第2章。 『噂って、無料Wi-Fi並みに早いんだが。』
大学生活二日目にして――すでに地獄のど真ん中。
新聞部にスクープされた『三角関係疑惑』の記事は、一瞬で学内を席巻。
新井匠の評判は Wi-Fi 並みのスピードで崩壊していく。
教室ではクラスメイトに囁かれ、教授にまで皮肉られ、学食では公開処刑。
茜のマイペースな発言、美雪のツンデレ爆発、そして陽翔の爆笑コメントが追い打ちをかける。
ようやく放課後になっても、実験は続行。舞台は――まさかのカラオケ!?
『間接キス』『危険な距離感』『えっちなアニメで見たシーン』……すべてが現実に起きてしまう夜。
笑いと誤解とフラグ乱立のカオスに、匠はもう逃げ場なし。
そして最後に走る、不穏なカメラのフラッシュ。
匠の大学生活はただのラブコメじゃ終わらない――次なる波乱の幕開けを告げる。
新井・匠
篠原・茜
藤宮・美雪
川崎・陽翔
芥川・龍之介
放置
神保町、東京。
9月27日。
俺はアパートのドアを閉めながら、まるで年季の入った溜息を吐いた。
金属の鍵の音がやけに重く響いて、まるで『お前の学生生活はもう牢獄だ』って宣告されたみたいだった。
実際の刑務所じゃなくて、もちろん。
……ただの『変な先輩二人に振り回される牢屋』だ。
駿河台に向かって歩いていくと、空はすっかり秋晴れ。
眩しくて目を細めなきゃいけないほどの日差し。
パン屋から漂ってくる焼きたての匂いと、会社員の吸うタバコの煙が混ざって、妙にリアルな朝の東京って感じだ。
俺は足取りを重く、まるで死刑台にでも向かう囚人みたいに歩いた。リュックでパンパンの大学生をかわし、自転車の暴走族に轢かれそうになりながら。
『最高の天気だな。俺の評判がきれいに焼き尽くされるには、うってつけの日和だ。』
一歩一歩、キャンパスに近づくたびに確信が増していく。
選択肢は二つ。昨日見られたシーンを新聞部の奴らが黙ってくれるか、それとも……もう大学中に『三角関係バトル』って噂が拡散してるか。
いや、この狭い大学の生態系のことだ。後者に決まってる。
そしてその真ん中で右往左往してるのが俺――新井匠。大学生活二日目にして人生の墓場コースを突っ走ってる最中だ。
校門をくぐった瞬間、やっぱり来た。挨拶より早く、耳に飛び込んでくるのは噂話の囁き。
「ねえ、昨日の学生新聞見た?」
「篠原先輩と手つないでたんだって」
「いやいや、藤宮先輩ともだろ? あれ完全に二股フラグじゃん」
『はい出ました、俺の青春死亡フラグ。』
俺がボールペンひとつ借りるのもやっとな陰キャだってことを誰も知らないらしい。気づけば大学公認のドン・ファン。キャラ設定の進化スピードおかしいだろ。
中庭を歩く間、視線のシャワー。好奇心、軽蔑、同情。
……同情だけはやめてくれ。憎まれ役の方がまだマシだ。
そして目の前に現れたのは――
篠原茜先輩。
相変わらずのマイペースな歩き方。まるで世界がランウェイになったかのように自然体で。
栗色の髪が夕日の反射みたいにきらめいて見える。今日はパーカーじゃなくて、アニメ柄のオーバーサイズTシャツ。リラックス全開の服装でも、なんだか様になるのがずるい。
「おはよー、新井くん」
まるで昨日のことなんか存在しなかったみたいに、普通の調子で挨拶してくる。
「……お、おう」
俺は手を軽く上げるのが精一杯だった。
俺たちは並んで歩いた。その瞬間、背後で噂がウサギみたいに増殖していくのが分かった。
一歩踏み出すたびに、まるで『噂オルゴール』にゼンマイを巻いてる気分。演奏なんて聞きたくないのに。
掲示板の前に着いた――そこにあったのは、トドメの一撃。
スマホで撮られたであろう写真。茜と俺が手をつなぎ、さらに美雪が俺の腕を取っている場面。
角度のせいで、実際よりもずっと親密に見える。
しかも学生新聞部はご丁寧に大げさなタイトルまでつけていた。
【二人の先輩と一人の後輩、運命の交差点】
『……いやいや、誰が書いたんだよ。完全にドラマの煽り文句じゃん。』
茜はいたずらっぽく笑いながら掲示板に顔を近づける。
「ほら、結構いい感じに写ってるじゃん? ねえ?」
「最高だな。ちょっと加工したらバラエティ番組の告知ポスターにでも使えそうだよ。これ本当に学生新聞か?芸能ゴシップ誌と間違えてない?」
彼女はケラケラ笑って、まったく気にしていない様子。
「まあ、大学に関係さえあれば何でも書けるからね……むしろ私たちには都合いいじゃん? 実験のネタになるでしょ」
『俺の尊厳が消し飛んで、先輩は小説の材料ゲット。バランス最高だな』
肩を落としてため息。
「信じられないな……大学新聞が三角関係ネタで紙面を埋めるとは……ま、俺は授業行くよ」
「うん、じゃあね~」
自然すぎる手振り。俺の評判を爆破した張本人とは思えない。
『……やっぱり、俺の大学生活はモノローグ付きの悲劇らしい。』
***
教室に入っても、ざわめきは消えなかった。いや、むしろ音量上がってないか?
教室全体が拡声器になって、俺の不幸を実況してる感じ。
「ね、あれって昨日の写真のやつじゃね?」
「篠原先輩と藤宮先輩、両手に花とか……うらやましすぎ」
『俺の人生、勝手にラブコメ脚本に書き換えられてるんだけど。』
いつもの席に座るが、視線と囁きはナイフみたいに刺さってくる。
そんな中で救いの男――陽翔。にやにや顔で振り向いた。
「よう、匠。今日の新聞のトップ飾ったな!まさか計画的だったとか?」
「そうそう。俺が金払って新聞部にスクープ頼んだんだよ。目立ちたくて仕方なかったからな」
「開き直りまでイケメンかよ、お前」
陽翔は肩をポンと叩いて笑う。
クラスの連中はヒソヒソ話し、視線はチラチラ。まるで俺がカバンから花束でも取り出すのを待ってるみたいだ。
机に沈み込みながら、俺は心の中で叫んだ。
『頼むから地面よ、今すぐ口を開けて俺を飲み込んでくれ。いや、せめて転校のチャンスでも……』
静まり返った教室に、教授の声が鋭く響いた。
「新井くん――デザインにおける機能美と装飾美の違いを説明してみなさい」
『きたよ……完全にラブコメあるあるの先生に当てられるやつ。』
ごくりと唾を飲む。
「え、えっと……機能するやつが機能美……です?」
一瞬の静寂、次の瞬間には教室中から笑いが漏れた。
教授は眉をひそめ、落ち着き払った声で突き放す。
「なるほど。じゃあ新井くんは新聞に載るよりも、合格者名簿に載る努力をしなさい」
『はい、死亡フラグ。評判とプライドはもう死んだ。次は成績が死亡予定っと。』
授業が終わってもざわつきは止まらない。
廊下に出ても、噂は俺の影みたいにぴったりついてきた。
「なあ匠、勘違いしないでほしいんだけどさ……正直、羨ましいよ」
陽翔が階段を降りながらそう言う。
「うんうん。ストレス性胃炎で苦しむのが、今や一番の憧れポイントらしいぞ」
俺は真顔で返したが、陽翔は笑い飛ばした。
そのとき、不意に背筋がぞわりとした。誰かに見られているような感覚。
振り返る。
ただの学生たち、リュックに揺れるキーホルダー、足音と笑い声の洪水。
――けど、確かに視線が刺さっていた気がする。
「どうした?」
「……いや。きっと被害妄想だ。あるいはコレステロール過多か」
冗談でごまかしたが、首筋のざわめきは消えなかった。
学食に足を踏み入れた瞬間、ざわめきが爆発する。
「篠原さんといたやつだ!」
「いや、文学部の藤宮さんとも関わってるって!」
「二股確定じゃん……」
『なんで俺が大学公認のラブコメ主人公みたいになってんだよ……。』
とにかく静かに昼飯を食べたい。それだけなのに。
「おーい、放置くん! こっち来なさい!」
美雪のよく通る声が食堂に響いた。鐘みたいに。いや、俺にとっては死刑宣告だ。
一斉に視線が集まり、食堂全体がシーンと静まり返る。スプーンの音すら止まった気がした。
『はい、公開処刑の時間です……』
逃げ道を探したが、あるわけもない。
俺は観念して歩き出し、ついでに陽翔も道連れにした。どうせ死ぬなら一緒に。
美雪は鋭い目つきで俺を見据え、茜はのんびりご飯を噛みながらこちらを見ている。対照的すぎる。
「ち、違うんだ。誤解だって!」
必死に弁解しようとすると――
「ふーん? じゃあ座って説明してもらえる?」
美雪が眉をひそめる。
俺は力なく席に沈み込み、横にはニヤニヤ顔の陽翔。完全に観客気分だ。
「ど、どうも……」
陽翔まで挨拶してきたので、俺は苦笑いして紹介する。
「こいつは川崎陽翔。大学で唯一、俺を変人扱いしない男だ」
「川崎くんだよね? はじめまして、篠原茜です」
茜はにこやかに自己紹介する。
「……藤宮、美雪」
美雪はぶっきらぼうに名乗った。声は冷たいけど、どこか気恥ずかしそう。
「ど、どうも……」
陽翔は肩をすくめ、緊張でカタコトになっている。食堂の空気がぴりっと張りつめていた。
「ほらな、陽翔。だから言っただろ。お前が羨ましがる必要なんて全然ないんだよ」
美雪がテーブルをコツンと叩いた。
「噂で作家としての評判まで傷つけられるのよ?安っぽい三角関係なんて、最悪じゃない」
腕を組んで、眉間にしわを寄せる。
その横で茜はご飯をもぐもぐしながら微笑む。
「でもさ、逆に宣伝になるんじゃない? 実験の知名度も上がるし、藤宮さんの小説だって話題になるし」
陽翔が眉をひそめた。
「え、実験? 小説? 何の話だよ?」
俺は観念して大きくため息。
『もうどうせ沈んでるんだ、なら海底まで行ってやろうじゃないか。』
「要するにこういうことだ。俺は恋愛実験の被験者。藤宮先輩の小説のネタにされてて、篠原先輩がノリノリで協力してるってわけ」
数秒の沈黙。
そして――
「はははははっ!」
陽翔が机に突っ伏して笑い出した。
「マジかよ。お前、完全にラノベの主人公じゃん!実験用モルモットでも、大学生の夢は全部叶えてるぞ!」
「そうだな。夢といっても、涙で水浸しの悪夢だけどな」
苦々しく返すと、陽翔はまだ笑いながらも真顔を作って美雪を見る。
「藤宮先輩、その小説完成したらぜひ読ませてください!」
美雪の表情が一瞬だけほころんだ。自分でも隠しきれない、誇らしげな顔。
そこで俺はとどめを刺した。
「……ただし今のバージョンを人前で読んだら、確実に捕まるぞ。公然わいせつ罪でな」
一瞬の沈黙。食堂全体が水を打ったように静かになり――
俺の声だけが最後の一席まで届いた。
次の瞬間、爆笑の渦。
「な、なによそれぇぇ!」
美雪の顔が真っ赤になり、机をドンと叩いて叫ぶ。
「バカ! 絶対許さないんだから!」
顔を覆いながら、彼女は食堂を飛び出して行った。
その後ろ姿を見送った俺の視線は、ふと彼女の服装に留まった。
シンプルなプリーツスカートに、長袖のブラウス。派手さはないけれど、清楚な組み合わせが彼女の白い肌を際立たせていた。
『……まったく。どうして俺の人生は、神様の手で書かれたシットコムになっちまったんだろうな。』
俺は乾いた笑いを漏らした。
***
午後5時。
駿河台のビルの間から夕陽が零れて、街の輪郭をオレンジに染めていた。
大学を出て、俺たちはのんびりと小さな公園に向かう。古びたベンチは座るたびにギシギシ鳴り、噴水はまるで息切れした老人みたいにか細く水を吐き出している。
空気はまだ暖かいけど、秋風が少しずつ葉っぱを揺らしていた。どこからか漂う焼き鳥の匂いと、タバコの煙と、湿った土の匂いが混ざって、不思議と落ち着く。
俺はベンチに腰を下ろし、水面をぼんやり眺めた。水の筋が細すぎて、まるで自分の存在も遠慮しているみたいだった。
隣では陽翔が小石を蹴って遊んでいる。
「なあ匠、ここで何するんだ?」
「篠原先輩から実験の件で待ってろってLINEが来たんだよ」
俺は肩を落として答える。
「ははっ。いいじゃん。授業終わりに可愛い先輩二人に囲まれるとか、人生勝ち組だろ」
「俺としては、昼の学食の公開処刑で充分だったんだけどな……」
ため息が自然に漏れる。
数分後、公園に現れたのは茜と美雪だった。
茜はタブレットを確認しながら、いつも通りのマイペース。美雪は腕を組んで、どこか遠くを睨んでいる。昼の出来事をまだ根に持っているのが一目で分かる。
「で、今日は何をするわけ? 藤宮先輩、もう俺に会いたくないんじゃなかったの?」
俺は誰かが代わりに決めてくれるのを期待して投げやりに言った。
「う、うるさいバカ! まだ怒ってるけど……小説のために仕方なく来ただけよ! 勘違いしないで!」
美雪はツン全開で答える。
茜は顔を上げ、にやりと笑った。
「カラオケ行こうよ。実験には最高の場所じゃん? 薄暗い照明、ベタベタのラブソング、強制的な距離感……和解イベントにぴったり!」
『いやいや、そんなRPGイベントみたいに言うなよ……』
「完璧だな。これでまた新聞の一面は俺か。『大学生、先輩二人と怪しい夜のカラオケ密室』とか」
深呼吸してから皮肉を口にした。
「なあ陽翔、お前も来るか?」
俺はダメ元で振った。万が一、盾役が必要になるかもしれない。
陽翔は微妙な顔をした。
「マジで行きたいけど……無理だ。母さんが買い物に行くから付き合わされるんだよ。しかも五階まで荷物運びだって。行かなかったらカレー抜きで絶縁される」
「は? この時間にスーパー? 嘘だろ」
『もうちょいマシな嘘つけよ』
「ち、違うって! 週末は全部予定埋まってるし、今日は親父も出張でいないから俺しか手伝えないんだって!」
陽翔は焦って説明を重ねる。
『……説明多すぎ。逆に怪しいわ』
俺はため息。
「でもまあ、言い訳としては合格点だ。今回は許してやる」
「次は絶対行くからな!」
陽翔は片目をつむって先輩二人に軽く頭を下げた。
「篠原先輩、藤宮先輩……実験、頑張ってください」
「じゃあな、川崎くん」
茜は手をひらひら振って、相変わらずのマイペース。
「勉強しなさいよ」
美雪はテンプレみたいに言い添える。
「はいはい……スーパーね」
俺は皮肉混じりにぼそっと呟いた。
「明日、生きてたら報告してな、主人公くん」
陽翔はそんな大げさなセリフを残して、人の波に消えていった。
リュックと自転車と喧騒に飲み込まれていく背中を見送ったその瞬間――また、あの視線を感じた。
首筋にチクリと針を刺されたみたいな感覚。慌てて振り返る。
鳩に餌をやるおじさん。セルフィーを撮るカップル。居眠り気味の警備員。
……何もない。いや、誰もいないはず。
『被害妄想にしてはリアルすぎる。……ソースは醤油味のパラノイア』
「ねぇ、放置くん」
美雪の声に振り返ると、いつの間にか至近距離に立っていた。
無音で近づくなよ、ホラーか。
目の前で、黒いケースからタブレットを取り出す。無駄にピカピカ。
「昨日ね……プロローグ、直したの――あの時の、手をつないだシーンを参考にして」
茜が得意げに笑う。
「ほら、私のおかげでいい素材ができたでしょ」
「……これ以上、心的ダメージ食らわないことを祈る」
俺は恐る恐るタブレットを受け取った。
画面には整ったフォント、きれいな余白。昨日のごちゃごちゃ原稿とは大違い。徹夜で仕上げた努力がにじんでいた。
歩きながら数行目を追う。
カフェを出る二人。交差点でふと触れ合う指先。
世界は止まらない。自転車が通り、信号が赤に変わり、遠くで誰かがくしゃみをする。
それでも、その一瞬の『触れたか触れないか』が、空気に小さな泡を生んで――弾けた。
「…………」
無言のまま読み進める俺に、美雪の横顔がちらりとこちらをうかがう。まるで検察官。証拠は十分って顔だ。
『……くそ。普通にいいじゃねーか。認めたくないけど。』
「悪くない。いや、むしろ……かなりいい」
俺は唾を飲み込みながら返す。
「雰囲気、ちゃんと掴んでた。ちょっと悔しいくらいだ」
茜が指を鳴らす。
「だから言ったじゃん。観察眼なら藤宮さんが一番なんだって」
美雪はほんの一瞬、胸にタブレットを抱きしめて、すぐに表情を整えた。
「……まだ完璧じゃない。冒頭のリズム、直す必要がある。でも……ちゃんと機能するって分かった」
「機能してるのは認める――だからこそ気に入らねぇ」
俺は肩をすくめる。
「なんで?」
「……だから、俺も真面目に協力しなきゃならなくなったじゃないか。せっかく華麗に爆死する予定だったのに」
俺のぼやきに、茜がパチンと手を叩いた。会議終了の合図みたいに。
「よし、判決出ました! 次のステージは――カラオケ! まだ夕焼けに間に合うよ、御茶ノ水あたりでね」
『最高だな。青春=実験台+カラオケ。誰だこのシナリオ書いたやつ。』
公園を抜け、大通りに出る。
空はマンダリン色からマゼンタ色に移ろって、街灯が一つずつ点り始める。ネオンは『必要以上のものも全部あります』とばかりに輝いていた。
音もカオス。自転車のブレーキ音、駅に滑り込む電車の悲鳴、商店のチリンと鳴るベル、誰かのスマホでの口論。
その中を歩きながら、茜は自販機に吸い寄せられるように立ち寄り、即座に缶ソーダを購入。
「飲む?」と、俺に差し出す。
「これ飲んで、間接キスってノートに書いたら……俺は神田川にダイブするからな」
そう毒づきつつも、結局ひと口。
「ふーん、よく分かんないけど……メモっとこ」
茜はご機嫌で歌うように言う。
「分かんないわけあるか」
反対側を歩く美雪は黙っている。ただ一直線に進むような歩き方。
ふと手が触れ合った。ほんの一瞬の接触。俺は即座に半歩下がって距離を取る。まるで火傷でもしたみたいに。
「何よ放置くん。これも実験の一部でしょ」
顔を向けずにそう言った美雪の頬が、夕焼けのせいか、ほんのり赤く見えた。
「じゃあ、契約書でも用意してくれる?『愛のデュエット契約』とかで」
皮肉を飛ばすと、茜が大笑いした。
「それいい! セリフに使える!」
俺は二人の後ろ姿を追いかけながら、心の中でナビがルート再検索中って鳴ってるのを感じた。
見上げれば、真っ赤なネオンの文字が、まるで溺れた者を導く灯台みたいに光っている。
『次のイベント:カラオケという名の誤解神殿へ突入。』
「じゃ、部屋とってくるね」
茜がウキウキで受付に突撃していった。
俺は深いため息をつきながら、その後を追った。
『……はい、また運命に捕まったっと。』
カラオケの部屋は長方形。L字のソファが低いテーブルを囲み、その上にはグラスや缶ジュース、ビール、スナック。そしてまるで宇宙船のコントロールみたいなリモコン。
巨大モニターにはやたら派手な色で曲名が並んでいた。
「では――第1章、開幕!」
茜が女王様みたいにソファに腰を下ろし、そう宣言する。
「第1章?」
「プロローグはもう書き終わったでしょ? 今度は本番シーンよ」
『……なるほどね。カラオケが文学舞台になるなんて。芥川龍之介先生も草葉の陰で泣いてるぞ。』
美雪は反対側に座り、真剣な顔でグラスを三つ並べてビールを注いだ。
「誤解しないでよ、放置くん。ただ……潤滑油は必要だから」
グラスを掲げる姿はやけに堂々としている。
『はいはい。なるほど。変人だけかと思ったら、飲んべえ疑惑までプラスか』
「つまり酔わせる気満々ってことか……悪いけど、俺は飲まないから」
「えー、新井くん、ちょっとくらい大丈夫だって」
茜はもう一缶を一気に注ぎ込んでいる。
「無理。誰か一人は正気を保たないと、この実験は爆発する」
俺はソーダを軽く口にした。
『……ここでシラフ担当は俺一人。完全に死亡フラグ。』
茜がリモコンを操作して、ベタすぎるJ-POPバラードを選曲する。
「はい、デュエット!」
マイクを押しつけられる。
「葬送行進曲とかないの?」
俺の抵抗むなしく、曲は始まる。歌詞は『運命』『結ばれた手』みたいなワードオンパレード。
茜はノリノリで俺に寄り添ってくる。体温が近すぎて、まるでスポットライトを浴びてる気分だ。
『うん、大学生版バレンタインCM完成』
美雪は歌わず、ただこちらを観察している。手元ではタブレットにカタカタとメモ。
……で、二杯目を空けたあたりで、何の前触れもなく俺の肩に頭をのせてきた。
「落ち着いて、放置くん。近さの実験よ」
俺は石像みたいに固まる。
『いや、自然さってなんだよ。俺にとっては高難易度すぎる。』
茜が歌い終わると同時に、俺はソーダで避難。
が――飲もうとした瞬間、美雪が同じ缶に口を寄せてきた。
唇が触れることはなかった。でも、その距離感は完全にアウト。
『はい、間接キス確定!』
茜が拍手までして大喜び。
俺はむせかける。
『まだビール三杯くらいなのに、完全に出来上がってるな……ああもう、今日という日は地獄の長丁場確定。神様、俺何か悪いことしましたっけ?』
茜はグラスを二つ空けた勢いで、俺の顔スレスレまで身を乗り出してきた。
「ねぇ、もっと近づいたら……空気変わると思わない?」
「ちょ、ちょっと待って! 篠原先輩、それは……まずいって!」
俺は慌てて後ろに下がり、テーブルをひっくり返しそうになる。
美雪は頬を赤くしながら、ため息をついた。
「何よ放置くん。じゃあ……私と試してみる?」
気づけば彼女の顔もすぐ目の前に迫っている。
さらに――反対側からは茜まで同じ距離に。
『おいおいおい……これ、完全にえっちなアニメで見たシチュじゃん。いつもならここで邪魔が入って――ほら宇宙、イベント発生頼む!』
……数秒経過。何も起きない。
二人の香水の匂いが肌に染み込んで、心臓が爆発しそうになる。
『……詰んだ。何も起きないまま、俺の理性が崩壊するパターンだこれ』
観念して目を閉じた瞬間――
「ぷっ……あはははははっ!」
茜が耐えきれずに吹き出した。それにつられて美雪も笑い出す。
緊張でカチコチだった俺も、安堵のあまりつい笑ってしまった。
『結局、王道のエロアニメ展開かよ。ありがとう、神様……今回は笑いで救済エンドらしい。』
そこから先は完全にカオスだった。
部屋いっぱいに笑い声、音程外しまくりの歌声、空になったグラス。
美雪も、最初の堅苦しさはどこへやら、アルコールのおかげでこっそり微笑みを見せるようになった。
茜に至っては、モニターの光をエネルギー源にしてるみたいにテンションMAX。
その真ん中で俺はただの被験者。二人の先輩が勝手に作り上げる実験ラブコメ劇場の小道具扱いだ。
『これ、実験っていうより……完全にマイク付きリアリティショーだろ。』
極めつけに茜が選んだのは、振り付きのラブソング。
俺は腕を引っ張られて立たされ、美雪まで真っ赤な顔で参加してきた。
三人で馬鹿みたいに手を叩き合いながら、『永遠の絆』を連呼するサビを絶叫。
『……もう笑うしかないだろ、こんなの。』
気づけば俺も声を上げて笑っていた。
――午後9時45分。
九月末の夜風は少し肌寒かった。
カラオケを出た俺は、両腕に先輩二人を抱える形で歩く羽目に。
二人とも千鳥足で、まださっきの歌をぐちゃぐちゃに混ぜて歌っている。
「……この光景、誰かに見られたら確実にまた噂になるな」
思わず呟く。
『頼むからフラグ立てんなよ、匠。俺の不運は聞き分けが悪いんだから。』
その瞬間、――パシャッ、と白い閃光が夜道を切り裂いた。
街灯でもネオンでもない。もっと直線的で鋭い光。
「……今の、カメラのフラッシュ?」
慌てて周りを見回す。コンビニに入る客、横断歩道を渡るカップル、タクシーを拾う人々。
怪しい人影は見当たらない。
「……いや、気のせいだ。ネオンか、アルコールの幻覚か、もしくは俺の被害妄想だろ」
頭を振って歩き出す。
でも、首筋のざわめきは消えなかった。
『それにしても……今日の実験は、思ったより悪くなかった。食われかけたシーンを除けば、むしろ楽しかったと言えるかもな。』
ただ――その不快な視線だけは、一日中ずっと俺に張り付いていた。
夜の闇に沈んでも、決して消えることはなかった。
次回・『記者の皮をかぶった新しい悪夢。』
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!
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