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1 一目惚れ

 遡ること、一か月。

 僕は、井上悟は、高校三年生である。ちなみに名前の読み方は「さとる」ではなく「さとし」だ。領域を展開したりすることはできないし、かといって黄色い電気ネズミを引き連れて全国を武者修行しているわけでもなく、どこにでもいる平凡なスペックの男子高校生だった。

 高校三年生というと、やはり受験が控えている。特にこの夏休みは、受験の天王山。現状の学力では地元の私大に受かるかどうかすら怪しかった僕を見かねて、両親は家庭教師をつけた。その家庭教師が彼女、立花穂乃花だ。大学一年生、文学部。僕よりも一つ年上。

 今でも鮮明に覚えている。初めて僕の家に来て、母親へ長々と挨拶をして、いざ僕の部屋に入ってきて、僕と二人きりになったとき。立花穂乃花は、僕を見て「うわっ!」と素っ頓狂な声を上げたのだった。

 けれどそれは、マイナスな意味での悲鳴ではなかった。むしろ嬉しい悲鳴だったらしい。



「どうしよう! めちゃくちゃタイプなんですけど!!」

「……え?」


 今度は僕が、間抜けな声を出してしまった。そして、首を振った。


「冗談はやめて下さいよ、先生。生まれてこの方女性にモテたことのないこの僕、井上悟を舐めたらいけません。僕がタイプだなんてこと、天地がひっくり返ってもありえませんよ」

「ふーん」


 立花先生はニヤリと笑った。勉強机に向かい、椅子に座っていた僕を、後ろから軽く抱きしめるような格好で見下ろしてくる。


「じゃ、きっとたった今、天地がひっくり返っちゃったんじゃないかなっ?」

「……へ」



 この角度からだと、立花先生の童顔は上下逆さまに見える。さながら、本当に天地がひっくり返ったみたいに見えなくもない……いや、見えねえよやっぱり。アニメ的で面白い演出だなとは思うけど!

 やがて井上穂乃花は、僕の隣に立つポジションへと戻った。「今日は初回の授業だし、雑談多めでも許されるよねっ!」とやけに大きな声で独り言ち、ぽんと手を叩いている。年下の僕が指摘しても説得力ゼロだろうけど、この人、自分にとことん甘いタイプなのかもしれない。


「それで、先生。一体、僕のどういうところがタイプだと感じたんですか?」

「そうだねえ。まず第一に、顔っ!」

「……直球すぎません??」


 断っておくが、僕は決してイケメンではないし、周囲から「かっこいい」とか言われた経験もない。女子からバレンタインチョコを貰ったことは何回かあるが、全部義理だ。優しい子がクラス全員に配っていたチョコを、一つ頂いただけだ。



「何て言うかね、ちょっとこう憂いを帯びてて、影がある感じがすっごく私の好みなのっ!」

「それ、世間的には陰キャに分類される顔だと思うんですけど。よく老け顔って言われますし」


 恋する乙女みたくドキドキワクワクしている先生に、僕は半ば呆れながら返した。まあでも、「蓼食う虫も好き好き」という言葉もあるし、世の中には色んな好みや性癖の持ち主がいるんだろう。


「顔以外には、何かあったりします!」

「うーんとね、背がすごく高いところも良いと思う! 大学の同期の男子でも、ここまでの長身は滅多に見かけないよっ!」

「ど、どうもです」


 背が高いというのは、僕の数少ない取り柄の一つだ。食事の栄養バランスに気を遣う母のおかげで毎日牛乳を飲んで育ったからか、身長はぐんぐん伸びている。肩幅も無駄に広いから、高校一年のときにラグビー部へ勧誘されたこともある。ただ残念なことに、スポーツは別に得意ではないので丁重にお断りした。うどの大木ってやつだ。



「あとね、服の趣味もめっちゃ良いなって思うんだっ! 今着てる、無地のグレーのシャツなんかもそう。シャツの丈がまた絶妙にかっこいい長さだよねっ。見た目も派手すぎず地味すぎず、さりげない自分らしさの演出が最高っ!」

「……あの、褒めてもらったところ申し訳ないんですけど、このシャツ古着屋で500円で買ったやつなんです。なんかごめんなさい」


 先刻、僕が自分を「うどの大木」と卑下したのには、運動や勉強ができない以外にも理由がある。この僕、井上悟は仕事もできないのだ。つまり、アルバイトを始めてもミスばかりして、すぐに嫌気が差してバックれてしまう。長続きした試しがない。

 そしてバイトが長続きしないということは、常に金欠ということだ。高い服や、お洒落な服を買えるだけの予算が僕にはない。せいぜい、近所のリユースショップで安い古着を探して購入するくらいしかできなかったのだ。



「分かってないなあ、井上くん。服の価値は、値段で決まるものじゃないんだよ? その人に似合っていれば、たとえウニクロとかの安価な服でも超立派なファッションアイテムになるの。たくさんある古着の中から自分に似合うものを見つけ出す、井上くんのそのセンス! 私はそれが素晴らしいなって思うんだよっ!」

「は、はあ、ありがとうございます」


 言えない。このシャツが一番安かったから買っただけだなんて。

 その後、数秒間の沈黙があった。沈黙によって僕は、「ああ、たぶん立花先生はもう、僕の好きなところを言い尽くしたんだろうな」と理解した。


「……ええと、とりあえず、先生が初対面の僕に一目惚れしたっぽいことは分かりました。気持ちはとても嬉しいです」

「うん! 一目惚れだねっ!」


 力強く頷かれた。


「けどこれ、授業の導入としてはまずいんじゃないかなって思うんですよ。つまりその、初回の授業からこうも赤裸々に想いを打ち明けられると、今後やりづらかったり、支障が出ちゃうんじゃないかなって。だって、やっぱり僕たちは先生と生徒の関係ですよ。うちの両親が授業料を払って、先生が僕の勉強の面倒を見るという契約になってるわけですし。まさか、授業を放りだして付き合うわけにもいかないじゃないですか」

「なるほど。井上くんって、クソ真面目なんだねっ!」


 にっこり笑顔で、クソ真面目って言われた。立花先生、たまに毒を吐く系女子なのかもしれない。


「大丈夫だよっ。今日は初回だからこうやって脱線しまくってるだけで、次回からはちゃんと授業やるから! 私と付き合うのは、授業がないときだけで良いよっ!」

「なるほど、それなら良かっ……ん?」


 ちょっと待て。なんかさらっと、すごく自然な流れで、僕が立花先生とお付き合いするのが前提みたく話が進んでいるぞ。



「え、授業がないときには付き合うんですか?」

「? そうだよ?」

「恋愛的な意味で?」

「恋愛的な意味でっ!」


 ダメだ。小動物のように純真無垢な瞳で見つめ返されてしまった。本当に人を傷つけるのは悪意に満ちた言葉ではなく、悪意なく放たれる残酷な言葉だ。

 確かに、立花穂乃花は可愛い女性だ。小柄で愛嬌があってチャーミングで、一緒にいてすごく楽しい気持ちになれる女性だと思う。でも、「可愛い」と「好き」は別の感情だろう。立花先生は僕に一目惚れしてくれたようだけれど、少なくとも僕は初対面の先生を「可愛い」と思うことはできても、「好き」と確信することはできなかった。

 通常、恋愛感情はイベントの積み重ねによって発生する。いきなり生じたりはしない、らしい。僕は童貞だから、ぶっちゃけそこら辺の機微はよく分かんないけど!



「……年下の僕から見ても、先生は魅力的な女性だと思います。それは認めます。ただ、いきなり付き合うってことになると、まだ僕の気持ちの整理が追いつかないです。僕としては、もう少し時間をかけて結論を出したいなと思うんですけど、どうでしょうか?」


 結果、言葉を選びながらこう言った。


「良いよっ!」


 即答だった。が、続く台詞にはいくらかの迷いが感じられた。立花先生は視線をさまよわせ、もじもじしながら切り出す。


「……実は私ね、高校生のときに色々とやり残したことがあるんだ。それは、私一人でやり遂げるには困難なことなんだよっ。だからしばらくの間、恋愛的な意味では付き合わなくてもいいから、私がやり残したことをやり遂げるのに同行だけしてくれないかなっ? で、一緒に過ごす時間が増えるうちにもし私への気持ちが変わったら、いつか結論を出してほしい!」

「分かりました。同行だけで良いなら、引き受けます」


 先生にも何やら複雑な事情がありそうなのを察し、僕は二つ返事で承諾してしまった。承諾する前に「やり残したこととは何か」を聞いておくべきだったと後悔したけれど、後の祭りだ。

 そうこうしているうちに、だいぶ時間が経っていた。立花先生は「詳しいことは後で連絡するねっ!」と流れるような手つきで僕と連絡先を交換したかと思うと、今後の授業内容についての説明をパパッと済ませた。「次回からはちゃんと授業やる」というのは本当らしく、オンオフの切り替えが早い。


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