44 勝って兜の緒を締めよ
「……え? えっ? 皆、そんなにエッチなことしてるの? 立花先生や桜井先生も皆、井上君と日常的にキスしてるの?」
心なしか青ざめている星加さんに、僕はさも当然という風で頷いた。
「その通りです。おはようのキスは立花先生に、行ってらっしゃいのキスは湯川さんに、ただいまのキスは桜井先生にしてもらっています。星加さんにお願いするとしたら、おやすみなさいのキスくらいですかね」
同居しているわけじゃないんだから、そんなに都合のいいタイミングでキスしてもらえるわけないだろ。
以上のような鋭いツッコミ待ちで僕はボケたのだったが、しかし僕の台詞のおかしな点にも気づかないくらい、星加さんは動揺しているようだ。
「これでもう分かったでしょ? 先輩」
とどめとばかり、栞が彼女へ畳み掛ける。
「キスくらいのこと、先輩以外のヒロインは既に経験済みなんですよ。清楚系に見える立花先生も、普段はクールでかっこいい桜井先生も、もちろんあたしも、皆やってます。井上もだんだん慣れてきて、キスが上手になってきてるんですよ。あえて話すようなことでもないので、今まで黙ってましたけどね。先輩はキスをすることで皆の先を行ったんじゃなくて、これでようやく皆と同じスタートラインに立っただけなんです」
呆然としている星加さんを慰めるように、ぽんぽんと肩を叩く。
「残念でしたね。なかなか体を許さないことで純潔をアピールすれば、それはそれで一種の希少価値として男性の目に映ったでしょうに。安易にキスしてしまったことで、先輩は他のヒロインと何ら変わらない存在へと成り下がってしまったんですよ。グレードアップどころか、むしろグレードダウンです」
「そ、そんなあ……」
「本当にご愁傷様です、星加先輩。あんたがキスするときに振り絞った勇気も、キスをするタイミングを慎重に見計らった姑息な計算も、上手にキスしようと駆使したなけなしのテクニックも。何もかも全部、無駄だったんですからね。あんたが今まで積み上げてきたものは全て、何の価値もない無意味だったんですよ!」
「うっ……うっ……何も、そこまで言わなくても」
あーあ、半泣きにさせちゃった。さすがにやりすぎな気もするけれど、自業自得と言えばそれまでである。僕はひとまず、傍観者に徹することにした。
ていうか、女子高生に泣かされている社会人って、人として大丈夫なんだろうか。身の上話を聞く限りでは星加さんも苦労人のようだし、案外メンタルは弱いのかもしれない。
「これに懲りたら、出過ぎた真似はしないことね。先輩は確かにあたしたち他のヒロインよりも年上だけど、少なくとも井上との恋愛経験に関しては、あたしたちの方が一枚上手なんだから」
「分かりました。大変申し訳ございませんでした! 切腹しますう!」
「いえ、切腹はしなくて良いわ。あたしはたった今、お腹よりも大事な箇所を切り刻んだんだから。あんたの心をね」
上手いこと言ってやった感を出して悦に入っている栞。こいつだけは絶対に敵に回してはいけない存在だと、僕は自分の胸に深く刻み込んだ。
もうお分かりだとは思うけれど、今回湯川栞が立てた作戦は、「星加さんが僕にキスをした」という行為そのものを無意味にすることだった。正確には、無意味だったと星加さんに思い込ませる。
他三名のヒロインも皆キスを経験済みであれば、星加さんのキスに希少性はなくなる。ただ、皆がやっていることを自分も後追いでやってみたに過ぎなくなる。星加さんは立花先生へ知られないように僕に口づけし、僕を「共犯」関係にした。しかし、今やそれはほとんど何の意味もない秘密になった。
キスをした事実を揉み消すことができないのであれば、キスにより得られる優越性を排除する。ある種開き直った観点から栞が考えた、巧妙な策であった。
かくして、デートをしようと集まった瞬間から、星加七海は心に大きな傷を負うことになった。もっとも、自業自得なんだけど(二回目)。
「あの、井上君」
恐る恐る、星加さんは僕を上目遣いに見て言った。まだ目が潤んでいる。
「私、今日は体調が悪いので早退しますう……お、お二人で楽しんできて下さい! さようならあ。またの機会に!」
「あ、ちょっと待って」
もう聞いてなかった。
脱兎のごとく駆け出し、星加さんは猛スピードで駅の階段を降りていった。まあ、気持ちは分かる。僕の前で栞からあんなことを言われたら、どの面下げて一緒にデートするって言うんだ。僕だったら、制止を振り切って本当に切腹するまである。
「……フフッ」
あとに残ったのは、さてこれからどうしようかと途方に暮れる僕。そして、このときを待っていたと言わんばかりに目を爛々と輝かせる栞だった。
「ざまあないわね、星加七海! これで今日は一日中、あたしが井上を独り占めできるわ!」
「やっぱりそういう魂胆だったのかよ!」
打ち合わせのとき以上に執拗に星加さんへ精神攻撃しているなと思ったら、ライバルを蹴落としたかっただけかよ。手段が異なるけれど、目的自体は星加さんと大して変わらないじゃないか。
「何よ。別に良いじゃない。このあたしが知恵を絞って、星加先輩を見事撃退してあげたのよ。少しは感謝して、美味しいもの奢ってくれたって良いじゃない」
「そうやって僕に馬鹿高いものを奢らせる気だろ。騙されないぞ」
桜井先生、あなたの犠牲は無駄にはしない。僕は過去から教訓を得て、現在に活かします。
「ていうか、なんか上手いこと解決した感じになってるけど、湯川さんの今回の作戦には致命的な穴があるよ。そこんとこ、どうするつもりなの?」
「えっ?」
当の湯川栞は、きょとんとしている。演技ではなさそうだ。
「つまり、根本的な解決になってないんだよ。一時しのぎなんだ。今回のはあくまで『星加さんのキス行為の意味をほとんど喪失させた』『恥をかかせて撤退させた』だけであって、彼女が僕と急接近しようとする動き自体を止めたわけじゃない。星加さんはまだ、戦意を失っていない」
「そう? あそこまで追い詰めれば、当分はあんたに近づかないと思うけど」
「星加さんは、そう簡単に諦めるような人じゃないと思う。ほとぼりが冷めれば、また接触してくる可能性は十分あるよ」




