85 串カツを奢ってくれ
「思えば、井上君と二人で出かけるのは今回が初めてだねえ。いやあ、まさか本当に、どこかに存在するかもしれない一部の腐女子が喜びそうな展開が実現するとは思わなかった。まあ、別にそういう層へ媚びを売るつもりはないんだけどね。あっはっは」
「めっちゃ喋るじゃないですか……」
否、六十刈先生にとってはいつものことか。
12月の2周目、その週末。僕は、井上悟は、講義後に六十刈先生に誘われ、なぜか夕方の街へ繰り出して串カツ屋に入店していた。
特に予定はなかった、正確には家で自主勉に励む他には予定がなかったので構わないのだけれど、いささか唐突な印象は拭えない。
母も「六十刈先生となら良いんじゃない?」と快く送り出してくれた。母からこれだけ信頼されている様子から察するに、もしも六十刈先生を味方に付けてデートの手引きをしてもらった場合は、母を騙すのなんてお茶の子さいさいだろう。
「それにしても、なぜ串カツなんです?」
「井上君を受け持つ前の話なんだけどさ」
お通しのキャベツが運ばれてくる中、先生は語った。
「大学の友達を連れて、大阪旅行に行ったんだよね」
「はあ」
「そのときに食べた串カツが美味しすぎて、忘れられないんだ。友達が小食で、彼に付き合った僕があまりたくさん注文しなかったのもあって、正直もう少し食べたかった。また食べたいなあと、ここ何か月か思い続けてきたのさ」
「……で、大阪で果たせなかった夢を、愛媛で果たすと?」
「その通り」
今日来た店はチェーンではなく、個人で経営しているっぽい感じだ。本場大阪の名店を味わった六十刈先生としては、意地でもそれなりの味を追求したかったのかもしれない。もういっそのこと大阪へ行けばいいのに。
「でも、それは串カツを食べに来た理由の説明にはなっていても、僕を連れて来た理由の説明にはなってなくないですか?」
「うん、ご指摘の通りだよ。井上君を呼んだのは、美味しい串カツに舌鼓を打ちつつ、ちょっとばかし話をしたかったからさ」
含みを持たせる言い方だった。興味をそそられる。
「僕さあ、つい何日か前、受け持ちの生徒から告白されたんだよね」
「え? 男子から?」
「あっはっは、失礼な奴だなあ井上君は。僕を何だと思っているんだい? いくら僕が腐女子受けを気にする繊細な人間だからといって、本当に同性愛の方面に進むわけがないじゃあないか。もちろん、女子からだよ」
何だろう、すごくイライラさせる喋り方である。
「……自慢ですか??」
「いやいや、そういうわけじゃない」
へらへら笑って首を振る六十刈先生。
「もちろんその告白は断ったんだけど、何せ思春期真っ只中の難しい年頃だからねえ。大泣きしちゃってなだめるのは大変だし、お母様は何事かと思って部屋に飛び込んでくるし、てんやわんやだったよ」
それで思ったんだよね、と先生が吐息を漏らす。
「井上君もこういう苦労をずっとしていたのに、僕は君を助ける代わりに、ヒロインの紹介という代償を払わせようとしていた。いやはや、我ながら恥ずべき、人道にもとる行いだったと反省している。陳謝しよう」
「……ど、どうも」
殴られたことがないから、殴られる側の痛みが分からない。何かの機会に、こんな言葉を目にしたことがある気がする。
もし本当にそういう人間がいるのなら、どうしようもないお馬鹿さんに違いないと僕は思っていた。人には想像力がある。気持ちを思いやる能力があるにもかかわらず、「殴られた経験がないから相手の気持ちが分かりません」などとのたまうのは、頭のネジが何本も抜けている輩だと。
けど、本当にいるものなんだなあ……。人の気持ちが分からない人間というのは。
「ははあ、分かりましたよ六十刈先生。今日、僕をご飯に誘ったのは、今までのお詫びに僕にごちそうしようと、そういう意図なんですね? 高い代償を払わせようとしてきた意地悪な態度を軟化させて、今日は僕を楽しませてくれるんですね?」
「態度を軟化させるっていうのは、当たってるねえ。……おっ、来た来た」
先生が注文した、「串カツ9本プラス1品(どて焼き)」のセットが到着。では遠慮なくと、僕は鳥つくねの串を手に取った。皿にソースをたっぷり垂らし、そこへ浸して食べようとすると、六十刈先生に「ちょっと待った」と止められる。
僕、何かまずいことをしたっけ。二度漬けはしていないはずだけど。
「いけないなあ、井上君。某ウイルスが流行して以来、この串カツ屋ではその方式が禁止されている」
「というと?」
「つまり、こういうことさ」
うずら串を取り皿に乗せた先生は、その串にたらりと、少しだけソースをかけた。
「分かるかい? 皿にソースをたくさん入れ、その中へ串を浸すんじゃないんだ。まず串を皿に置き、そこへ必要な量のソースだけをかける。飛沫感染防止のため、今じゃこれが主流なんだよ」
そういえば取り皿はあるけれど、お客さん同士の共用のソース入れが見当たらない。あれにもちゃんと背景があったのか。
「なるほど。教えていただいてありがとうございます」
「ちょっと待った!」
鳥つくねにきちんとソースをかけ直して食べ、次にキャベツを箸で取ろうとしたらまたストップがかかった。今度は何だ。
「串カツ屋のお通しのキャベツは、箸ではなく手で取って食べるのが一般的だ。覚えておいた方が良いな」
「は、はあ」
生粋の大阪人からレクチャーされたらたぶんうるさく感じないんだろうけど、一度大阪へ旅行した程度の人に知ったような口を利かれると、何だか無性に腹が立ってくるな。おかげで、串カツの美味しさに意識を集中できないじゃないか。
しばらく食べ進めたところで、六十刈先生が「あ」と声を上げた。
「おっと、失礼。僕としたことが、串カツについて無知な井上君の間違いを指摘するのに夢中で、態度を軟化させた僕のスタンスについての説明がおろそかになっていたよ」
「僕のせいみたいに言わないで下さいよ。仕方ないじゃないですか、人生初の串カツだったんですから。右も左も分かりません」
一言多い人だなあ。
「それで、おろそかになっていた説明というのは?」
「ああ、ええとね。僕が態度を軟化させたのは確かなんだけれど、だからといって、デートの手引きをするにあたって何の代償も求めないわけではないよ」
「え」
おいおい、流れが変わったぞ。僕は思わず身構えてしまった。
「ただ、要求する代償の種類は変える。選ばれなかった負けヒロインを紹介してもらうんじゃなくて、対価として金銭を求めよう」
「高校生にお金をたかる大学生って……色んな意味で終わってる絵面ですね。それでも大人ですか」
もし大金を要求されたらどうしよう。あと、できれば負けヒロイン呼ばわりもやめてほしい。
「僕は大人げない大人だからねえ」
「上手いこと言ってるつもりなのかもしれませんけど、全然上手くないですよ。大阪人の笑いのセンスをもっと見習って下さい」
「あっはっは。井上君は手厳しいなあ」
まあ要するにさ、とスパイラルパーマに丸眼鏡の大学生は目配せしてきた。
「この串カツ代を井上君が奢ってくれたら、今後、デートの手引きをするときは全部ノーギャラでやってあげようってことだよ。君に協力する条件を、大幅に緩和してあげようと言っているんだ。悪い話じゃないだろう?」
「……」




