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75 愛の鞭

 稲田さんが加わったにもかかわらず、相変わらず栞は星加さんへの当たりが強すぎる。もうちょっと釣り合いが取れないものだろうか、パワーバランス。


「ていうか大前提として、先生の申し出を受けるつもりはないけどさ」


 とはいえ、そもそも僕が六十刈先生の誘いに乗らない限り、解釈違い云々で先生と揉める可能性も皆無なのであって。冷静に考えてみれば、そこまで急ぎで解決しなければならない議題でもないかもしれない。


「……あんたが六十刈先生の提案を蹴ること自体には、別に反対する気はないわ」


 栞は、少し含みのある言い方をした。とっくの昔に食べ終えていた弁当箱をベンチの隅に避け、尋ねてくる。



「けどあんた、本当にこのままで良いと思ってるわけ? あたしたち、もしかしたらこのまま受験が終わるまでずっと、一度のデートもできないまま終わるかもしれないのよ?」

「良いとは思ってないよ。問題なのは、今のところ、この現状を変える手段が六十刈先生に頼る他にないってことさ」


 肉を斬らせて骨を断つとはよく言ったものだ。実際には、絶対に斬らせたらまずいような部位の肉も、断ったところですぐ修復可能な骨もある。たとえば恥部の肉をぶった切ってしまったら大惨事だし、指の骨なんかは上手くやればくっつけることもできる。僕にとっては5人のヒロインの誰もが、決して斬らせても断たせてもいけない存在だ。

 そう考えると、ヤクザの「指を詰める」行為も案外、迅速に処置すれば詰めた指がくっついたりするんじゃないだろうか。まあその場合、ケジメはつかないわけだけれども。

 僕もいい加減、この膠着状態にけじめを、決着を付けねばならないのかもしれない。


「困ったものね。このままじゃあんたと日常的に会えるヒロインがあたししかいないから、あたしの勝利が確定しちゃうじゃない。あーあ、困った困った。あたしは今、とても困っているわ!」

「本当に困ってるんだろうな⁉」

「嘘よ」


 ぷいっとそっぽを向き、栞は小声で言った。


「こんなかたちで勝っても納得がいかないし、ちっとも嬉しくないもの。勝利とはやはり、敗者を徹底的に痛めつけた上で味わうのが格別よ」

「湯川さんの勝利の定義はおかしいよ!」



 昼休みが終わる間際まで、僕たちの議論は続いた。けれど、これといった解決策は浮かばなかった。

 僕は今回、六十刈先生の無料トライアルの誘いを断った。こうして一つ、また一つと僕たちの取り得る選択肢は潰され、外堀が徐々に埋まっていく。

 まず間違いなく決断すべきときは迫っているというのに、どうすべきかをまだ決めかねている。そんな歯がゆさを感じつつもがいている間にも、時は無情に過ぎ去っていく。

 もうすぐ12月。クリスマスや年末大掃除といった行事ごとが多く、そして受験までの残り日数がよりいっそう短くなる月だ。



「愛の鞭」。愛するがゆえに、厳しく叱りつけること。僕はこの言葉が嫌いだ。まるで、愛があれば鞭打っても良いと言っているように聞こえるからである。

 ここで重要なのは、鞭打つ側の人間が「私は君を愛するゆえに鞭を振るう」と自分の行為を正当化している一方、鞭打たれる側の人間がそれをどう感じるかという視点が抜け落ちている点だ。合意もなく、一方通行な思いだけで暴力を容認している。愛の鞭というより、もはや愛の無知だ。

「あなたのためを思って言っている」という言葉も嫌いだ。これはモラハラ発言のテンプレと言っても良い。


 たとえば、職場の上司が「部下のためを思って言っているんだ!」と話し始めたら、適当に聞き流しておこう。どうせ、部下がミスをして自分の管理責任を問われるのが嫌で、部下よりも自分のために言っているに過ぎないのだから。要するにただの自己保身である。

 大体、この世の中において、誰のためも思わずに発される言葉なんてそうそうあるはずもない。独り言でもない限り、多かれ少なかれ、誰かしらの気持ちに配慮した上で皆発言しているのだ。そんなごく当たり前のことを、さもすごいことであるかのように言わないでほしい。


 そして、「あなたのためを思って言っている」の枕詞の後には、必ずと言っていいほど精神的にあるいは肉体的に堪える、辛辣なメッセージが付いてくる。言葉の暴力である。もっともらしい理由をつけて、暴力を容認している――そもそも、本当に相手を慮って言っているのなら、オブラートに包むなどして、相手を傷つけないよう気遣うのではないかと思うけれども。

 つまり「愛の鞭」も「あなたのためを(以下略)」も、大義名分さえあれば何をやっても許されることの典型的な悪い例なのだ。したがって母上も、いくら息子の将来を思ってのことだからといっても、息子の交友関係を制限したり、束縛したりすることはやめるべきだと僕は考える。



「……それで、悟。一体、この怪文書は何なの?」


 時刻は夜10時を回っている。

 僕はリビングに正座させられ、鬼の形相の母に見下ろされていた。うう、気まずい。

 六十刈先生との交渉に応じる気にどうしてもなれなかった僕は、ならばと母に直訴状を提出し、状況の改善を求めたのである。その結果がこれだ。

 日本史の教科書に載っている田中正造は、足尾銅山の鉱毒事件について明治天皇へ直訴し、当時の社会を大きく動かした。僕も田中正造のように直訴し、母の気持ちを動かせるかなと思ったのだけれど。

 なお、田中正造は刑罰を受けはしたが、死罪にはならなかったそうだ。僕も死刑にはならないと信じたい。


「いや、まあ何というか、立花先生たちに会えないことに対するごくささやかな抵抗のような、抗議活動のような、デモンストレーションのような」

「我が子ながら、デモンストレーションをデモって略さない人も今時珍しいよ」


 母はため息をつき、今一度、A4用紙にプリントアウトされた僕の駄文を眺めた。それから、勢いよく用紙を引き裂いた。


「な、何するんだよ母さん! その文章を考えるのに何時間かかったと思ってるんだ!」

「そんな暇があるなら勉強しなさい!」


 仰る通りだった。



「……母さん、考え直す気はない?」

「ダメです。これは愛の鞭です。あなたのためを思ってやっています!」

「僕の渾身の訴えが全く伝わってない⁉」


 どうやら本当にダメそうだ。ダメ元で敢行した作戦だったとはいえ、やはり失敗したときのショックはそれなりに大きい。

 こうして、田中正造氏をリスペクトした僕の渾身の直訴は、失敗に終わったのだった。


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