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61 水出しコーヒー

 コンビニにエナドリを買いに行った際に星加さんと遭遇し、半強制的にタンクトップの上から胸を揉まされてしまった事件を、皆さんは覚えているだろうか。

 あの件を栞に相談すべきかどうかについて、僕は何度か検討を重ねてきた。そして出た結論は、「話したらさらに面倒なことになるから、やめておこう」だ。

 やられたらやり返す、明らかにオーバーキルにやり返してしまう湯川栞のことだ。「ついでにあたしの胸も揉めば、星加先輩が築いたリードは粉微塵になるわ!」とか無茶苦茶なことを言い出して、収集がつかなくなりかねない。それよりは現状の平和を維持しよう。星加さんは「湯川ちゃんの裏をかけた!」と喜んでいて、栞は「星加先輩はこのあたしがまんまとやり込めてやったわ!」と信じている、この状況を。


 さて、栞と星加さん、二人の対立がひとまず落ち着いてきたところで、僕としては新メンバー・稲田愛がヒロインたちと早く打ち解けられるよう、手を打っていきたい。というか僕自身も、稲田さんのことをもっと知りたい。



 そんなわけで、週明けの火曜日。 11月の初週。

 僕と稲田さんは放課後、駅のすぐ横の路地にある、隠れ家的な喫茶店で待ち合わせた。どこか昭和の香りがする、下手すると大正ロマンすら感じる外観の店である。


「よう、井上。待った?」

「いや、今来たとこ」


 日曜にあったときと同じ、セーラー服に近いデザインの制服姿の稲田さんが小走りにやって来た。


「しかし井上も、洒落た店を知ってるんだな。洋館みたいだぜ」

「この店、うちの母親がママ友達とのお茶会で何度か使ったらしいんだよ。外観も内装もお洒落な割にはなぜかいつも空いてて、落ち着くから良いってさ」


 入口ドアは自動ではない。手前に引いて、扉を手で開けて稲田さんが通りやすいようにしつつ、僕は説明した。


「他校の生徒二人で会うわけだし、お互い、知り合いに会うリスクは抑えたいだろ? ここならまず大丈夫だと思ってさ」

「なるほど。てめえ、頭良いなあ!」

「偏差値はたぶん稲田さんに負けてるけどね」



 入ってすぐのところには雑貨販売のコーナーがあり、猫のイラストが描かれた絵葉書など、猫系のアイテムがたくさん置かれていた。そこを通り抜けると、木材をふんだんに使ったレトロな店内が僕たちを出迎える。

 空いている席に適当に腰掛ける。店内に客は僕らしかいなかった。おそらく店主だろう、優しそうなおばあさんが運んできたメニュー表を広げ、何を注文するか話し合う。


「母いわく、水出しコーヒーが有名らしくてさ。ちなみに水出しコーヒーっていうのは」

「よし決めた、俺はアイスコーヒーにするぜ!」

「話聞いてよ!」


 本文を読まずに国語の選択式問題を解こうとするな!


「? 何だよ。水出しコーヒーって、水で薄めたコーヒーのことじゃねえのか?」

「全然違う!」


 まず、何を分かっていないのかが分かっていない。無知の知ならぬ、無知の無知だった。



「コーヒー豆を水に浸し、ゆっくりと抽出したのを水出しコーヒーって言うんだ。この辺で水出しコーヒーを飲める店はかなり限られるから、この機会に試してみても良いんじゃないかと思うけどな。僕はとりあえず頼んでみるよ」

「そうか、分かったぜ! じゃ、アイスコーヒーで」

「意志が固い⁉」


 そんなにアイスコーヒーが好きなのか、稲田さん。

 いや、値段を気にしている可能性もある。メニュー表をよく見ると、一番安いコーヒー類がアイスコーヒーだった。


「お金のことなら気にしなくていいよ。これくらい、僕が奢るから」

「ええっ? いやー、悪いって。俺も払うよ」


「この間の模試、僕は何とか自転車で会場まで行ける距離だったけど、稲田さん、電車だったんだろ? 電車賃も安くないし、これから校外模試が増えてますます大変だと思う。だから、せめて今日のお茶代くらいは僕に出させてよ」

「そ、そうか? じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうぜ」


 稲田さんは照れたように頭を掻き、「井上にご馳走になっちまった……えへへ」と呟いた。あえて異性を遠ざけてきたというのは本当らしい。意外と男慣れしていない様子に、ギャップを感じて非常に良いと思いました。



 なお、稲田さんの家は鹿之島の近くだという。まあまあな田舎だ。うちの父方の祖父母があの辺に住んでるんだけど、小さい頃、遊びに行くたびに「マジで何にもねえな……」と軽く絶望した記憶がある。

 田舎すぎてスーパーすらほとんどなく、あっても売価設定高めの店舗が多い。要は、激安ドラッグストアみたいな庶民の味方の店が皆無なのである。都会に住んでいる人は「田舎は給料と物価が安い」と考えがちだが、実際はそうとも限らない。田舎でも高収入を目指すことはできるし、輸送費がかさんだりする関係で食料品が都会並みに高くなることもある。


 あ、でも、地価は確かに安いかもな。愛媛県の家賃相場は全国的に見てもかなり安いらしく、ネットで賃貸物件を探せば家賃一万円台から余裕でヒットする。もちろん、そういう物件はほぼ例外なく築年数が古くてボロいわけだけども、条件はどうあれ家賃一万円で寝床を確保できること自体がヤバい。

 稲田さんがアイスコーヒーを、僕が水出しコーヒーを注文し、待つことしばし。


「近々、湯川さん以外の女性陣とも顔合わせの機会を設けようと思ってる。今回稲田さんに来てもらったのは、その前にまず、僕自身が稲田さんのことをよく知っておきたいからと思ったからだよ。どうぞよろしく」

「おう、こちらこそ」


 模試のときに配られた問題と解答の冊子を、彼女は鞄から取り出した。


「ただ、こちとら受験生だしよー。11月にもなって放課後にデートばかりしてると罰当たりそうだし、お互いのことを知るがてら、模試の自己採点でもしねえ?」

「あ、いいねそれ」


 あの模試、僕もまだ十分に復習できていないのだった。渡りに船、ちょうど良い機会である。僕らはそれぞれ模試の冊子とにらめっこしつつ、時折言葉を交わした。



「稲田さんの制服、南高だよね?」

「ああ」


 高校の偏差値的には、僕や栞の通っている学校よりもワンランク上の高校である。


「自称進学校の落ちこぼれだけどな」と困ったように彼女は微笑んだ。

 家からの距離的に、南高まで通うのにも電車通学だろう。片道一時間以上はかかるに違いない。疲れた表情一つ見せずに高校生活を送っている姿は、素敵だった。


「でも見た感じ、僕よりも模試の得点高そうだけど」

「俺、高一の時点で『あ、ダメだこれ、理数系無理だわ』って自覚してよー。で、開き直っちまって、文系主要科目にだけ特化して勉強してたんだ」


 自己採点結果を見せてもらうと、稲田さんの英語の点数は七割を超えていた。難易度的にそこまで難しい模試ではなかったとはいえ、得点率七割以上は驚異的。

 国語はそこそこだったけど、聞けば「漢文は捨てた」らしい。稲田さんの志望校では漢文が出題されないそうで、あまり重点を置いていないのだ。日本史も高得点で、隙がない。ワンチャン、偏差値60くらいあるんじゃないか……?



「へえ。でもなんか、もったいない気もするけどな。それだけ文系科目ができるなら、理数系もガチれば国公立大にだって受かるだろうに」

「チッチッチ。井上は分かってねえな、俺がいかに理数系を苦手としているかを。何を隠そうこの俺、高一の数学の教科書の、最初の一ページ目からもう既に分からなかったんだぜ!」

「最初の一ページ目って……表紙? 目次?」

「何でだよ⁉」


 ボケツッコミの能力も高い稲田さんだった。


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