夢
「そうそう、バットはこう握るんだよ」
「――重たいよお父さん」
「あー、それは大人が使うバットだからね。奏にはまだ早いか……それは俺が昔、使っていた物なんだ」
「奏はまだ6歳だからな。もう少し軽いバットを買ってあげようか」
遠くの山からヒグラシの鳴く声が聞こえる涼しい夏の夕暮れに、俺と奏は2人で近所の公園にいる。
それにしても、まさか奏が野球をしたいなんて言うとは――
俺は、昔、野球選手だった。――と言っても、プロ野球選手にはなれずに高校で引退して、普通に受験勉強して、そこそこの大学に入り、普通に就職した。
特に今の生活に不満はない。妻と2人の息子、飼い犬のチバと一緒に暮らしている。むしろ、他の人たちと比べて幸せな生活を送っていると思う。公務員として働いているから、給料は安定してるし、自由に使える時間も多い。
だが、俺は今でも忘れられない出来事が一つだけある。苦い思い出が――
あれは、高校3年生の夏――最後の甲子園での出来事だ。俺が所属するチーム、梅宮高校の野球部は県内でも有数の強豪校だ。俺はスタメンを勝ち取るために死に物狂いで努力した――
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「おい!将人、調子はどんな感じや?怪我は治ったか?」
幼馴染みの光樹がニコニコしながら話しかけてきた。中腰になり、膝に手をつく姿はまさに野球少年だった。ヤンチャそうな、いつも笑顔な坊主だ。
「おう、光樹か。だいぶ良くなってきたよ。早く治して万全の状態で練習しないと……甲子園がもうすぐだからな。予選ではベンチだったが、甲子園ではスタメンを絶対に取ってやる!」
「そうか……無理はすんなよ。お前は頑張りすぎなんだよ。正直、うちのチームのスタメンは皆強いからな。甲子園でスタメンをとるのは不可能に近いだろうが……まあ、できる限りのことはしろよ!」
光樹は少し苦い顔をし、遠くの空を見ながら言った。
「それ、お前が言うのかよ。お前もスタメンのくせに……俺は諦めないぞ。絶対にやってやる」
光樹は真剣な目をして、こちらを見た。
「そうか……」
俺はこの日の3日前、部室前で転けて手首の怪我をおった。雨の日だったから、足元をとられてしまい、悪い手のつき方をしてしまった。
そして、甲子園1ヶ月前、怪我は完全に治り、本格的な練習ができるようになった。
ある日の放課後の教室で――
「なぁ、光樹」
「ん?どうした?」
「もし俺がスタメンに入ったら、お前は喜んでくれるか?」
光樹はほんの少しの間をおいて、ため息をついた。
「……何言ってんだよ。当たり前だろ!お前と俺は親友だ。喜ばない理由がないだろ?」
「……そうだよな。すまん、変なこと言ったな」
「お前はいつも変だよ!まあ、お前がスタメンに入るならきっと俺はスタメンから除外されるだろうなぁ……スタメンの中で一番実力が無いのは俺だ。外されないわけがない」
光樹の顔は少しだけ険しかったが、すぐに笑顔になった。
「そんなことは無いだろう?光樹は自分が思っているよりも強い。お前が除外される確率よりも俺がスタメンに入れる確率の方が低いだろ……」
「おいおい、らしくないなぁ。どうしたんだよ」
「いやぁ……最近色々あって落ち込んでるのかもなぁ」
「まあ……そうか、怪我のブランクもあるしな……無理だけはすんなよ。……お前が辛い思いをしているのは……見たくないんだ。」
とても悲しそうな顔をしながら言っていた。だが、光樹は俺の方は向いていなかった。遠くの空を眺めていた。その横顔は、今にも消えてしまいそうなくらい儚い表情だった。
俺は2年前にも大怪我をし、2ヶ月の入院をした。あの時の苦痛は今でも良く覚えている。光樹はひどく心配してくれ、思うように体が動かなかった俺のサポートしてくれた。
「どうせあと1ヶ月だ。やれることはやるさ……お前も頑張れよ!プロ野球選手になって、家族を養うんだろ。」
光樹はプロ野球選手になって、お金を稼ぎ家族を養うという夢がある。家族といっても光樹の家は母子家庭であり、お母さんだけしかいない。他に頼れる家族もおらず、光樹のお母さんは毎日朝早くから、夜遅くまで看護師として働いている。
だからこそ、光樹は努力しスタメンまで上りつめている。
「ああ、俺には野球しかないからな……」
廊下側の窓から風が吹き、運動場側の窓へと吹き抜けた。その風はとても冷たかった。
それからというもの、俺は心のモヤモヤを抱えながら、日々、練習した。今までやったことがないほどの努力を――
まさに、死に物狂いの努力と言うやつだ。
そうこうしているうちに、甲子園まで残り、2週間となった。
監督から話があるといわれ、職員室まで呼び出された。職員室は広々としており、年季が入っている。昔ながらの職員室といった感じだろうか。その職員室の奥にある一室に監督と入った。部屋にはコーヒーマシーンやコピー機などがあり、先生方のちょっとしたくつろぎの場となっている。
監督は髭をいじりながら、神妙な目でこちらを見ている。いつも何を考えているのかよくわからない。
感情をあまり出さない人で怒ったところすら見たことがない。顔はいかつく、恐らく40代ほどだろう。顔と性格がまるで正反対の人だ。
「すまんな、急に呼び出して」
監督は笑顔で言った。普段はあまり笑わないので、俺は驚いたが、顔には出さなかった。
「いえ、大丈夫です。」
俺は緊張しながらも、何を言われるかそわそわしながら監督を見た。
「……お前を甲子園のスタメンに入れようか、今、迷っている」
俺は一瞬何を言われたかを理解できなかった。俺の戸惑った顔を見て監督は話し出した。
「将人、お前はまだまだ未熟で安定性には欠ける。だが、お前の守備は今のスタメンに劣らない、むしろ超えているまである。バッティングは改善の余地はあるが以前よりも随分と良くなった。お前は毎日、夜遅くまで残り、努力している。俺はそれを知っている。」
俺は涙が溢れるのを必死に抑えた。喉が詰まり、言葉が出なかった。監督は続けて言った。
「1週間後にスタメンを決める。それまでに今ある課題を克服出来たら、スタメンに入れてやってもいい。」
俺は今までに感じたことのないくらいの興奮を感じた。それと同時にある不安がよぎった。
「あの……監督。もし、俺がスタメンに入った場合、誰が除外されるんですか?」
監督は苦い顔をした――
「……恐らく……光樹になるだろう。」
なんとなく予想はできていた。だが、いざ監督の口からそれを聞くと、俺は頭が真っ白になった――
「お前らが仲が良いのは知っている。でも、それは一切関係無いだろう?光樹は実力はあるが精神的にもろい部分がある。だからいざ甲子園になるとどうなるのかはわからない。」
「そんなの誰だって同じじゃないですか!誰だって本番では何が起こるかわからない……」
俺は監督に対して強くあたってしまった。それでも監督は怒ること無く話を続けた。
「その通りだ……ただ、光樹は他の選手と比べて不安定だと言っているんだ。お前もずっと一緒にいるならわかるだろう?」
俺は何も言い返せなかった――俺は光樹の弱さを知っている。
俺は何も言わずに、頭を下げてから部屋をあとにした――
その日の部活は終わり、俺は光樹と一緒に帰ることにした。お互い家が近くで、高校までは電車で通っている――
「なぁ、将人…………監督と何話してたんだ?」
駅のホームで電車を待つ中、光樹は落ち着いた顔で聞いてきた。
その日はやけに涼しくて、虫の音が良く聞こえた。駅は寂れており、田舎の駅といった感じだ。
俺は少し迷ってから答えた。
「いや、対したことじゃない。最近の調子がどうかを聞かれたんだよ。怪我のこともあるしな!」
俺は嘘をついた。きっと光樹は何を話していたか薄々気づいているのだろう――
「……そうか」
光樹は悲しそうな顔した――俺は嘘をついたことをひどく後悔した。
「スタメンの事だろ?将人がスタメンに入るんだろ?」
もう、嘘はつけない。
「まだわからない。その可能性があるとだけ言われたよ……」
風が駅のホーム通り抜けた。とても冷たい風が――
「……もしお前がスタメンに入るなら、俺は除外されるだろうな……」
「そんなことはっ」
「そうに決まってんだろ!」
光樹は俺が言い終わる前に、怒鳴った。
「すまん、将人。取り乱した……」
光樹は俺が見たことがないほどの恐ろしい表情をした。こんな光樹は見たことがない。
俺は光樹に聞いた。あの時のことを――今でも思う。この事を言わなければ良かったと。そうすれば結果は変わっていたかもしれないと――
「なぁ、光樹…………あの日……俺が怪我をした日……部室の入口に糸を張ったのはお前だろ?」
俺は気づいていた――あの日、俺が部室で着替えを済ませ、帰ろうと部室から出たときに、何かに引っ掛かって転けた。その時は暗くて良く見えなかったが、怪我の痛みに耐えながら、スマホライトで照らすと、釣糸が張ってあった――釣糸は部室の裏にある筋トレ用のダンベルにくくり付けてあり、部室をぐるりと一周していた。
こんなことをする人がいると俺は信じられなかった。まるでテレビのドッキリのような仕掛けに現実味が無く、俺は夢かと思ったが、手の痛みですぐに現実だとわかった。そのくらい俺には信じられない光景だった。
誰がこんなことをしたのか――俺はすぐにわかった――光樹だ――
俺は部室を出る前に光樹に連絡をした。その時に外で通知音が鳴った。その後、誰かが走って行く音が聞こえ、俺は気になって外に出た。そして転けて、怪我をしたんだ――
部屋を出た瞬間、走って行った人の顔は暗くて良く見えなかったが、カバンに水色の御守りが付いているのが見えた。あれは俺が中学生の時に光樹にあげた御守りだ。今でも付けてくれている――
俺はずっと言えなかった。言えるわけがない。それに光樹を信じたかった。自分の目を耳を俺は疑った。気のせいだと――
光樹は黙っている。俺の方を見ずに、空を眺めていた――
「なあ、正直に言ってくれ。俺は怒ってないから。光樹の境遇は俺が良く知ってるんだから。お母さんのために必死に野球をやってきたんだろ?お前のお母さんは重い病気を抱えながらお前を育てるために働いて、その病気が原因でお父さんは他の女と出ていった。そんなお母さんに恩返しがしたいんだろ?幸せになって欲しいんだろ?わかってる。わかってるから正直に言ってくれよ!」
「お前に俺の何がわかるんだよ!!わかったように語るんじゃねぇよ!」
俺はビックリした。あんなにも優しい光樹がこんなにも怒鳴るなんて――光樹は今にも泣きそうな顔だ。
「あぁ……そうだよ!俺がやったんだ!お前はどんどん上手くなっていく。それに比べて俺は……一向に成長しない。このままじゃお前に抜かれて、スタメンから外される……だからやったんだ!!俺には野球しかないんだよ……だから……だから頼む……俺にスタメンを譲ってくれ……」
「……」
俺は答えを出せずにいた――
「なぁ、将人。俺の境遇は知ってるんだろ?俺たち親友じゃないか……お前が2年前に怪我をした時に俺はお前を必死にサポートしただろ?だから、今回は俺のために譲ってくれ……」
俺は悩んだ――どうすればお互いの為になるのか。自分はどうすべきなのか。それ以前に、俺はショックで頭が回らなかった。親友から裏切られたという事実を俺は受け止めることは出来なかった――
「わかった……」
俺はそう言って、駅のホームを降りた。光樹はどんな顔をしていたのだろうか――
突然、風が前からビュンと吹き抜けた。まるで俺をいかせまいとするような強い風だった。
どのくらい歩いたのだろうか――やっと落ち着いてきた頃に俺はもう一度駅に行き、電車に乗った。もう光樹はいなかった――
重たい扉を開けて、俺は家に帰った。そのまま、自分の部屋に入り、ベットの上で仰向けになった。部屋はやけに静かだ。
色々と考えた末に、俺は光樹を許し、スタメンを譲ることにした。自分でもバカな選択だと思う。裏切った人の為に今までの努力を無駄にするなんて――
それでも、俺は光樹の苦労を知っているから、光樹がやったことは仕方がないことだとも思った――
次の日、俺は監督にスタメンに入らない事を伝えようとしたが、怪しまれると思い。俺は、わざとミスをすることにした――
「どうした将人?調子が悪いじゃないか……甲子園まであとちょっとなんだから頑張ろうぜ!」
同級生のメンバーから言われた。俺はコクりと頷き、悔しさを必死に隠した――
「どうした将人……今までの情熱はどこに行ったんだ!ミスばっかりじゃないか……甲子園で活躍したいんじゃないのか?それがお前の夢だっただろ!」
監督はイライラしながら言った。自分で言うのもなんだが、俺は監督に期待されていた。だからこそ、監督は悔しいのだろう――
「はい……すみません……」
「すみませんじゃないだろ!甲子園まであと1週間だぞ。俺はお前を入れてやりたかった……でも、もう無理だ……スタメンはもう決めてある……残念だがお前を入れることはできない……」
「はい……」
これでいいんだ。これで良かったんだ。俺はそう言い聞かせ、帽子を深く被った。
そして、数日後、スタメン発表がグラウンドの角にある休憩所前で行われた――
1番○○、2番○○とメンバーが発表されていき――9番光樹、監督は力強くそう言った。その時の光樹の嬉しそうな顔は今でも忘れられない。もちろん俺は選ばれることはなかった。俺はベンチ入りしたが、きっと試合に出ることはないだろう――それぐらい練習中の俺はひどいプレーをした。この日はやけに暑く、汗がダラダラと流れた。汗が目に入り、涙が出た――
試合当日――俺は気持ちの整理ができ、光樹を応援することにした。
あぁ、今でもあの光景が目に浮かぶ――
試合は接戦だった。対戦相手は菫谷高校。甲子園の出場校の中では中堅ほどの強さだ。試合は接戦だった。お互いに点を取り合い、5対3,2点リードして迎えた。9回裏、相手校の最後の攻撃だ――
お互いの高校の応援が鳴り響く。梅宮高校の声援は凄まじく、勝ちを確信したような、そんな声援だった。チームメイトも、まずは一勝だな。そんな言葉を言い合っていた。
最初の打者は三振でバッターアウト。続けて、2番目の打者は球が地面を転がり、アウト。
「よし、これはいけるやろ!」
「いけるぞー」
声援はますます勝てるという確信を持ったものへと変わっていった――皆の顔は笑顔だった。
迎えた3番目の打者は、最初の1球目を打った。ボールは守備の届かない位置に行き、1塁についた。この時、流れが変わった気がした。まだまだいけるぞという気迫が、相手の選手や応援から伝わってきた――
続けて、次の打者も力強いバッティングで球を転がし、守備を抜けた――さらに次の打者もあと1回のストライクでアウトにできるというところで、ものの見事に球をうち、塁を回っていった。
隣に立っているメンバーたちが冷や汗をかいているのに気付いた。俺もどっぷりと冷や汗をかいていた。観客や応援してくれている人たちの声がしだいに怒るような、何をしているんだ、というような声へと変わっていった。
そして次の打者がバッターボックスへと入った。その時の両校の緊張感は凄まじいものだった。みな声を出さずに見ていた、急な静けさが俺の不安をあおった――
カッキーン!!鋭い音が会場に鳴り響いた――
球は宙を高くあがり、ライトのほうへ飛んで行った。さすがに超えないだろう、と俺は思った。案の定球はホームランとはならずにそのまま、落ちていきそうだった。
ライトの守備は光樹だ。光樹は球の方へと走っていき、球が落ちてくるであろう場所へとついた。
これで終わる――誰しもそう思っただろう。こちらのチームの興奮と、相手チームの悲しみを同時に感じた。相手チームからの声援はもう、なかった。
光樹が落ちてくる球をキャッチしようと、球の位置を確認し、体をこちらに向けて、グローブを開く――その時、風が吹いた。今日は風もなく、天気はいい。野球をやるにはこれ以上ない環境だった。
なのに――なのにどうしてだろうか。あの一瞬、あの一瞬だけ突風が吹いた。観客が風にあおられ、被っている帽子を押さえているのがよく分かった。俺も帽子が飛ばされないように腕を上げ、帽子を押さえた。そのせいで、光樹が球をキャッチした瞬間を見れなかった。俺は少し残念に思った。
風はすぐに収まった。風がやみ、俺が顔を上げたとき、俺は目を疑った――グローブの中にあるはずの球は地面に転げ落ちていた。その時の一瞬の静寂は今でも忘れることはできない。まるで時が止まったかのような錯覚に陥った。
会場にいた全員が何が起きたのかを瞬時に理解することはできなかった――次の瞬間、会場に聞いたことがないような声量が鳴り響いた。地響きがなるくらいの音だった。光樹を見ると、何が起きたかわからないといった顔で立ち尽くしていた。
数秒後、光樹は慌てて球を拾い、セカンドの方へ投げた。だが、焦っていたのだろう、球は明後日の方向に行き、他のメンバーが急いで拾い上げ、ホームまで投げた。
健闘虚しく、キャッチャーが球を捕る前に、3人目のランナーがホームについた――
あの時の、こちらのチームや観客から聞こえる怒号と相手チームから聞こえる勝利の雄叫びは脳裏に焼き付いている。
そして――梅宮高校は初戦で負けた――
戻って来た選手たちの顔は死んでいた。ひたすら無気力で絶望した表情だった。ただ、良かった点として、誰も光樹を責めなかった――
皆は光樹だけが悪い訳じゃないと思っていた。そして風が吹いたことによって球を捕ることが出来なかったことをわかっていた。
その後、野球部のメンバー全員が球場の外に集められた。
監督は無表情で立ち尽くし、数十秒後――がっかりだ――それだけを言って、立ち去った。
俺達は顔を見合わせること無く、その場で解散した。光樹が心配で、後をつけた――
「おい、光樹!大丈夫か?」
俺は後ろから声をかけた。だが、光樹は無視をしているのか、聞こえていないのか、何も言わずに歩き続けた。
俺はどうしていいかわからず、後をつけるしかなかった――
数分後に光樹は急に座り込んだ――その体はピクピクと動いており、泣いていることが後ろ姿でわかった。
「なぁ、光樹。試合に負けたのはお前のせいじゃない。皆の油断が招いたことだ……お前は最後まで真剣にやっていた。ただ……急に風が吹いて……それで球が捕れなかっただけに過ぎない……だから光樹……気にするな……」
俺は光樹が傷つかぬように慎重に声をかけた。
「止めろーっ!!」
光樹は大声を出してそう言った。俺は不思議と驚かなかった。光樹が何を言おうとしているのか、俺はなんとなくわかった。
「俺に優しくすんじゃねえよ!慰めたって無駄だ!何でお前は俺に優しくできるんだ。怒れよ!」
光樹の目は怒りと悲しみに満ちた恐ろしい目をしていた――
「俺はお前に怪我をさせ、裏切った挙げ句、試合で大失敗をした戦犯だぞ!あぁー!」
光樹は狂ったように叫びだした。俺は何も言えなかった。
「俺の人生終わったよ。野球選手としても、人としても……俺は……終わったんだ……すべて……」
「それでも俺はお前の味方だ……」
俺は優しい声色で言った――本心だ、本当にそう思って言った。裏切られようとも、光樹のことを親友だと思っている――だが、その優しさが、光樹を苦しめたのかもしれない――
光樹は何も言わずに、この場を去った
それから、一週間。光樹とは一度も話していない。俺は、甲子園に出られなかった悔しさを抱えながらも、切り替えて受験勉強に目を向けようとしていた。
突然、光樹から連絡が来た。学校の屋上に来て欲しい――これだけを送ってきた。どうして、と聞いても既読はつかなかった――
俺は、どこの塾に行こうか決めている最中だったが、胸騒ぎを感じて、急いで自転車を漕いだ。学校までは30分かかる。俺は呼吸も忘れてひたすらに漕いだ。
25分後、学校に着いた。グラウンドに出て屋上を見たが、人の姿はない。俺は急いで階段を駆け上がった。
力いっぱい自転車を漕いだからか、足は重く、階段を一段、また一段と上がる度に痛む。そんなこともお構い無しに俺は階段を飛ばし飛ばしで上がっていった――
やっとの思いで屋上に着いた。
「光樹ー!」
俺は扉を開けてすぐに、叫んだ。光樹は屋上の柵に寄りかかって待っていた。空は青く、強い風が屋上に吹いていた。
「将人……来たのか……」
光樹は綺麗な青空を見ながらそう言った。
「俺は……夢を失った……希望も……生き甲斐も……将来の仕事も……親友も……すべて失くした……」
光樹は優しいような、悲しいような、嬉しいような、なんとも言えない表情で俺を見た――
「そんなこと無いだろ!野球以外でもお前のお母さんの為にお金を稼ぐ方法だって、幸せにする方法だってあるだろ!お前がそんなんだと、お母さんは悲しむぞ!」
俺は今にも泣きそうな顔でそう言った。屋上にはさらに強い風が吹いた――俺の声を書き消す程の強い風だった――
「俺はこの世界に必要のない人間なんだ……お前が試合に出ていれば、こんなことにはならなかったはずだ。俺がお前を裏切ったせいで……あぁ……俺は野球選手としても、人としても駄目だ……母さんにも迷惑をかけて……」
光樹は清々しい顔で笑いながら言った。俺は光樹がほんの一滴の涙を流したことに気づいた――きっと、光樹は気づいていないだろう――
俺は何も言えなかった。怒るべきなのか、慰めるべきなのかわからなくなった。
「将人をここに呼んだのは、罪を償う為だ。お前の目で俺の……俺の最後を見届けて欲しいんだ……」
「何を言ってるんだー!」
俺は光樹も元に速く行こうと、一歩踏み出した。
「動くなー!!」
光樹は鋭い目でそう言った――また、風が吹いた。俺の方から光樹の方へと流れる、冷たい風が――
「冗談だよ……」
光樹は笑っていた。今までで見たことがな位くらいの笑顔で――
「何だよ……びっくりさせんなよ……」
俺も笑いながらそう言った。心臓を握り潰すような鼓動が、少しずつほどけていくのがわかった。
「なぁ、将人……この風は気持ちいなぁ……いつも大事な時にこうやって風が吹くんだよな~まあ、気のせいだろうけど、あの時も風が吹いたよな。風がなければきっと球を捕れてた……いや、風なんて無くても捕れなかったかもしれないなぁ」
「いや、風がなければ捕れてたよ。それにあれだけのことでお前の人生が終わるなんてことはないだろ?今からは受験に集中して、いい大学を目指せばいいだろ?」
光樹は確かに、という表情で微笑んだ。良かった――俺はそう思った。
「あぁ……今日は天気もいいなぁ……あの青空の遥か向こうへと飛んでいきたいよ……この風に乗って……」
気づいた時にはもう遅かった――光樹はいつの間にか柵をよじ登り、柵の向こう側に立っていた。
「おい……光樹……なにを……」
俺は理解できなかった――光樹の気持ちを――行動を――すべてを――
「じゃあな将人!強く生きろよ!」
後日
ニュースです。昨日、午後4時30分頃に○○県○○市の梅宮高校で、飛び降り自殺がありました。目撃者も多数おり、混乱している様子が見られました。警察によると……
俺はテレビを切った。物凄い吐き気と嫌悪感を感じた。光樹が死んだ悲しみと、ニュースで取り上げられたという怒りが俺を襲った――公にはしてほしくは無かった――光樹は夢とともに空を飛んだ――あの美しい空に向かって――
俺はあの日以来、野球に関する物はすべて捨てて、テレビでも一切野球を見ることは無かった。ただ、俺が高校の時に使っていたバットだけは捨てることが出来なかった――
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ある日の小学校での授業参観でのこと、一人ずつ自分の夢を言っていくということが授業の中であった。奏はなんと言うだろうか?俺はドキドキしながら見ていた。
「僕の夢は飛行機の運転手さんになることです」
「私はお花屋さんになりたいです」
子供たちは次々と自分の夢を言っていった。子供らしくてかわいい夢ばかりだった――
いよいよ奏の番だ。なんだろうか?消防士?警察官?はたまた、YouTuberかな?俺は奏がなんと言うのか考えていた。だが、俺が想像していたものとは全く違う答えが帰ってきた。目につかないようにしていたのにどうしてそうなったのか――俺はショックを受けた――
「僕の夢は……プロ野球選手!」