5 アダムとイブ
この僕、井上悟は一人っ子である。兄弟はおらず、また祖父母と同居しているわけでもない。したがって、井上家の朝の食卓は、僕と父と母の三人で囲まれることになる。
朝食のメニューは、ご飯、鮭の塩焼き、味噌汁、玉子焼き、納豆、たくあん。逆に今時珍しいんじゃないかというくらい、王道の和食だ。
「ねえ、あなた。悟がこの頃、休日に妙に小奇麗にして出かけてるのよ」
「ほう。どうしたんだ、悟。彼女でもできたのか?」
興味津々に尋ねてくる両親に、僕は「付き合ってるわけじゃないよ」と返した。それ以外に答えようがないというか、説明が難しい。まさか父と母も、家庭教師の立花先生と僕がデートみたいなことをしているだなんて思うまい。
「ほう、付き合ってはいないのか。すると、友達以上恋人未満か? あるいは、ただれた関係か? 良いじゃないか。若いうちは、興味のあることに何でもトライしろよ。父さんが悟くらいの頃はな……」
「ちょっと、あなた。多感な時期の悟に、一体何を吹き込むつもりですか。友達以上恋人未満はともかく、不適切な関係を推奨しないでほしいんですけど。あと、青年期の武勇伝を語るのもやめてほしいわ。いくら人生のピークを過ぎたからといって、あとの人生は残りカスだからといって、過去の栄光に縋るようなみっともない真似はしないで下さいね」
「うっ……」
父さんは顔を歪め、片手でお腹を押さえた。ストレスで胃が痛いのかもしれない。対照的に母さんはにこやかである。
我が家はいわゆるかかあ天下で、誰も母さんには勝てないのだ。整然とした論理的思考と心を抉る毒舌で、相手の反論をいともたやすくねじ伏せる。母は強し。
否、「母は強し」という表現こそ不適切かもしれない。この言い回し、元々は「女は弱し、されど母は強し」だったらしいのだ。女性は弱くない。何なら男性より強いまである。
まあ一つ確かなのは、我が家の場合、父は弱しということだった。
今朝の食卓で、ちょっとだけ話題になったとはつゆ知らず。僕と休日にデートっぽいことをしている張本人、立花穂乃花はいつものように張り切って授業を始めた。今日もスーツ姿が様になっている。
「よしっ。今日は日本史の授業の初回だね!」
「どこの範囲をやるんです?」
「人類誕生からっ!」
「つまり、アダムとイブが禁断の果実を食べて原罪を背負い、楽園を追放されるところからですね」
「違うよ! ホモ・サピエンスが誕生するところからだよっ! 井上くんは何でキリスト教に準拠してるのかな?」
「すみません。実はうちの親、隠れキリシタンの末裔で、熱心なキリスト教信者なんです」
「そ、そうなんだ……?」
突拍子もない後付け設定を出したら真に受けられたので、慌てて嘘だと白状した。
「ごめんなさい、嘘です。けど、長崎に信仰心の篤い親戚がいるのは本当です。嘘の中に真実を混ぜることで信憑性が上がるって言いますけど、あながち間違ってない気がしますね」
「混ぜるな危険。ほら、授業始めるよっ!」
だんだんと、立花先生も僕の操縦方法が上手くなってきたように感じる。
アダムとイブは禁断の果実を、知恵の実を齧ったことで、裸体を晒すのを恥じて陰部を隠したとされる。逆に、もし彼らが知恵の身を食べなかったら、人間は裸であることを恥ずかしいと感じず、皆すっぽんぽんで街を歩き回っていたかもしれない。僕としてはその素晴らしい可能性の世界について議論したいところだったけれど、やむを得ず諦めた。
1時間ほどかけて、僕と立花先生は旧石器時代から新石器時代をざっとおさらいした。改めて勉強してみると、最初に農業を発明した人間は天才なんじゃないかと思う。こういう超序盤の歴史からも意外と入試に出題されるらしいので、気が抜けない。
ラスト5分。今日のまとめをサクッと終わらせ、先生はうーんと伸びをした。質問がなければ、あとはリラックスタイムということらしい。
「あのさっ、井上くん。この間、水着で出かけようとしたじゃん? あれさ、リトライしたいところだけど、よくよく考えると恥ずかしくなってきちゃった」
「あのとき、着替えを忘れたからですか?」
「そっちじゃなくてっ!」
ほんのり頬を染めながら、ふるふる首を振る立花先生。
「仮に、あの日着替えを持って来てて、あのまま市民プールに行ってたとするよ? でも、そうしたら、他の男の人にじろじろ見られたりしないかなって」
「? 見せたいんじゃないんですか?」
「至極当然みたく言わないでよっ⁉ わ、私は井上くんに見てほしいのっ。他の人じゃなくて!」
ヤバい。ここまで直球に愛情をぶつけられると、さすがの僕もグラッと来そうになる。耐えろ、井上悟。今はまだ耐えるんだ。
「それに、もし井上くんが私以外の女の子を凝視するようなことがあったら、ショックかもっ!」
「先生、自分で言うのも何ですが、僕は紳士です。そんな失礼なことはしませんよ」
「本当かなー?」
ジト目で僕を見たのち、先生は質問した。
「じゃあ、仮にだよっ? ものすごくおっぱいが大きな女の子が、ビキニ姿で井上くんの側を通り過ぎたとしましょう。そのとき井上くんは、ボイン少女へ絶対振り返らないという自信はあるのかなっ?」
「……」
「めっちゃ悩んでるし! 紳士なんじゃなかったのっ⁉」
「そうですね。まあ強いて言うなら、大は小を兼ねる。おっぱいが大きすぎて悪いということはないですよ」
「うわーん!! 井上くんの裏切り者っ!」
先生がちょっと拗ねてしまった。そして僕はいつの間にか、裏切り者ということになっていた。
今日の授業範囲とは大きくズレるが、日本史上の裏切り者というと、僕が真っ先に思い浮かべるのは明智光秀だ。光秀が信長を裏切った正確な理由はいまだに判明しておらず、様々な説があるという。信長と光秀も性癖が不一致していたんだとしたら、面白いかも。
「ごめんなさい、度が過ぎた冗談だったかもしれません。これからは大きさにかかわらず、あらゆるおっぱいを愛することを誓います」
「わざわざ誓わなくてもいいよっ、そんなこと!」
光秀のように落ち武者狩りにあってやられてもいけないので、僕は潔く謝ることにした。
「……けど、先生は水着を着て泳ぎに行きたくないわけじゃなくて、あくまで周りの人の視線や、人の存在自体が気になってしまうんですよね? だったら、良い場所を知ってますよ」
謝罪と同時に、提案も行った。