55 ダイエット計画
「こんなことをして、何の意味があるって言うんです。第一、今のだって僕が触りたくて触ったんじゃなくて、星加さんが無理やり触らせたんじゃないですか。もし男女の立場が逆だったら、速攻で逮捕されてますよ。良かったですね、僕が男性で」
「そうかな~?」
悪戯っぽく微笑して、星加さんは小首を傾げる。
「でも井上君、本気で私の手を振りほどこうと思ったら、もっと早い段階で振りほどけたでしょ? そうしなかったのは、井上君の心の中に多かれ少なかれ、私のおっぱいを触りたい気持ちがあったからじゃないの? 本当は、もっと触りたかったんじゃないの?」
「……そんなこと、あるわけないじゃないですか」
口では否定したけれど、何だか負け惜しみみたいになってしまった。
僕だって一応男なわけで、女の子とそういうことをしたいかしたくないかで言えば、そりゃしたいに決まっている。決まっているけれど、でもその後の人間関係だとか諸々を考えると、やっぱりしないべきなのだ。
さっきのは、僕が一瞬葛藤した隙を突かれた、意図しないスキンシップだった。
「井上君の手、やっぱり男の子の手だねえ。血管が浮き出てて、大きくてゴツゴツしてて、かっこいい。惚れ直しちゃいますなあ」
視線を落として、恍惚とした表情で呟く星加七海。
「井上君、私はいつでも歓迎だからねえ。井上君が望むなら、私の胸なんていつでも好きなだけ揉んでいいからね~。いつも私たち皆のことを思いやってくれて、決めるときはかっこよく決めてくれる井上君のことが、私はとっても大好きだよ!」
「……あ、ありがとうございます。嬉しいです」
ストレートに思いの丈をぶつけながらも、決して「私だけを見てほしい」「私だけの井上君でいてほしい」などと言わないところが、星加さんらしいと言えばらしいのかもしれない。独占欲強めな立花先生とは対照的に、そういう感情はあまりないのだろうか。
いや、あるいは、あるけれど隠しているだけか。誰だって、好きな人が他の異性とイチャイチャしているのを見て良くは思わないだろう。今はまだ、僕にとって都合がいいポジションに甘んじているだけか。
まったく、油断も隙もない。
「でも揉みませんけどね」
僕は肩をすくめ、「それじゃ、今日はそろそろ失礼します」と手を振って立ち去ろうとした。
「あいにく、日本史の勉強の続きをしないといけないんです」
「つれないなあ、井上君。保健体育の勉強もしていけばいいのに~」
「そんなものは入試に出ませんよ⁉」
なおも引き止めようとする星加さんから逃れるのには、なかなか苦労した。
「効果的なトレーニング方法?」
僕の隣で中庭のベンチに腰掛けている栞は、怪訝そうな顔をした。
「どうしたのよ、藪から棒に」
「実は最近、夜の勉強のお供にチョコレートとかをつまんでたら、どうも太り気味になっちゃったみたいでさ」
今日は割と久しぶりに、彼女とお昼をご一緒している。
桜井先生の教育実習が終わったのが、数日前。その日以降、やろうと思えば栞は僕を学校内で独占できたはずなのだけれど、今日まで頑なに校内での接触を控えていた。あとで本人に聞いてみたところ、「当たり前じゃない。ライバルが不在なのをいいことに、出し抜くような真似はできないわ!」と胸を張っていた。
一見すると良いことを言っているようだけど、湯川さんって確か、星加さんがデートから早退したとき、嬉々として僕を連れてショッピングに繰り出していたような……。桜井先生と星加さんとで、明確に態度を変えている。
僕はオタクの嗜みとして流行りのラブコメアニメは一通り履修しているのだけれど、あるヒロインと他のヒロインとの間にはっきりとした上下関係、もとい格差が構築されている作品はそんなに見かけない気がする。普通は、全員へ平等にチャンスを与えるものなんじゃないかなあ。あるいは、これは湯川さんの性格が悪すぎる点を補う特別措置なのか。
「ふーん。それでダイエットをしたいと」
別にお腹出てるようには見えないけど、と僕の腹周りを目視でチェックする栞。まあ、たとえちょっと出て見えたとしても、「弁当を食べながら話してるからじゃないか?」と誤魔化しは効きそうだったけど。チェックが雑。
「で、何であたしに知恵を借りに来たのよ。言っておくけど、あたしは別に太り気味じゃないし、特別なトレーニングもしてないわよ?」
「ほら、湯川さんってこう、美容や健康に詳しそうだろ? いつも身だしなみに気を使ってるし」
というのは、半分くらいが建前であって。
湯川栞のむっちりした体型は適度に肉感的でこそあれ、決して贅肉が付いている印象を相手に与えない。その絶妙なバランスを常に維持している彼女ならば、何かしら体型維持の秘訣を知っているのではないかと、僕は思ったのだった。
「そういうことなら仕方ないわね」
満更でもなさそうに引き受け、栞はお弁当箱の中のラスト一個、煮物を小さな口の中へ放り込んだ。
「まあ、あんたは肩幅が広いだけのヒョロガリ体型だから、いきなりジムに通わせるのは無理よね。怪我させちゃいそう」
「ヒョロガリで悪かったな!」
「……でも、ムキムキすぎる人ってあたし、生理的に無理だから。細マッチョくらいがタイプなのよねー」
横目で僕を見て、栞はボソッと付け足した。
「頑張って細マッチョになりなさい。あたしのために」
おっと。珍しいこともあるものだ。あの湯川さんが一瞬、デレた。ちょっとだけ顔を赤くしているようにも見える。
もしかしてこの人、あれか? 普段のツンツンした態度は他のヒロインと張り合う必要に迫られてのもので、本来ならこうして素直に他人と接することのできる性格なんじゃないか? いや、さすがに好意的に解釈しすぎか。仮の姿があそこまで攻撃的なら、それはもはや仮ではなく本体と呼んでも差し支えない。
「じゃあ、ジムには通わないとしよう。どのみち、僕の小遣いじゃ月額料金を払うだけで精一杯だし、本格的にやろうとすると勉強時間を削らないと厳しい。何か、あまりお金をかけずにできる運動ってないかな?」
「そうね。やっぱり、定番なのはランニングじゃないかしら」
お弁当箱をしまいながら、栞が言う。
「桜井先生と松浦城へ登ったときのこと、覚えてる?」
「もちろん覚えてるよ。嫌がる桜井先生を湯川さんが脅して、号泣させて、無理やりかき氷を奢らせたやつだろ?」
「あんただって奢ってもらったでしょうが! ていうかあたし、そこまで極悪非道なことやってないんだけど⁉」
「いや、まあ冗談だけどさ。松浦城がどうかしたの?」
「あのとき、車で裏登山口へ向かう途中、城山公園のすぐ側を通ったでしょ?」
城山公園。
僕たちが登った松浦城は、城の本丸にあたる部分だ。二之丸、三之丸に相当する部分は、本丸のある小高い丘の麓に位置している。
二之丸には日本庭園として、三之丸は広大な芝生広場がある通称「城山公園」として、当時の面影をほんのり残しつつ現存しているというわけだった。かつては城主の家臣たちの屋敷があったらしい、その城山公園の側を僕たちは車で通過したのだ。
「城山公園って、ランナーに人気らしいのよ。公園内を一周するだけでもいい運動になるし、本丸や城のお堀を眺めながら走ったりすることもできるから、景色も良くて最高なんだとか。たとえば、ああいう場所を走ってみるのはどう?」
「いいね。アドバイスありがとう、湯川さん。さっそく、帰ったら城山公園へ走りに行ってみるよ」
僕もちょうど弁当を食べ終わった。そろそろ昼休みも終わりだし教室へ戻ろうかと思っていたところ、栞に「まだ話は終わってないわ!」と引き止められた。
「あんた、どういう格好でランニングに行くつもりなわけ?」




