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20 私のヒモにならないか?

 体育祭の後片付けが終わると、次はいよいよ文化祭……なのだけれども、僕たち三年は皆部活を引退しているので、これといってすることもない。自然と受験勉強に集中しやすくなる。もっとも、僕は元から帰宅部だから平常運転である。


「――今日から一か月間、このクラスで教育実習をさせていただくことになった、桜井伊織だ。よろしく頼む」


 若い女性の教育実習生がうちのクラスにやって来たのは、そんな折の朝のホームルームだった。実習生だというのに慣れた手つきでチョークを握り、黒板に自分の名前をすらすらと書いていく。

 桜井伊織。「桜、良い檻」と誤変換してしまいそうな名前だった。これを英語にすると、「チェリーブロッサム・グッドケージ」。どうしよう、適当に英訳しただけなのにかっこいい二つ名みたくなってしまった。自分の才能が恐ろしい。

 女性としてはかなりの長身だ。170センチには届いていなさそうだが、160センチ後半は確実にあるんじゃないだろうか。サラサラの黒髪をポニーテールにし、フレームの細い眼鏡を掛けている。伊藤のゴツい眼鏡とは大違いだ。

 けれども一番印象的だったのは、その無表情さだ。にこりともせず、あまり抑揚のない声で淡々と話す。良く言えばクールな、悪く言えば冷たい印象を受けた。英訳すれば、どっちも同じような意味になるんだろうけどさ。



「担当教科は数学。特に、数Ⅲは奥が深くて好きだな。分からないところがあれば、遠慮なく質問してくれ」


 チェリーブロッサム・グッドケージ、もとい桜井伊織は無感情に続けた。それを聞いて、元サッカー部の陽キャ男子がおどけて挙手する。


「先生! あのー、俺ら文系クラスなんで、数Ⅲはやらないと思うんすけど、大丈夫っすか?」

「……何だ。教え甲斐がないな」


 一瞬、聞き間違いではないかと耳を疑った。他のクラスメイトたちも同様だった。さっきの元サッカー部男子なんか、笑顔が凍りついている。

 だが、事実だった。毒を吐いたそのときだけ、桜井先生は口元を歪ませ、初めて感情らしきものを垣間見せたのである。

 緊迫した空気を見かねたのだろう。僕らの担任が慌ててフォローを入れた。


「さ、桜井先生、自己紹介ありがとうございます。じゃあ、今度は皆さんが先生に自己紹介をしましょう。出席番号順にお願いしますね」


 こういうとき、出席番号が早い「井上」のような名字は不利だ。何を隠そう、僕の出席番号は二番。一番の浅沼くんの番が終われば、速攻で僕の番になる。



「浅沼大介っス。元野球部っス。数学はあんまり得意じゃないんで、受験に向けて全力で頑張ります。よろしくお願いしまっス」

「うむ。よろしく頼むぞ、浅沼」


 桜井先生が頷き、着席する浅沼くん。

 しかもこの浅沼くん、無口かつ真面目という野球部にしては珍しいキャラで、授業で当てられても必要最低限しか喋らないんだよな……。おかげさまで毎度毎度、すぐに僕の番になる。

 まあ、仕方がない。いずれにせよ、この重い空気の中で長広舌を振るえる勇気がある奴なんて、いるわけがないのだから。腹をくくって、僕も席を立った。


「井上悟です。お恥ずかしながら元帰宅部でした。僕も数学は苦手なので、頑張りたいと思います。よろしくお願いします」

「……」


 あれ、おかしいな。さっき浅沼くんが自己紹介したときは、桜井先生、すぐに反応したのに。どうしたんだろう、そんなに僕の顔を凝視して。

 僕の顔に何かついているのか。もしかして、僕の顔が信じられないほど醜かったのか。湯川さんを野獣呼ばわりしたツケがとうとう回ってきたのかもしれない。僕はルッキズムに賛同しないけれど、世の中にはそういう主義の人がいてもおかしくはないし。

 5秒くらい僕を見つめてから、やがて桜井先生はぽつりと言った。


「え、好き」

「えっ?」


 思わず聞き返すと、間髪入れずに「何でもない」と言われた。


「さっさと着席しろ、井上。次の宇野が困っている」

「す、すみません……?」


 釈然としないものを感じつつ、僕は命じられた通りに席に着いた。



 明らかな変化があったのは、その数日後だった。桜井先生が担当した数学の授業内で簡単な小テストが実施されたのだが、僕だけが赤点を取ってしまい、放課後に先生から補習を受ける羽目になったのだ。

 といっても、名前を書き忘れただけだった。ケアレスミスである。「次回から気をつけるから見逃してもらえないか」と頼み込むことも考えたけれど、あの桜井先生にそんなことを頼んだ日にはどうなるか分からない。熟慮の末、何も抗議せず、潔く補習を受けることにした。

 他のクラスメイトは次々に教室から出て帰宅する中、僕だけが先生に配られたプリントで演習問題をやらされている。なかなか屈辱的というか、恥ずかしい。僕みたいなぼっちはなるべくクラス内で悪目立ちしないように立ち回る日丁があるのだけれど、今回の補修は正直結構キツかった。


「せいぜい頑張りなさいよ、井上。頑張ったら、また今度お弁当のおかずでもあげるわ」


 僕の机の横を通り過ぎざまに、栞がまたしても嫌味を囁いてくる。


「遠慮しとくよ。毒が入っているといけないし」

「あたしのお弁当を何だと思ってんのよ⁉ 白雪姫に毒リンゴを食べさせた魔女じゃあるまいし。たとえるならそう、千年の眠りからも覚めるくらいの絶品なんだからね!」

「千年の恋も冷める、の間違いじゃない?」


 もう少し栞とこのユーモア溢れる会話を楽しんでも良かったのだけれど、残念、教卓に立つ桜井先生の鋭い視線の威力には勝てない。栞は徐々に声のボリュームを落とし、「じゃ、とにかく頑張りなさいよ」と言い残して退室した。

 そして教室には、僕と先生だけになった。



 残暑厳しい今日この頃、教室内にはいまだクーラーが効いている。ゆえにドアや窓は締め切り、夕日が眩しいのでカーテンも少し閉めてみたりして。半密室といえるかもしれない。

 演習問題自体は、さほど苦戦せずに解き終えた。何せ、元々補習になった理由が名前の書き忘れなのだから。授業にかろうじてついていける程度の学力は維持しているつもりである。


「できました、先生」

「よし。見せてみろ」


 教卓までプリントを持っていくと、先生はすぐに採点開始した。結果は合格。1,2問だけ細かいミスがあったけれど、あとは大体合っていた。

 桜井先生は、数Ⅲが大好きらしい。本当に好きな単元を教えられないにもかかわらず、文系クラス向けに難易度をやや落とし、丁寧に問題作成してくれていることは、解きながら伝わってきた。「教え甲斐がない」なんて言っていたけれど、何だ、実際は意外と生徒思いで良い先生じゃないか。


「うむ、合格だ。良くできているじゃないか、井上」

「ありがとうございます」


 僕の中で先生の評価が少し上がったので、ついつい、もう少し会話を広げてみようかなと思った。それが間違いだったのかもしれない。



「……あの、桜井先生。自己紹介をした日、確かに僕を見て『え、好き』って仰ってましたよね。あれって結局、どういう意味だったんですか?」

「よくぞ聞いてくれた!」


 瞬間、眼鏡の奥の先生の瞳がキランと輝いた。両腕を伸ばし、僕の肩をがしっと掴む。


「私はな井上、貴様のような男をずっと探し求めていたのだ。したがってあれは、そのままの意味だ」

「え? えっ?」


 思いの外、強い力で肩を押さえられて逃げられない。困惑している僕に、先生は目が無表情のまま、口元を僅かに緩ませて言った。


「――今すぐにとは言わない。将来的に、私のヒモになる気はないか? 井上悟」



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