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57 ランニングブームの終焉

 どこかでトレーニングウェアに着替えて、そのまま城山公園へ直行、買ったばかりのウェアの性能をさっそく試すという選択肢もあった。

 が、僕の家はこの街で山側よりも海側に近く、公園に寄るとだいぶ遠回りになってしまう。日没時間がだんだんと早くなっているし、あまり遅くなるのは良くない。一度帰宅して、今日は近所を少しランニングするだけにしよう。慣れないうちから体に負荷をかけすぎると、かえって故障の原因になって良くないとも聞く。

 家に帰ってすぐ、僕はウェアに着替えた。うん、我ながらなかなかかっこいい。ぴっちり密着するデザインだから、心なしか体の線が細く見える。どちらかというと安物のウェアではあるけれど、こうして一式揃えて装着してみると、パッと見は玄人のランナーっぽい。

 どういうコースを走るかで少し悩んだけれど、初回は無理のない距離を走ろうということで、今回は海沿いの道を軽く走るだけにした。景色もいいし、道もほぼ平坦で坂がないし、ランニング初心者には最適だろう。



「あら悟、どうしたのその格好。アメコミヒーローのコスプレ?」

「確かに質感はそれっぽいかもしれないけど、僕は蜘蛛に噛まれて超人になったりしていないよ、母さん。ちょっとランニングに行ってくる」

「ヴィランに襲われないようにするのよ!」

「少なくとも日本にはいないんじゃないかな……」


 そもそもこのウェアはほぼ黒一色なので、某アメコミヒーローのカラーリングとは似ても似つかない。

 そんなわけで、出発。体力皆無の帰宅部にとって、ランニングは苦行だ。最初のうちはかなりしんどかった。

 けれど、ペースをなるべく落とさないようにして走り続けているうちに、不思議と楽しくなってくる。体はしんどいが、脳内麻薬が出ているのか何なのか、精神的にはほとんど疲労感を覚えない。タッタッタッと、一定のリズムを刻んで軽快に走るのが気持ちいい。

 15分ほどでルートを一周して、自宅まで戻ってきた。ゆっくりとペースダウンし、入念にストレッチしてから「ただいま」と帰宅する。走っている間は疲れを感じなかったのに、足を止めた途端に体が一気にだるくなった。けど、心地よいだるさだった。



「ごめん母さん、汗かいたからシャワー浴びてきていい?」

「いいわよ。悟、ヴィラン退治お疲れ様」

「だから日本にはいないってば!」


 日本の治安の良さを舐めてはいけない。

 運動の後に浴びる熱いお湯ほど、爽快なものはない。少し走っただけで悲鳴を上げている足の筋肉が癒され、疲れはほどよい眠気へと変換されていく。

 あー、これ、良いな……。はまっちゃいそう。学校帰りに軽く走るのが習慣になりそう。毎日やってみようかな、これから。

 着替えて自室に戻ると、スマホに何件か通知が溜まっていた。普段は帰宅してすぐにチェックするのだけれど、今日は買い物とランニングがあったので後回しにしてしまっている。


『どもども~。つかぬことをお聞きしますが、井上君、さっきランニングしてた?』


 星加さんからだった。とりあえず「ええ、してましたね」と返信。


『いやあ、私もさっきまで宅配のバイト中で、ちょうど反対側の歩道を自転車で走っててねえ。井上君、夢中で走ってたから気づかなかったみたい』

「星加さんもバイト中だったんですね。お疲れ様です」

『ありがとう~。……でさ、井上君!』


 もしこれが漫画だったら「わくわく」と擬態語が付いていそうな勢いで、星加さんは続けた。



『井上君が着てた、ランニングウェアっていうの? あれ、すっごく似合ってたよ~! 何ていうか、体のラインがくっきり出る服を着ると、男の人でもちょっと色気があるように見えるよねえ』

「そ、そうですかね?」


 僕が知らないだけで、そういうフェチがあるのか??

 思えば栞も、細マッチョ体型が好きだから僕に細マッチョになれとか無理難題を要求してきたっけ。正直、ランニングだけで細マッチョになるのは到底不可能だと思うけれど。

 ドイツの哲学者・ニーチェは「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ」との名言を残した。意味的には「ミイラ取りがミイラになる」とそう違わないけど、僕はニーチェの名言の方が好きである。理由は、かっこいいから。

 僕が女子の体操服姿に夢を見るのと同じように、女性たちもまた、僕のランニングウェア姿に何かしらのフェチを感じている可能性に気づき、僕はほんの少し戦慄した。


『ううむ、私もランニング始めようかなあ。井上君と一緒に走ったら楽しそうだし』

「すみません、僕は自分のペースで走りたい派なので並走はちょっと。あと、ランニングウェアは絶対に買わないで下さいね」

『何で~⁉』



 ごめん、星加さん。湯川さんほどではないとはいえ、あなたもなかなか良いものをお持ちなんだ。幸か不幸かタンクトップ越しに二度も揉んでしまったから、星加さんのサイズ感は把握済み。あれがブルンブルン揺れているのを間近で見てしまったら、健全な男子高校生としてはあまりよろしくない。


「何でもです」

『うう~、分かったよお。いつものタンクトップとジャージで走るね』

「それはそれでまずくないですか⁉」


 露出度はランニングウェアより断然高いだろ!

 しかも僕は、あのタンクトップの下がノーブラであることを知っている。「下着をつけていない女性と一緒に激しい運動をする」というシチュエーションだけを見ると、すごくいかがわしい。星加七海はおそらく、4人のヒロインの中で一番ランニングをさせてはいけない人間だ。

 栞と星加さん、そして僕の間に密かに起こりかけた危険で破廉恥なランニングブームは、こうして平穏に幕を閉じたのだった。


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