3 方向性
第二回目の授業。
前回、カフェで一緒にパフェを食べたときのことが嘘だったかのように、今日はスーツ姿でビシッと決めてきている立花先生。彼女は僕の部屋で、僕のすぐ隣に立ち、メモを見ながら確認事項を述べた。
「えっと、井上くんは私立文系志望で、私が通っているのと同じ松浦大志望。学部は法学部。私が教える教科は、国英社。社会は日本史を選択。これで合ってるよねっ?」
「合ってます」
松浦大学。別に高偏差値ではないし、名門と呼ばれる類の大学でもない。僕たちが住んでいる地方都市にある、そんなに規模の大きくない私大だ。
この街には、偏差値50くらいの国立大学が一つと、それよりも偏差値が10くらい低い松浦大、計二つの大学が存在する。短大やら女子大、専門学校など、ごく小規模な学校も含めればもっと色々な教育機関があるのだろうけれど、メインなのは、よく知られているのはこの二校だ。僕が目指しているのは、松浦大、略して松大はそんな感じの大学である。
「ちなみに、国立大は受けないのっ? 私立専願?」
「理系科目は不得手ですし、三科目に絞った方が効率的に勉強できそうですからね。文系科目なら、暗記がそこそこできれば得点できそうな印象はあります」
「なるほど! 頭良いねっ!」
めっちゃ笑顔で褒められた。
ぶっちゃけ、勉強に割く労力をなるべく減らしたいっていうのはある。自慢じゃないが、僕の座右の銘は「最小の努力で最大の結果を出す」だ。要するに、楽して生きていきたい――どうせ人生なんて、嫌なことの方が多いのだから。
「じゃあさっそく、今日から松大の対策をしていくねっ! まずは国語、現代文からかな。形式は共通テストに似てるけど、難易度はもうちょい下。引っかけ問題は基本的に少なめで、素直な問いが多いかなっ。だから、文章を深読みせずに落ち着いて解けば……」
「すみません、先生。第二回目の授業が始まる前に、質問があります」
現代文の講義が始まってすぐ、僕はすっと手を挙げた。立花先生がきょとんとする。
「何かなっ?」
「僕は筋金入りのアニオタというわけではないですが、某ウイルスの影響で自粛していたとき以来、流行りの作品にはなるべく目を通すようにしています」
「……?」
「もちろん、アニメと現実は違いますよ。違いますけど、アニメの第二話よろしく、授業内容だけでなく僕たちの関係性を方向付けておくべきだと思うんです」
「方向性?」
むむーん、と奇妙な呟きを発して、立花穂乃花は首を斜め45度に傾げた。癒し系キャラみたいでちょっと可愛い。
「教師と生徒、たまにコスプレイヤーと同伴者。それ以上でもそれ以下でもなくないかなっ? 少なくとも、今のところは。私は井上くんのこと超絶タイプだし、いつでもオッケーだけど!」
「僕たちが現在、恋人同士ではないのはその通りです。でも、だからといって、『恋人でないからエッチなイベントは起こらない』とは限らないじゃないですか」
「へっ??」
おっと、いけない。大真面目な顔で説明したからか、先生が本気で困惑している。
「つまり、こういうことです。立花先生の『やりたいことリスト』の中にもしもエッチな内容が書かれていたら、僕たちはいずれそれを実行に移さないといけないんでしょうか。健全な男子高校生に悪戯をするとなると、僕が許しても日本の法律が許しませんよ!」
「か、書いてないよ、そんなことっ! たぶん! 一年以上前に書いたから、全部の内容を暗記してはないけど! ていうか、井上くんは許すんかいっ!」
「……一応、リストをもう一度、じっくり拝見しても良いですか?」
そして僕たちは再び、やりたいことリストを念入りに眺めた。一つだけ、「素敵な彼氏がほしい♡」と書いてあったのを除けば、特にエッチなことは書かれていなかった。
「なるほど。すると僕は、素敵な彼氏になれるよう、切磋琢磨すべきということですね。精進しましょう」
「そうだねっ! ふふっ。……って、ほら! 井上くんが長台詞ばっかり喋るから、もう授業時間が残り半分くらいしかないじゃん!」
「大丈夫ですよ、先生。焦らないで下さい。うちの母は大らかな人です。僕が小学校のソフトボールチームに入っていたとき、ユニフォームを泥だらけにして帰宅しても、嫌な顔一つせずに洗濯してくれました。たとえ授業時間の半分がエッチなイベントの有無の確認で潰れたとしても、立花先生にはしっかりと時給を払ってくれるはずです」
「お金の問題じゃなくて、計画通りに授業が進まないと、井上くんの学力が困ったことになっちゃうんだよっ⁉ もうっ。今日終わらなかったところは宿題にするから、次回までによろしくね!」
今以上に学力が困ったことになるのは避けたかったので、今度ばかりは僕も無言で頷くしかなかった。
バトルものの少年漫画ではよく「時の流れがゆっくりな空間で修行する」的な回があるものだけれど、あの空間が欲しいなと今、切実に思った。
はたして立花先生は、何とか授業内容を最低限終わらせた。要点をまとめ、サクサクと問題演習を行った。
授業時間が残り五分となったところで、唐突に「というわけでっ!」とテンション高めに切り出す先生。
「次の『やりたいことリスト』なんだけど、『浴衣で夏祭りに行く』とかどうかなっ? 井上くんも、勉強の息抜きになると思う!」
何が「というわけで」なのかはよく分からなかったが、結果的に僕は難色を示すことになった。
「うーん、早くも第3話にして、『JKのコスプレをするヒロイン』という要素を捨てて、浴衣を着るわけですか。確かに浴衣も王道ですし萌えますけど、ちょっと作品のコンセプト的に一貫性に欠けるというか……僕がこの手の恋愛漫画の読者だったら、読むのをやめてしまうかもしれません」
「井上くんは、私にJKの制服を着てほしいのかなっ⁉ ど、どうしてもって言うのなら、しょうがないけど!!」
「まあ、大半の読者はそれを期待してるんじゃないですか?」
微妙に質問に対する答えになっていないような台詞を返した。
「それにしても、夏祭りですか。あれですよね、ヒロインの下駄の鼻緒が切れちゃって主人公がおんぶしてあげたり、どちらかが告白するんですけど花火の音にかき消されちゃったりとかする、いかにも物語のクライマックス的なイベントが起こりまくるやつですよね。そういうイベントを序盤で出すのは、得策じゃないですよ。どうせ出すのなら終盤に……」
「普通の人はそんなに起こりまくらないよっ! 井上くんは、夏祭りを一体何だと思っているのかなっ?」
「夏祭りかあ。小さい頃はよく行ってましたけど、高校に入ってからは『リア充爆発しろ』としか思わなくなって、全然行ってないんですよね。というか冷静に考えたら、どういう人たちが営業しているのかも怪しい屋台で、馬鹿に高い食べ物を買い食いするなんて、リスクの塊みたいなものじゃないですか」
「お祭りは雰囲気を楽しむものなんだよっ! ……あっ、もう時間になっちゃった。とりあえず、次の『やりたいことリスト』の内容は、また考えて連絡するね!」
「分かりました」
いきなりバトルものへ路線変更、とかだけは勘弁してほしいなと思う僕であった。たとえば、万が一リストのどこかに「格闘技世界チャンピオンになりたい!」だなんて書いてあろうものなら、次回から数週間にわたって修行編が始まるに違いないのだから。
軽く頭を下げ、机の上の問題集を片付けにかかる。そんな僕を意味ありげに見つめ、立花穂乃花は「ねえ、井上くん」と口を開く。いつになく、真剣な表情で。
「井上くんはさ、どちらかというと斜に構えてるタイプだと思うんだよねっ。さっきの、夏祭りについての意見とかを聞いた限りだと」
「いやあ、それほどでも」
「褒めてはないよっ⁉」
僕がおどけて頭を掻いたのを見て、先生はズッコケそうになっていた。
「……ゴホン。で、でもねっ、人生の一年先輩として言わせてもらうけど、自分の気持ちに正直に、なるべく後悔しないように生きた方が良いと思うよ?」
が、すぐに体勢を立て直して続ける。
「ほら、私なんか、高校生のときにそういうのずっと我慢し続けてきた結果がこれだからっ! 大学生にもなって青春コンプレックスこじらせて、当時やり残したことを制服を着てやってるわけだし。私みたいになっちゃダメだよ?」
「そうですね、参考にしてみようと思います。家庭教師というより、人生の反面教師として」
「さりげなく馬鹿にされた気がするっ⁉」
そうこうしているうちに、第二回目の授業は終了した。
僕はこの授業の冒頭で、「関係性を方向付けるべきだ」と提案してみた。より具体的には、エッチなイベントが起こる可能性について議論してみた。幸か不幸か、そのような可能性はほぼゼロであり、唯一残っているのは「立花穂乃花に素敵な彼氏ができる」ということのみだった。その彼氏が僕になるのか否かは、まだ定かではないけれど。
ラスト5分の会話で、図らずして、「僕のひねくれた性格を矯正する」という方向性も追加された気がする。こういうのをウィンウィンの関係と言うのだろうか。先生はコンプレックスを解消し、僕は性根を叩き直す。そして先生は、あわよくば僕と付き合おうとしてくる――うん、どちらかというと先生側が多めにウィンしている感があるな。
何はともあれ、おおよその方向性は定まった。あとは路線変更したりせず、突っ走ろう。