振り出し名人
僕は、ずっと以前から、古いアパートに住んでいます。二、三年前から、初夏になると、外から部屋の中に羽のある虫が無数に入ってくるようになりました。虫たちは、俺の家だというように飛び回り、僕の存在など眼中にありません。去年の秋、僕はついに苛立ちが頂点に達して、部屋の管理者に連絡しました。「部屋の中に虫が多いので、困っています」と僕は少し遠慮がちに話しました。自分の部屋の虫のことなのだから、自分で何とかするように注意されて終わるのだろうかと落ち着かない気持ちでした。しかし、管理者は明らかに同情し、急いで対応すると約束してくれたのです。これは、予想外の良い結果でした。エアコンが古いのではないかと話が帰着し、管理者は大家さんに相談すると言ってくれました。それで、僕の部屋の空調は、新品になったわけです。潔癖症の僕は、その清潔感に喜び、新しい機能を使いこなす為に説明書を一頁ずつ丁寧に読み、リモコンを何度も試しました。「これで、僕と虫の抗争には、決着がついたな」と僕は笑いました。それは、湯上りに、冷えたビールを飲みほした後の気分のようでした。
その嬉しさにより、年末の大掃除は、いつもより念入りにしました。ところがです。居間の大窓が、掃除後に全開放したまま固まりました。開けた窓から夜半に泥棒が来ることが恐ろしいので、絶対に閉めないとなりません。僕は、焦りました。全身の体重をかけた僕の両腕と片足の筋肉が、最大の力を込めて窓枠を押しました。その時、サッシ全体が、アニメの悪役が死に際の苦痛に悶えるような音をずっと出していました。僕の頬の肉が震え続け、窓の泣く声が最高潮に達した時、ようやく、窓は閉まりました。しかし、建物が軋むのを無視し続け、自分の意見を押し付けるように閉めたせいでしょうか。鍵と鍵受けの金具が全くかみ合いません。ずれているにも程があるだろう、と問いかけたくなるくらい、互いは全く協力する位置にないのです。僕は、一人では抱えきれなくなった大事に圧し潰されそうでした。また管理者に連絡しないとならない案件が勃発したのです。空調の件で親切にしてもらったばかりなので、申し訳なく思いました。「あー、また、あの例の人か」と管理者が眉間に皺を寄せ、心中で、僕に心無い呼び名を付けるかもしれません。でも、住まいの防犯上の危険性が高いので、僕は直近二度目の管理者への電話をしました。
驚くことに、管理者は今回も優しい口調で僕を安心させ、その日のうちに、窓の業者さんを手配してくれました。業者さんが来るまでの一週間、僕は大窓に鍵をかけずに暮らしました。その七日間、毎晩、犯罪者が窓から入って来るのが怖くて眠れないなと思いました。しかし、それは、布団の中でのほんの30分くらいの逃走経路などの確認で終わったらしく、気が付けば朝になっているという爆睡の七日間でした。
修理の日、業者さんは時間通りに来てくださいました。業者さんの綺麗に刈り込んだ短髪と日焼けした肌を見て、仕事の手際の良さを感じました。僕は、この日の為に、居間の食卓や椅子、窓際にあるもの全てを別の部屋に移し、カーテンも外しました。引っ越したばかりの部屋の状態です。業者さんもその完全待遇に驚いたのでしょう。窓枠の前に呆然と立ちすくんでいました。暫く経っても、業者さんは一歩も動きません。僕は、この業者さんは仕事に気分が乗らないのかと思い、顎に手を当て考え込みました。窓を見る業者さんと業者さんの背を見る僕には独特の構図が成り立ち、その空気感は特別に思えました。有名な絵師により、掛け軸として墨で描かれそうな気がしました。背景の窓には、初冬の冴えた青の美しい空が広がっています。
「よく、閉めましたね」業者さんが、語音を数えるように言いました。僕は、褒められたので、頬を緩めて「はい」と答えました。僕の元気な返事の後、静けさが部屋に満ちたので、僕は次に伝えたかった「頑張りました」という言葉を急いで飲み込みました。業者さんは、僕の顔を見ずに、ずっと窓を見ています。そして、僕を見たことのない動物でも見るような目つきで振り向くと、「窓が外れていますよ」と言いました。
それからが、業者さんの苦闘の時間でした。二重窓がそれぞれ自分の気に入った場所に息もできない具合にきつく収まっているために、手を添えても動きません。何度か業者さんの「ほおー」という溜息が音になった言葉を聞き、僕は我ながら凄い事をしたのだと知りました。僕は、押し込み強盗の心配も要らないくらい、鍵よりも万全に窓を窓枠にはめ込んだというわけです。もはや、それは、壁となった窓でした。
業者さんは、窓4枚を解体して、窓をガラス板と木の枠として取り出し、再度組み立てて、見事に鍵を閉めました。僕は、それを観ながら、職人魂の素晴らしさに心中で手が痛くなるくらいに拍手をしていました。
業者さんは、作業を終えると、僕に向かって手招きしました。居間の隅から作業を見ていた僕は、父に呼ばれる幼子のように業者さんへ近づきます。業者さんは、僕の目を真っ直ぐに見ながら、窓の説明を始めました。
「建物が歪んでいて、建付けが悪いです。こう、歪んでいる」業者さんは、自分の目の前に窓枠があるようにして、両の手を上げ、歪みの方向を僕に教えました。僕と業者さんは、師匠と弟子のようになりました。僕は、その両手の高さの違いが表している方向が全く掴めなかったのですが、とりあえず頷きました。
「で、見てわかるように、少し隙間ができている」
僕は、業者さんが指差す、細い光が透る線を口を開けて見ていました。
「では、ここから、虫とかが入って来ることもありますか?」
僕のこの問いに、今度は、業者さんが頷きました。僕は、虫たちの入り口が建て付けの隙間だと知りました。そして、業者さんは、「この窓は、もう開けない方がいい」と最後に言い、帰って行きました。それは、暗に、「二度目は承知しないぞ」という言葉にも聞こえました。古くて、レールが浅くなっているという原因の他に、僕の力任せの窓閉めの行為があることを指摘していました。
僕は、エアコンを買い替えてくれた大家さんに対して、今更、虫は、エアコンではなく、窓から入って来ると言えないことを既に自覚していました。僕は、小さい時に従妹と遊んだ双六ゲームを思い出しました。僕の順番になり、サイコロを大袈裟に振りかぶり、目を出します。期待で一杯のままに、僕は、その目の数を追います。しかし、ここぞという時になると、面白いように「振り出しに戻る」の枠が当たりました。自分の駒は、先頭の集団とは大きく離れました。顔は笑っているのですが、僕は悔しくて、膝頭に置いた自分の手を強く握り締めました。
今も、「振り出しに戻る」は、度々僕に付いて回ります。結局、虫は僕の部屋へ入り放題なのです。