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第1章。 『大学初日? いや、拷問初日だろ。』

大学生活――誰もが憧れる『自由』と『青春』の舞台。

だが、新井匠の初日は違った。

目覚ましを寝過ごし、道に迷い、偶然出会ったのは――

自称・未来の大作家と、毒舌イラストレーター。

普通の大学一年生として静かな日々を送るはずが、

気づけば『実験台』に指名され、噂の渦中へ。

……平穏なキャンパスライフ?

残念、初日で絶滅危惧種入り。

新井・匠(あらい・たくみ)

篠原・茜(しのはら・あかね)

藤宮・美雪(ふじみや・みゆき)

川崎・陽翔(かわさき・はると)

放置(ほうち)


神保町・東京。

9月26日。


本来なら、目覚ましは七時ちょうどに鳴るはずだった。

――はず、だった。

現実は、目を開けたら七時半。

その三十分の遅れが、『完璧な初日』と『大学デビュー即ダッシュでバカ丸出し』の分かれ道になるかもしれない。

幸い、俺のアパートは神保町にある。

駿河台キャンパスまでは歩いてすぐ。

……全力で急げば、なんとか間に合うはず。まだ死ぬほど焦る段階じゃない。

大きなあくびをしながら、六畳の学生部屋をぐるりと見回す。

そこは完全に『二次元博物館』と化していた。

アニメのヒロインのポスター、ラノベのカバーイラスト、ゲームのビジュアル――全部テープで貼り付けられてる。

中には夜中三時にPixivから違法プリントしたファンアートまである。

……要するに、実在しない恋に囲まれた部屋だ。

『もし母さんがここに来たら絶対こう言うだろうな――「ああ、だからあんたに彼女ができないのね」』

いや、自分でもそう思う。反論の余地ゼロ。

とりあえず一番マシなTシャツを引っ張り出しながら、五日前の出来事を思い出した。

9月21日。

――あの日、俺は間違って『ラブコメのヒーロー』にされ、さらに謎の二人組女子大生に囲まれた。

眼鏡ツンデレ先輩と、毒舌タブレットイラストレーター。

……幸い、その後は一度も会っていない。

連絡もなければ、偶然の再会もなし。

東京は広い。きっとそのまま埋もれてくれるはず――そう信じたかった。

「よし……これで俺の平和な大学生活スタートだ」

そう呟いて、溜息と一緒にリュックを背負う。

外に出ると、秋の空気が顔にぶつかった。

ひんやりとした湿り気に、銀杏の落ち葉の匂いが混ざっている。

空は一面の曇り空。雨を降らせるか、そのままサボるか――どっちつかずな天気だ。

通りには、俺と同じように新しいリュックやファイルを抱えた学生が行き交っている。

その顔には不安と期待が入り混じっていて、見てるだけで分かる。

角ではサークル勧誘の学生たちが大声を張り上げていた。

「演劇研究会に入らないかー!」

「軽音部、メンバー募集中!」

俺は紙のビラをプロジェクタイルのように避けながら素通り。

今のところ、サークルで人生を複雑にする気はなかった。

目的地は、学生寮から徒歩十分以内。

『明治大学・駿河台キャンパス』

そこに見えたのは、まさに眠気と安息を奪い尽くす魔境の入り口。

それっぽく胸を張り、人混みに溶け込むように歩いた。

……が、気づいたら違う建物に入っていた。

大学初日、早々に一敗。

『俺って……やっぱ不運の磁石だよな』

仕方なく、キャンパスマップの前で分かってる風に突っ立つ。

心の中では『ここに矢印出ろ、【あなたはここ】って光れ!』と念じながら。

――その時だ。

「……あら、見覚えのある顔じゃない」

背後から聞こえてきた声に、俺の体は一瞬で硬直した。

その声は、ナイフみたいに鋭くて皮肉っぽい。

俺の背筋が一瞬で凍りついた。

『……ちょ、マジかよ。いやいや、宇宙さん? 本気で俺をイジメにきてるの?』

「えっと……すみません、人違いだと思います。じゃ、失礼します」

視線を合わせないようにそそくさと歩き出す。

「……新井くんを無視する気? ひどいなぁ、この前あんなに濃い時間を過ごした仲なのに」

わざとらしく大きな声で言われ、周囲の学生が一斉にこちらを見る。

……あーあ、完全に悪者扱いじゃん。

観念して振り返る。

肩まで伸びたダークブラウンの髪に、赤みがかったハイライト。

バーガンディ色のパーカーに黒のパンツ、白いスニーカー。

そう、あのタブレットの子――

「……あ、あー……君か。えーと……えーと……」

必死にとぼけるが、顔には助けてって書いてあるに違いない。

『畜生。あの日、名前ちゃんと聞き取れてれば……これじゃラブコメどころか、安っぽいドタバタ劇の主人公だろ』

彼女は片眉を上げ、唇にニヤリとした笑みを浮かべた。

「ひどーい。新井くん、私の名前も忘れちゃったの?泣いちゃうよ?」

その場にいた女子たちが『最低……』みたいな目で俺を見てくる。

……はい、さようなら俺の平和な大学生活。

「おい……」

俺は彼女の腕を掴んで人気の少ない隅に連れて行った。

……すぐに気づいたけど、余計に誤解を生むだけだった。

「おかげで俺のキャンパスライフは初日から終了です。本当にありがとうございました」

「せめて名前ぐらい覚えてほしかったなぁ。失礼な人だね、新井くん」

「ちょ、待て。あの時トラックの騒音で聞こえなかったんだよ。その後も教えてくれなかっただろ!」

「ふーん……そうだったっけ? まあいいや。特別にもう一度だけ言ってあげる」

彼女はわざとらしく間を取って、勝ち誇った笑みを浮かべた。

「篠原茜。忘れんなよ?」

俺は深いため息をついた。

「……はいはい、覚えました。どうもよろしく」

軽く頭を下げて背を向ける。

「じゃ、俺はこれからデザイン学部を探さなきゃ。初日から遅刻とかシャレにならんし」

そう言って歩き出した瞬間、茜に腕を掴まれた。

「え? 今デザイン学部って言った?」

「そうだけど……なんで?」

茜の口元がニヤリと歪む。

「ふふふ……面白い。奇遇だね。私、デザイン学部の二年生なの。つまり――」

彼女は得意げに胸を張った。

「今日から私があんたの先輩ってわけ~」

「……はあああああ!?」

『勝ち誇るのは早すぎた……マジで呪われてんのか、俺』

結局、地図探しを諦めて、茜に連行されることになった。

なぜ今まで気づかなかったんだろう。

タブレットに有名イラストレーターのステッカーまで貼ってあるのに、茜がデザイン学部って考えなかった自分が情けない。

彼女は知り合いに軽く会釈しながら、迷いのない足取りで学生の群れをすいすいとかき分けていく。

その後ろを、俺は大きなリュックを背負ってヨロヨロと追いかける。まるで十字架でも背負わされてるみたいに。

横目でチラッと見ては、心の中で同じことを繰り返す。

『……いや、確かに可愛いよ。認めるけどさ。でも、なんでよりによってコイツなんだ?運命? それとも……高二の時にエロ本立ち読みした罰とか?』

そうこうしてるうちに、デザイン学部の建物の前に到着した。

別れ際、彼女が振り返る。

「お昼休みに待ってるから。キャンパス案内してあげる」

「……それ、強制?」

「さぁね。ま、ある人をこれ以上怒らせたくないなら、来た方がいいんじゃない?」

そう言って意味ありげに微笑む。

脳裏に浮かんだのは――あの黒髪メガネの先輩。

『……マジかよ。俺、本当にこんなスタート切るの? 大学初日から?』

彼女の口実はあまりにも完璧で、断ったらただの馬鹿になるだけ。

……つまり、選択肢はゼロってことだ。

大学初日。

もう二人の美女と約束ができてしまった。

普通の男子からしたら夢みたいな展開。

俺にとっては、むしろ悪夢のプロローグだ。

『俺、何をした? ただ静かに生きようとしただけなのに……』

***

神田駿河台・東京。

明治大学。


休み時間になると、教室は一気にざわめき出した。

椅子がガタガタと引かれ、リュックが開き、バターの香りが漂うパンの袋が破られていく。

そんな中、俺はまだ履修表と格闘していた。

――その時、肩をポンと叩かれた。

「君、新井だよね?」

顔を上げると、柔らかい笑みを浮かべた茶髪の男子。髪は短めに切りそろえられていて、持っているファイルには 『Graphic Dept.』のシール。

「川崎陽翔。俺も一年」

「……あ、どうも。新井匠です」

彼は当然のように隣の席に腰を下ろした。まるで小学校からの同級生みたいな距離感で。

「なあ、ちょっと聞いてもいい?」

声を潜め、にやっと笑う。

「君、篠原先輩と……何かあるの?」

『……はい来た。この展開』

「え? 俺と……?」

とりあえず手元のボールペンを凝視してごまかす。

「今朝、中庭で一緒にいるの見ちゃったんだよ。っていうか、みんな見てたけど」

『最高だな。大学初日から噂の的って……勘弁してくれ』

「いやいや、誤解すんな。俺もただ気になっただけで――」

慌てて両手を振る陽翔。

「でも、篠原茜ってさ、デザイン学部じゃ結構有名なんだよ。天才肌って噂だし、尊敬されてる。……あとまあ、見た目もさ」

「……かわいい」

「そう、それ!」

陽翔は大げさに頷く。

「しかも、あのゆるっとした感じ。余裕あるっていうか、なんか魅力あるんだよな」

『ゆるっと? オーバーサイズのパーカーにタブレット抱えてる姿のこと? ……まあ、確かに』

『てか、なんでこいつこんなに詳しいんだよ。あ、そっか。四月からいるからか。俺は九月から途中参戦。続きからプレイしたおバカさん、っと。』

「別にそういう仲じゃない。ただの……偶然の知り合い、ってやつだ」

「偶然の知り合い、ね」

陽翔はニヤニヤしながら繰り返した。

「なんか羨ましいなぁ、それ」

「何も羨むことないって。ほんとに」

「ふーん……」

チャイムが鳴り、二人とも次の授業へ。

――九十分後。

俺の腹は、昭和から一度も食べてないみたいな勢いで鳴っていた。

「なあ、匠。昼どうする?」

陽翔がリュックを肩にかけながら聞いてくる。

「安けりゃどこでも」

親から送ってもらった仕送りは、ほとんど部屋のデコレーションに消えた。

このままじゃバイトしないと確実に飢える。……いや、見た目はすでに貧乏学生だが。

「じゃあ学食だな。安いし早いし――」

が言いかけて、急に固まった。

「……え、あれって篠原先輩じゃね?」

つられて前を見る。――やっちまった。完全に視線ロックオン。

篠原茜。

柱に寄りかかってタブレットをいじっている姿は、一見すれば穏やかで可愛い。

……が、俺には罠を仕掛けて待ってる捕食者にしか見えなかった。

俺を見つけると、ゆるりと口角を上げる。

「……あら、どこ行くのかしら、新井くん?」

スッと手を上げ、俺の進路をふさぐその仕草は、防御術の達人レベル。

「……飯。人間が生きていくために必要不可欠な活動です」

「じゃあ、ちょうどいいわ。約束どおり一緒に行きましょうね」

俺の腕を自然に取る。

……優しい微笑みの人質犯ってこういう感じなんだろうな。

陽翔は目を丸くし、交互に俺と茜を見る。

「お、おう……じゃ、また食堂でな、匠」

肘でつついてきて、声を潜めたつもりのひと言――

「……羨ましい」

茜の耳にはバッチリ届いたらしく、にやりと笑う。

「ふふ、ありがと。ちょっと借りるわね」

『借りる』って何だよ。俺は図書館の本か? 電卓か?

――東京ってもっと広いと思ってたのに。どうしてこうもバッドイベントばかり引き当てるんだ。

階段を下ると、カレーとウドンの香りが混じって押し寄せてきた。

「そういえば」俺は観念して聞いた。

「彼女の名前。ちゃんと教えてくれよ。今朝の再現はもう勘弁だ。噂ならすでにトイレの落書きレベルで広がってるし」

茜は魚を前にした猫みたいに首を傾げ、無邪気な声で答える。

「あ、忘れてた。じゃあ、神崎って呼べばいいよ」

「神崎さん? それとも神崎先輩?」

「どっちでも大丈夫。伝わるから」

――いや待て。なんでこんなにスムーズなんだ? 逆に怪しいだろ。

でも、信じるしかない……俺に選択肢はない。

学食に入ると、12時10分。

ガヤガヤとした音が一気に押し寄せてきた。

トレーのぶつかる音、今日の定食を叫ぶ声、椅子の軋む音、笑い声。

長テーブルは半分ほど埋まり、カレーやカツ丼、そばの列が伸びている。

茜に導かれ、窓際の席へ。

「ほら、ここ」

そこにいたのは――腕を組み、眉間に皺を寄せた黒髪眼鏡の少女。

髪はハーフアップで整えられ、顔まわりに柔らかい毛先。

紺色のカーディガンに淡いブラウス、膝下までのプリーツスカート、黒タイツにローファー。

……妙に清楚で可愛らしい格好なのに、目つきだけは完全に『お前を論破してやる』モード。

テーブルの上には付箋で埋まった分厚いノートと、武器のように指で回す多色ボールペン。

オーラ:文系女子+容赦ゼロ。

茜は、まるでトドメを刺すかのように俺を突き出した。

「ほら、連れてきたよ〜」と上機嫌に歌うような声で。

俺は慌てて頭を下げた。できるだけ礼儀正しく、無難に。

「……こ、こんにちは。神崎先輩」

沈黙。

黒髪の少女は、目を細めてこちらを睨む。だが言葉は返ってこない。

「まぁまぁ、礼儀正しいじゃない、新井くん」

茜が口を挟んでくる。

「……あ、よかった。やっぱり合って――」

「……神崎? 誰それ」

冷え冷えとした声。背筋がゾクッとした。

「え……? でも篠原先輩が……」

「私の名字は神崎じゃない!」

彼女は声を少し張り上げる。その声量は、学食の半分に届くレベル。

「失礼にもほどがあるわね。あの日いきなり消えたと思ったら、今度は別人扱い?」

俺はすぐに横目で茜をにらむ。――案の定、タブレットを抱えながら肩を震わせて笑ってやがる。

『……この女、最初から俺を罠にかける気満々だったな。信じた俺がバカだった』

学食のざわめきが一瞬だけ収まり、その直後に囁きが波のように広がった。

『え、あの子って今朝篠原さんといた一年だよね?』

『今度は違う先輩と? 早すぎじゃない?』

『……もしかして二股? やば……』

……完璧だ。初日で『安っぽいハーレム主人公』認定。ありがとう東京。

茜は口元を押さえ、わざとらしく驚いてみせる。

「きゃー、間違えちゃった! ごめんね新井くん、ふふふ……」

その笑みは反省ゼロどころか勝利宣言。

一方の黒髪の少女は、眼鏡をクイッと押し上げ、辞書を踏みつけられたかのような顔で俺を射抜く。

「藤宮。藤宮美雪。文学部二年……覚えた?」

そして鋭く続けた。

「放置くん」

バンッ、とスタンプを押すみたいに。

「……は?」

「放置くんよ。あの日実験台にすると言ったのに、そのまま私を放置して逃げたでしょ?」

言葉の刃に、思わず背筋が凍る。

『……終わった。俺の大学生活は正式に【放置くん】のラベル付きでスタート』

「ちょ、待ってください藤宮先輩! それ誤解です! だって連絡先もらってませんよね? どうやって連絡すればよかったんですか!」

思わず反論すると、藤宮の表情がわずかに揺らぐ。

頬がかすかに赤くなり、言葉に詰まった。

……だが謝る代わりに、そっぽを向いてノートを開く。

『……図星、だったんだな。いや、ちょっとは悪いと思ってる顔だぞそれ』

「はいはい、藤宮先輩。日本中探し回らなかった俺が悪いんですね。本当にすみませんでした」

わざと皮肉っぽく返したが、時すでに遅し。俺の評価はすでに地に落ちていた。

「……フン。まあいいわ。座りなさい。せっかく来たんだから、さっそく始めるわよ」

彼女は目の前の椅子を指さす。完全に命令口調。

『仕事っていうか……実験動物にされた気分なんだが』

仕方なく席に着くと、茜も当然のように隣に腰を下ろし、タブレットを起動した。

俺はトレーを置く。中身はウドン。――こういう時、無難でやさしい味が一番だ。

「じゃあ単刀直入に言うわね」

美雪は分厚いノートを開いた。

付箋だらけで、『書き直し』『ベタすぎ』と書かれている。

中央には三色で強調されたタイトル。

『神田古本まつり』――短編小説コンテスト。

「そこで作品を出すの。適当じゃなく、まともなやつを」

「で、そのまともっていうのは……」

茜がにやりと笑って口を挟む。

「私が挿絵を描いて、新井くんが……身体を張るってことね。つまり、実体験サンプル。ふふっ」

「恋愛経験のリアリティよ、篠原。そこが足りないの」

美雪はきっぱりと言い、俺に数枚の原稿を押しつけた。

仕方なく読み始める。

一枚目――わりと綺麗な描写。

二枚目――会話もそれなりにテンポがいい。

三枚目――いきなりキスシーン。しかも……これは……

『いやいやいや、これはもう花火大会じゃなくて成人式の打ち上げ花火だろ』

咳払いで誤魔化そうとしたが、声が裏返って失敗した。

「こ、これは……藤宮先輩、純愛小説……ですか? それとも性教育の隠語集ですか?」

「ち、違う! 別に大人向けじゃない! ……ただの文体の美化よ!」

猫のしっぽを踏んだみたいに飛び上がり、頬を真っ赤に染める美雪。

「なるほどね。燃えるような美化ってやつ? それを私に描けと? 完全に願望イラストじゃない」

茜は顎に手をのせて楽しそうに笑っている。

「し、篠原!」

美雪は真っ赤な顔で睨みつけ、次に俺を指差した。

「とにかく、このシーンは書き直す。今日から実験開始よ!」

『いやいや、実験開始って。俺はモルモットか』

「もういっそ、作品変えた方がいいんじゃ……作家やめてさ」

つい口に出すと、彼女の眉がピクリと跳ねた。

「放課後にプロローグを一緒に見直すわ……過剰表現を減らして、もっとリアリティのある経験を加える――そのために放置くん、あんたが必要なの」

「おい待て! その『放置くん』って何なんだ!」

「だってそうでしょ。勝手に消えた人に相応しい呼び方よ。嫌なら……名誉を取り戻すことね」

彼女はツンと顎を上げた。

『――まとめ。俺は【偶然の知り合い】から、【定期的に拘束される実験モルモット】にクラスチェンジ。しかもあだ名は【放置くん】。もう大学中の女子から【最低男】扱いされる未来しか見えない』

深く息を吸ってから、俺は言った。

「……分かりました。で、どこで会えばいいんですか?」

それはつまり、自分の人生に一切の主導権がないと認めた発言でもあった。

「駿河台図書館、三階の静かな閲覧室――十七時ね」

美雪は手帳を確認することもなく、当然のように言い放った。

「それと……傘、忘れないでね、新井くん」

横で茜が肘で小突いてくる。

「……傘?」

「分からないでしょ? 一緒に相合い傘することになるか、それとも……ふふ」

あどけない笑顔の裏に、確実に黒い下心がにじんでいた。

『……おいおい。まさかの二重人格ヒロインか。完璧に俺のキャパ超えてるんだが』

気づけば、ざわついていた食堂もいつの間にか元の騒がしさを取り戻していた。

周囲の視線が薄れたのは、唯一の救い。

「じゃあ――自己紹介完了、目標設定完了、時間と場所も決定」

美雪はノートを閉じ、淡々とまとめた。

「そして、新しい噂も拡散開始……ま、ラノベでは定番よね」

茜が楽しそうに付け加える。

「よかったじゃない、放置くん。これで少しは役に立ったわけだし」

美雪が冷たい目でそう言う。

「役に立つ? いやいや……これはただの人生崩壊だろ……」

思わず深呼吸して言葉を飲み込む。

『初日でこれ。昼休みひとつで、大学の噂話デビュー完了。平和なキャンパスライフ? はい消えたー』

「じゃ、また五時にね、放置くん」

美雪は立ち上がると、まるで食堂を図書館に変えてしまうかのような優雅さで去っていった。

「私も行くわ、藤宮さん。ちょっと話があるから」

茜も立ち上がり、すれ違いざまに俺の耳元でささやいた。

「……神崎キラー、お疲れさま♡」

「し、篠原先輩……お前、ほんっと性格悪いな……」

「はーいはーい」

まるで鼻歌を歌うように答える。

二人は『ロマンティック』と『ロマンチックの演出は違う』とか何とか議論しながら出て行った。

残された俺は、箸を中途半端に持ったまま、ただ出口の扉を見つめる。

『……五時間で手に入れたもの:謎の噂、18禁寄りの原稿、そして俺の尊厳の消失』

深く息を吐き、心の中で覚悟を固める。

「――じゃ、五時に」

***

神田駿河台・東京。

17時2分。


図書館に駆け込む。心臓はマラソンを走ったかのようにバクバク。

時計を見る――二分遅刻。

五分でも十分でもない。ただの二分。

「……放置くん、しかも遅刻魔」

紙で指を切ったみたいに鋭い声が飛んできた。

そこに座っていたのは美雪。

背筋をピンと伸ばし、分厚いノートを開き、多色ボールペンをまるで手裏剣みたいにくるくる回している。

その隣では、茜がタブレットに落書きをしながら、いかにも愉快な見物人の顔。

「……初公式ミーティングから遅刻とは、どういうつもり?」

美雪の眉間には深い皺。

「先輩……たった二分ですよ? 警察の調書にも載らないレベルです」

「二分の遅れが、本物の作家と素人の差を生むのよ」

「……なるほど。つまり俺は堂々と素人ってことですね。勉強になります」

椅子に崩れ落ちるように座る俺。

茜がくすっと笑った。

「まあまあ藤宮さん、そんなにキツく言わなくても。きっと彼は噂の火消しに走り回ってたんだよ」

「ありがとうございます、篠原先輩。その心温まるサポート、本当に泣けます」

深いため息をついて皮肉を返す。

「――時間が惜しいわ。今日はまずプロローグから」

美雪はノートをバンッと叩き、ページの束を突き出してきた。

びっしりと書き込みや付箋。『要修正』『ベタすぎ』『これはやりすぎ?』などの文字が踊る。

『……うわ、また地雷原だな』

ごくりと唾を飲み、声を低めて読み始める。

「……彼女の唇は震え、燃え上がる欲望に抗えず――」

思わず手を止めて顔を上げた。

美雪――石像のように固まりつつ、顔は真っ赤。

茜――完全にサーカス見物人の笑み。

ページをめくる。

「彼は彼女を壁に押し付け、その指先はゆっくりと首筋をなぞり――」

目をつぶり、深呼吸。

「……これ、純愛ですよね? どう見てもプロローグじゃなくて、18禁小説のクライマックスですけど」

「ち、違うっ! これは……文学的表現よ!」

美雪は猫のしっぽを踏まれたみたいに飛び上がり、顔を真っ赤に染める。

「文学的? いやいや、18歳以上サバイバルマニュアルだろ、これ。藤宮先輩、あまりにも直球すぎるって」

堪えきれず、茜がくすくす笑った。

「ふふふ、ひどいなぁ新井くん。でも私は面白いと思うよ。むしろイラスト描きたくなってきた」

「そうよ篠原。しかも、これはあくまで下書き! 下・書・き!」

美雪は俺を鋭く睨みつけた。

俺は真剣な顔でうなずく。

「なるほど……じゃあ、今読んだのは実験的+18歳版プロローグってことですね」

「なっ……ななな、何言ってんのよ! そんな風に言わないで!」

バンッ、と机をボールペンで叩く美雪。

その音で周囲の学生たちが一斉にこちらを振り向く。

『……最高だな。大学初日で図書館出禁になりそうとか』

「じゃあさ、これが普通なら――実際に演じてみたら?」

俺はにやりと笑って言った。

『もちろん図書館で。ここで。観客付き。――ナイスアイディアだ、俺』

空気が一瞬で凍りつく。

「な、な……!? や、やめなさいよ、バカ!」

美雪は言葉にならない声を漏らす。

「ちょ、ちょっと新井くん……ここ図書館だから……」

茜ですら頬を赤らめながら止めに入る。

『……決まりだな。こいつら二人、間違いなく隠れ変態だわ』

――結局二十分後。

図書館を出る頃には夕方の空気がすっかり冷え、落ち葉の湿った匂いが漂っていた。

美雪はノートを胸に抱きしめ、真っ赤な顔のまま歩いている。

……たぶん、自分で書いたシーンを思い出しては勝手に恥ずかしがってる。

隣では茜がまだニヤニヤしながらタブレットに線を走らせていた。

「……ほら。リアリティ欲しいなら、もっと軽いところから始めればいいんじゃない?」

俺は肩をすくめながら提案する。

美雪が片眉を上げた。

「……例えば?」

「シンプルにさ。手をつないで夕暮れの中を歩くとか。それだって立派な恋愛でしょ?」

沈黙。

茜が顔を上げ、にやっと笑った。

「……あら、本気で言ってる?」

「冗談じゃないよ。本気だ」

ため息交じりに言う。

「で――誰がやる?」

茜が即座に手を差し出す。自信満々に。

美雪は迷いを隠せず、その手をただ見つめている。

俺はというと――心の中でどうせまたロクでもないイベントになるんだろと覚悟していた。

俺は茜の手を取った。

温かい。しかも、余裕そうな顔のくせに、指先はほんの少し強く握られている。

美雪はその様子を、まるで危険な実験の経過観察でもしているかのようにじっと見つめていた。

「……こ、これはあくまで練習だからな」

喉を鳴らしながら言う俺。

「練習……ね。でも、可能性はあるわよ?」

茜はふっと身を寄せる。

かすかに香るのは柑橘系の香水――マンダリン、柚子、レモン。

軽やかで爽やかなのに、どこか小悪魔的で、息をするたびにからかわれてる気分になる。

『……うわ。今の俺、完全にラノベ主人公のシチュじゃん』

――その時。

「え? あれ……篠原さんと藤宮さんじゃない?」

横から声が飛んできた。

図書館の入口を横切る三人組の女子。

ひとりは分厚いフレームの眼鏡に大量のファイルを抱えた、いかにも委員長系。

もうひとりは髪を高い位置で結び、歩きながらスマホをカタカタ打ち続けている、ニュース速報命タイプ。

最後のひとりはガムを噛みながら、サイズオーバーの大学ジャケットを羽織った、不敵な笑みの噂好き。

「ねぇ、あれって食堂で噂になった一年の子じゃない?」

「そうそう、今朝は篠原さんと一緒にいたよね?」

「え、でも今は藤宮さんもいるじゃん……これって三角関係?」

……顔を地面に埋めたい衝動に駆られた。

美雪がわざとらしく咳払いする。

「……もういいでしょ。手、放して」

頬は赤いままなのに、声だけは冷静を装っている。

茜はわずかに力を込めてから、ようやく手を離した。

口元には危険な笑み。

「ふふふ……噂レベルアップ。おめでとう、新井くん」

「……は? レベルアップって何だよ」

「さっきの三人、新聞部のメンバーだよ。面白いネタなら何でも記事にする連中」

美雪がため息まじりに説明する。

「……マジかよ。あれで大学生? 完全に学園ドラマの珍キャラ三人組にしか見えなかったけど」

『……最悪。学部どころか大学全体に噂が広がる未来、確定』

見上げた空は灰色の夕暮れ。

――大学初日。俺は『偶然ヒーロー』にされ、『放置くん』のレッテルを貼られ、最後は勝手に『三角関係の中心人物』。

『――大学初日終了。俺の平和な日々は、開始五時間で死亡確認。』

次回・『噂って、無料Wi-Fi並みに早いんだが。』


最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

よければ評価していただけると、今後の励みになります!

これからもどうぞよろしくお願いします!

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