫理観どこ行った?」俺は小声で反論。

「……冗談きついな、匠」

そう言いながらも、一歩前に出て――

ガタンッ。

テーブルの脚に足を引っ掛けた。

カップが揺れ、皿がカタカタ。

俺は慌てて縁を押さえる。

茜が俺の腕を引き、コーヒーの熱を避けさせようとする。

その反動で――すみれがバランスを崩し、真っ直ぐ俺に倒れてきた。

ドンッ。

……顔面、直撃。しかも胸部クッション付き。

「――――!!」

すみれは一瞬石像。目を見開き、無言。

次の瞬間、爆速で顔が真っ赤。

パァンッ!!

今度は左頬に衝撃。

『……はい、両頬コンプリート。左右対称の痛み。美しい』

「ばっ、バカ! ど、どこに顔突っ込んで……っ!」

「ちょ、待て! 今のは重力の仕業! 俺は被害者!」

「言い方ぁぁ!」

茜は口元を押さえ、肩を震わせて笑っている。

「ふふふっ。落ち着け如月先輩。完全事故案件――で、新井くん……ほら、食べた後はちゃんと口拭かないからこうなるんだよ」

挑発混じりにニヤリ。

何も返せず、ただ呆然。

……正直、茜の笑顔に見入ってしまった。

でも頬が赤くなるのを悟られなかったのは、既に両側から殴られて真っ赤だったから。

美雪は腕を組み、じっと睨む。

まだツンデレ変態呼ばわりを根に持ってるらしい。

「放置くん……説明は三十字以内」

『新しい前科、追加。罪名:重力を口実に胸部へ不時着。刑罰:無限ツッコミ。』

周囲の客は気まずそうに笑い、すぐ自分の世界へ戻る。東京の掟だ。

テーブルを直し、ようやく一息。

すみれは深呼吸してから、カメラを下ろし、小声で宣言。

「……もし聞かれたら、今日のことはゼロ。いいね?」

俺は内心でうなずく。

――まあ、多少恥かいてもバランスは取れた。これでちょっとは報いだ。

「はいはい。俺たち……赤の他人ってことで」

残ったコーヒーを飲み干すと、外はもう夕暮れ色。

秋特有のオレンジの空が広がっていた。

会計へ立ち、レジの前で――スマホが震える。

「……はい?」

「…………」

「……あ、もしもし。はい、俺です」

「…………」

「……はい。え、本当ですか? はい、明日からでも!時間帯は……六時から閉店まで? 大丈夫です。家も近いので……ありがとうございます!」

通話を切った瞬間、顔がにやけてるのに気づいた。完全にバカ面。

「なに、それ」茜が首をかしげる。

「決まった。秋葉原の漫画ショップ。夕方から夜のシフト」

なるべく堂々と答えるが、声が浮いてる。

「ふーん……じゃ、実験に割ける時間は減るわね」

美雪は冷静にメモを取るみたいに頷いた。

「でも……正直、嬉しいわ。よかったじゃない」

――『はい、ここ大事。ツンデレ口から素直な祝福。これ、レア台詞。』

「ありがとな。もちろん実験はちゃんと手伝うよ」

「……ふん。そうしなさい」そっぽを向く彼女。

すみれはカメラをぶら下げ直し、俺の肩を軽く叩いた。

「おめでと。これで私、堂々と取材できるね。ふふふ」

「俺の心配じゃなくて、そっちの都合かよ……」ため息。

外へ出ると、風はさらに冷えていて、歩道を金色の落ち葉が泳ぐように転がっていた。

ビルの上には痩せた月が、まだ明るい空を試すみたいに顔を出している。

『……昼は実験モルモット。夜は漫画屋の奴隷。おまけにストーカー専属……まあ、悪くないっちゃ悪くない』

バカみたいに喜んでるせいで、冷静な分析力はどっか行ってたけど……たまにはいいだろ。

「月見まで、あと三日。何が起きるかなぁ」茜が空を見上げる。

「場所はちゃんと決めといて。記事用の写真、最高のを撮りたいから」

すみれの危険な笑み。

美雪はタブレットをパタンと閉じて立ち上がった。

「じゃ、また大学で……放置くんがバイト戦士になった以上、時間は一秒も無駄にできない」

「……はいはい」俺は片手を上げる。

角を曲がり、それぞれ別の道へ。

伸びる影が三方向に分かれ、頭上には夕焼けと月。

『……やれやれ。痩せた月はピント合わせ中――三日後、俺たちの失敗も成功も、全部照らすライトになる。』

次回・『月見はラブコメの特等席。』

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

よければ評価していただけると、今後の励みになります!

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