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6 平泳ぎ、してくれますか

 次の休日、僕は早起きした。

 両親にはあらかじめ、「朝食はいらない、自分で適当に食べる」と言ってある。トーストにバターを塗ったのを一枚食べ、牛乳を少し飲んでから、身だしなみを整えて家を出た。

 電車を何本か乗り継ぎ、やがて終点へ。駅で電車を降りると、すぐ目の前に港がある。フェリー乗り場には制服を着た立花先生の姿もあって、僕に気づくと「おーいっ!」と元気に手を振ってくれた。なんか、犬みたいで可愛いな。尻尾があったら振ってそう。

 僕たちが住んでいる地方都市は、瀬戸内海に面している。港まで行けば一時間に一本くらいの間隔でフェリーが出ていて、内海に浮かぶ島々と行き来できるのだ。


「遅いよっ、井上くん!」

「え、でもまだ、約束の時間より20分も前なんですけど」

「あ、そうだっけ? ごめんねっ、楽しみすぎて早く来ちゃった!」

「……ちなみに、今日は着替え忘れてないですよね!」

「もちろんっ!」


 良かった。大きめのバッグを持参しているところを見ても、安心できる。しかも、今回は水着を下に着ていないみたいだ。現地でタオルにくるまって、ササッと着替えるつもりなんだろう。僕もだけど。

 そんなわけで先輩と合流し、フェリーへ搭乗。乗客は他にほとんどいなくて、せいぜい10人ほどだ。そして15分もしないうちに、島に到着。片道250円の良心的な価格のチケット代を支払って下船し、目的地へ向かった。

 今日の目的地は、この島の裏手にある海水浴場。僕が小さい頃に一度行ったきりのところなのだけれど、人があまり大勢で来ないからか、砂浜がとても綺麗で、ゴミが一つも落ちていなかった。海も澄んでいて、自然を満喫しつつ気持ちよく泳げた思い出がある。



「どうですか? ここなら、たまに地元の人が通りかかるくらいです。他の人の視線や存在を気にせず、ほとんどずっと先生と二人だけで過ごせますよ」


 子供のときに見たのと変わらない、見渡す限りの美しい海。眼下に広がる絶景を楽しみながら、僕は隣の立花先生に言った。

 ちなみに、二人とも既に着替え終わっている。若干気恥ずかしかったので、互いに背を向けてタオルを巻き、いそいそと水着を着た。傍から見ればシュールだったかもしれない。


「……やっぱり、少し恥ずかしいなっ」


 細い腕で胸を隠すようにして、先生が漏らす。前回と同じ、フリフリの黒ビキニ姿だ。控えめに言って良く似合っている。てか、肌白いな。


「どうしてです? 先生のことをじろじろ見てくる輩は、ここにはいませんよ」

「だって、井上くんに――私が一目惚れしちゃった人に、見てもらえてるんだもん」

「それは……その、どうも。嬉しいです」



 おっと、失念していた。じろじろ見ている奴が、さっきから立花穂乃花の可憐さにノックアウトされかけている奴が、一人いたじゃないか。海パンを履いたこの僕だ。

 照れくささを誤魔化すかのように、やや話を逸らしてみる。


「前から少し気になってたんですけど、立花先生が書いた『やりたいことリスト』って、書いた当時は誰と一緒にやることを想定してたんですか? つまり、同性で仲の良い友達となのか、それとも彼氏とかとなのか。前者だとしたら、僕には役不足な気がします」


 かといって、全部が全部彼氏とでもない気はする。先生がそこまで性に奔放ではないと信じたい。


「井上くん、その『役不足』は誤用の方の『役不足』だよ……」


 はたして先生は、国語教師としてやんわり訂正した。

 役不足。本来の意味は、「役職が本人に不相応に軽い」ことだという。だが、「実力を過大評価されたことを謙遜したり、あるいは重責に思ったりする」意味で誤用されることもしばしばある。今から10年ほど前に行われた調査によると、「役不足」を本来の正しい意味で使えた人は全体の約4割だったそうだ。


「なるほど、確かに僕は誤用していました。けれど、日本人のおよそ6割が誤った意味で『役不足』を理解しているのだとすれば、逆説的にむしろ誤用の方が真実だということにならないでしょうか? 『勝者が歴史を作る』のなら、多数派が歴史を作ったって良いじゃありませんか」

「屁理屈言わないで⁉」


 怒られてしまった。そりゃ当然か。そんなことを言い出したら、広辞苑に載っている難しい日本語たちはことごとく意味を書き換えないといけなくなる。



「まあ誤用だったのは素直に認めるとして、それでどっちなんですか、先生。友達か彼氏か、どっちを想定してたんです?」

「どっちだと思うっ?」


 からかうように笑って、先生は波打ち際まで駆けて行った。サンダルを履いた足で砂浜を歩く。慌てて追いかけた。


「書いた当時はね、友達を想定してたよっ。恋愛なんて私には縁のないことのように思えて、なんか恐れ多かったから。でも今は……彼氏でも良いなって思う!」


 寄せては引く波。

 突然立ち止まり、振り向く立花穂乃花。えへへ、と彼女は照れ気味に微笑した。


「井上くんに会えてから、毎日がすごく楽しいもん!」

「……本当に、僕なんかに惚れて良かったんですか? 大学にだって、かっこいい男はたくさんいるでしょうに」


 この間、僕や立花先生の趣味嗜好について、とりとめもなく考えたことがある。年上ないし年下の相手を、恋愛的な意味でアリと思えるのかどうか、と。そろそろこの辺の疑問を解決しておきたい。



「なんかねえ、無理してかっこつけたり、背伸びしたりしてる人が多いんだよっ。その点、井上くんは自然体でかっこいいのがバッチグーだよねっ! 地味に腹筋割れてるし!」

「バッチグーって確か、90年代に流行った言葉じゃないですか。令和にもなって使ってる人は、僕の観測史上初ですよ。しかも女子大生で」

「昔のテレビドラマを見るのが趣味だから、その影響かなっ? 最近のマイブームはね、何だっけ、タイトルは忘れちゃったけど、新米教師のヤンキー久美子ちゃんが不良たちを正しい道へ導く的なやつ!」

「何でヤンキー久美子は思い出せてタイトルが思い出せないんですか。ていうかそれ、00年代のドラマですよね。90年代じゃなくて」


 今度、デートの待ち合わせでわざと1,2分遅れて、「待たせたな……」って登場してやろうか。いや、女性を待たせるのは論外すぎる。却下。

 ともかく、立花先生の気持ちはしっかり伝わった。僕もなあなあにせず、この場である程度の回答を示さねば男じゃない。



「……話が逸れちゃいましたよね。すみません。先生が本当に僕を好きでいてくれているのは分かりました。今すぐに答えを出すのは難しいですけど、受験が一段落したら、僕も改めて返事をします」


 先生の目を真っ直ぐに見つめ返してそう言うと、彼女は心から嬉しそうに「うんっ!」と頷いた。


「私もそれまでに、井上くんのひねくれた性格を矯正するねっ! ヤンキー久美子みたいに!」

「一応言っておきますけど、僕は不良じゃないですよ!」


 関係性の方向付けは、どうやらますます強固になってしまったらしい。

 立花先生は僕に勉強を教え、休日には「やりたいことリスト」に書いてあることを一緒にやりに行く。そうする中で、僕に自分のことを好きになってもらって、僕のひねくれた性格も直していく。

 僕は勉強を教わりつつ、息抜きがてら「やりたいことリスト」のお出かけに同伴。かつ、今日新たにここへ加わったのは、受験が一段落したら先生の想いへ答えを出すということだ。


「ところで、先生。海水浴といえば、定番のイベントがありますよね。そう、ズバリ、日焼け止めクリームを塗るという……」

「あっ、ごめんね井上くん! 家で塗って来ちゃったっ! てへぺろ!」


 てへぺろって声に出した言う人も、僕は観測史上初だった。


「え、背中もしっかり塗ったんですか?」

「背中もしっかり塗ったよっ!」

「そうですか……」


 鉄板のちょいスケベイベントが流れてしまったことを、僕は大いに残念に思った。


「何? もしかして井上くん、自分で塗りたかったのっ?」

「塗りたくなかったと言えば、嘘になりますね。むしろ男の夢だと言うべきです」

「井上くんって普段は澄ました顔してるくせに、変なときだけ積極的だよね⁉」

「ありがとうございます」

「褒めてないよっ!」


 だが、これで終わりではない。男の夢はまだまだ続く。ほら、よくあるじゃないか。波打ち際で水をバシャバシャ掛け合って戯れる、そんな若い男女の姿が。あれを一度やってみたい。たまには「僕のやりたいことリスト」を達成しても良いだろう。



「まあ、日焼け止めを既に塗っているのなら問題はないですね。軽く、水遊びでもしましょうよ。ほら、せーの」

「……わわっ、待って、待ってっ!」


 バシャッと水を掛けようとしたのも束の間、慌てふためく立花穂乃花。何か事情があるに違いないと思い、僕は手を止めた。


「そういえば井上くんには言ってなかったけど、私、目が悪いからコンタクトしてるの! 海水が目に入ったらめっちゃ沁みちゃうから、水を掛けるのはなしでお願いするねっ!」

「わ、分かりました。ゴーグルは持って来てないんですか?」

「ないよっ! SNS映えしないからね!」


 一見すると正論っぽく聞こえるけど、それ、ゴーグルを外したときにササッと写真撮れば良いだけじゃね……? 少なくとも、ドヤ顔で言うことではないと思う。


「てことは、泳ぐのも難しい?」

「そうだねっ。でも、平泳ぎや背泳ぎなら何とかなるかな!」


 えへへー、と先生はなぜか恥ずかしそうに言った。


「井上くん。私と一緒に平泳ぎ……してくれますか?」

「喜んで」


 愛の告白じゃあるまいし。平泳ぎだし。僕は気安く引き受けた。



 こうして、僕たちは「可愛い水着で泳ぎに行く」というミッションを無事に達成した。ほとんど二人だけの、瀬戸内海に浮かぶ小さな島の海水浴場で、数時間を過ごした。

 ただし、日焼け止めを塗ったり水の掛け合いっこをしたりという定番イベントは一切発生せず、二人並んで平泳ぎや背泳ぎをしただけだったけれども。

 再び方向性が定められた、僕たちの関係。受験というゴールへ向かって、僕たちはこれからも一歩ずつ進んでいくのだった。


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