プロローグ。
新井・匠
神保町・東京。
9月21日。
先に断っておく。これは俺の意思で始まった物語じゃない。
気づいたら巻き込まれてたってやつだ。
俺の名前は新井匠。
十八歳、静岡県浜松市の出身だ。
明治大学でデザインを専攻してるけど……正直、これが本当に正解だったのか今でも分からない。
イラストを見るのは昔から好きだった。ネットのギャラリーを眺めて何時間も潰せるくらいには。
でも、『好き』と『得意』は別問題だ。
もし才能っていう円があるなら、俺はいまだにその外で順番待ちしてる感じだな。
神保町は、俺が想像してた『東京のネオン街』とは全然違った。
古い紙とインクの匂い、本の山に埋もれた古書店、昭和から営業してそうな店先。
新品の冷蔵庫より高そうな値札がついた本が平気で並んでるし、細い路地には珈琲の香りが漂ってくる。
悪くない。むしろ、足を止めたくなるような雰囲気だった。
そんな中、ふと視界に飛び込んできたのは、一枚の貼り紙だった。
『神田古本まつり』
11月2日。
これから通う大学の近くで本の祭りか。悪くないな。
もしかしたら何か掘り出し物を見つけられるかもしれない。
最低でも母さんに「ちゃんと東京を満喫してる」って言い訳できるだろう。
それで一週間は、朝七時の電話攻撃を回避できるはずだ。
――「きゃああっ! 私のバッグ!」
突然、女の叫び声が響いた。
振り向くと、男が全速力で走ってくる。手には女性物のバッグ。
その後ろを、全力で追いかける女の子……ただしフォームは壊滅的。
俺は当然、市民の義務を果たすことにした。
足元に転がってきた空き缶を拾おうと腰をかがめた、その瞬間――。
ドンッ。
男が俺にぶつかり、俺は地面に倒れ込んだ。相手も派手に転ぶ。
バッグは宙を舞い、見事な放物線を描いて持ち主の腕に収まった。
――『偶然ヒーロー』マニュアルの基本編だ。
「た、助かった! 本当にありがとう!」
女の子は涙目でバッグを抱きしめ、俺を見ていた。
『……はいはい、匠。東京一日目にして、もうラブコメのお約束イベントを解除しましたよ。次は何だ? 花火大会で告白か?』
俺は『別に何もしてない』とでも言いたげな曖昧な笑みを返し、服についた埃を払い落とした。
女の子は深々と頭を下げると、にっこり笑って人混みの中へ消えていった。
数秒後、俺は再び歩き出した――
――「おい、そこの君」
声が路地の角から飛んできた。
振り向くと、二人の女の子が、まるで珍しい生き物でも見つけたかのような目で俺を見ていた。
一人は、プライドの高そうな顔立ちに、すぐに眉間にシワが寄りそうな雰囲気。
黒髪を高い位置でポニーテールに結んでいて、両側からはねた髪がわずかにこぼれている。
白い長袖のブラウスにニットベスト、その下は濃い色のプリーツスカート。まるで大学のパンフレットから出てきたような格好だ。
細いフレームの眼鏡をかけたり外したりして、それすら『キャラ作り』の一部みたいに見える。
もう一人は、少し背が高く、肩まで伸ばした髪は茶色がかったダークブラウンに赤みが差している。
ベージュ色のオーバーサイズのセーターに黒のスキニーパンツ、足元はシンプルなスニーカー。
頑張っていないようで、なぜか周りより格好良く見えるタイプだ。
肩から下げた大きめのトートバッグからノートがのぞき、手にはタブレット。口元には「招いてるのか試してるのか分からない」微笑が浮かんでいた。
……で、俺。
転んで乱れた髪に、ユニクロのシワだらけのTシャツ、電車で埃まみれになったスニーカー、そして高校時代から使い回してるリュック。
この二人の横に並んだら、大学のポスターに迷い込んだ浮浪者にしか見えないだろう。
黒髪ポニテの方が一歩前に出て、腕を組み、堂々と言い放った。
「フン……運がいいわね。今日からあんたは私と一緒に働くの。未来のプロ作家とね!」
「……は?」
するとタブレットの子が少し首を傾げ、刃物みたいに鋭い、でも柔らかな声で続けた。
「同時通訳してあげようか? 要するに――あなた、今さっきラブコメ実験台に昇格したの。おめでとう」
……沈黙。
通りの真ん中なのに、妙に居心地の悪い静けさに包まれた。
「えっと……ありがたいお話だけど、俺には用事があるから。失礼」
軽く頭を下げて歩き出す。三歩。五歩。横断歩道を渡り、角を曲がる。
スピードは上げない。ただ、東京の雑踏が二人を巻き込んでくれると期待した。
――期待、外れ。
「待ちなさい!」
さっきの黒髪が再び俺の前に立ちはだかった。まるで護身術の練習でもしてきたかのような正確なブロック。
その隣にはタブレットの子。
……コンビネーション抜群じゃねえか。
「よくも私の申し出を断ったわね!?」
彼女の瞳は野心と……生活指導教師みたいな脅しの光を混ぜ合わせていた。
「まあまあ、そんなに怒らないで」
タブレットの子が口元を緩め、皮肉っぽく呟く。
「彼、今日が東京一日目なんでしょ。こっちの『ない』がどれくらい意味を持たないか、まだ知らないのよ」
「な、ないは……ないでしょ!?」
思わず反射的に口走る俺。
「ほら見て。もう『脇役キャラ』みたいなこと言い出したじゃない。」
彼女は片目をウィンクしてきた。
黒髪は舌打ちして、じれったそうに言う。
「いい? 私たちが欲しいのは『リアリティ』。そしてあんたは……」
俺を頭からつま先まで眺め回し、にやりとする。
「……安っぽいラブコメ主人公の顔してる。だから、実験台になりなさい。これは大義のためよ!」
『大義……あんたのためだろ。東京、これって歓迎の冗談か?』
「リアリティって……何のために?」
観念して聞き返す。どうせ逃げ場はない。
「決まってるじゃない。小説のためよ!」
彼女は胸を張り、堂々と宣言した。
「同人誌はもう出してる。でも私は絶対に商業デビューする。そのために磨かなきゃならないの……『恋愛経験』」
最後の三文字を言った瞬間、わずかに頬が赤くなった。本人は必死に隠していたけど。
「で、もちろん。その経験サンプルが誰になるかは――」
タブレットの子がにやけながら俺を指差す。
「――あなた以外いないでしょ?」
俺は初めて彼女の手元に目をやった。
タブレットを持つ彼女の指先にはインクの汚れが残り、貼られていた小さなステッカーは、俺がネットでよく見ていたイラストレーターのものだった。
偶然か――いや、東京じゃ偶然なんてそこら中に転がってる。問題は、それが偶然で終わらない時だ。
「安心して。あなたの人生を壊すつもりはないわ……ただメモを取るだけ」
タブレットの子がそう言った。
「ついでに実践もするわよ!」
作家志望の黒髪が、まるで当然のことのように言い放つ。
「手をつなぐとか、傘を一緒に使うとか、二歩分の距離で歩くとか、左を向くタイミングを合わせるとか……カップルっぽいこと全部ね」
『……普通、だよな? 俺は頭の中で繰り返しながら、逃げ道『ゼロ』を必死に探していた。』
その時、トラックが轟音を立てて通り過ぎた。
騒音の中、タブレットの子が黒髪に向かって何かを言ったのがかろうじて聞こえた。
「ねえ……」
名前を言ったはずだ。でもエンジン音にかき消されてしまった。
『完璧だ。誰なのか、どう呼べばいいのかも分からないまま、もう俺を実験体扱いしてる』
黒髪の子は、まるで契約書にサインさせたかのような顔で俺を見た。
「じゃあ、決まりね。今から始めるわよ」
「ちょっと待って。まず名前を教えてもらいなさい。いつまでも『あんた』呼びは失礼でしょ?」
タブレットの子が割って入る。
「チッ……細かいわね。名前は?」
黒髪がじろりと俺をにらんだ。
「……新井。新井匠だ」
タブレットの子はコクリとうなずき、まるでターゲット確保と書かれたフォルダに保存するみたいに目を細めた。
「よろしくね、新井くん。私は……」
そう言いかけた瞬間、横断歩道の信号音が鳴り響き、声はかき消された。
届いたのは笑みだけ。
「ま、すぐ分かるわよ」
黒髪が横にずれ、俺の進む道を開けた。
だが、俺はその隙間を抜けなかった。まだ。
宇宙がアドリブをかましてくるなら、せめて俺もダンスを覚えるしかないだろう。
――『ようこそ東京へ、匠。初日、初プロジェクト、正体不明の二人。そして合法かどうか怪しい未来。』
「……分かった。条件付きで受ける」
俺は自分の正気を疑いながらそう言った。
「条件?」
黒髪が眉をひそめる。
「人前で変なことは……今日はやめてくれ」
タブレットの子がクスクス笑った。
「アラ……交渉上手ね。気に入ったわ」
「フン、運がいいわね。結局あんたは私と働くのよ――未来のプロ作家と!」
黒髪は胸を張り、腕を組んだ。
『そして、その隣の優雅にして毒舌な共犯者と……あーあ、もう面倒くさい』
どうしてこうなったのか、さっぱり分からない。
ただ一つ確かなのは――あの古本屋街と、この大学、そしてこの二人の存在が、俺の大学生活を確実にかき乱すってことだ。
――東京って、夢を叶える場所じゃなかったのか?
……俺の場合、契約書のない悪夢から始まったけど。
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