第1話(全36話) 趣味はジョギング
あたしは走っている時が一番幸せなのかもしれない。
走っていると余計なことを考えずに自分の身体を感じることができる。自分を感じたくてあたしはいつも走っている。
一緒に走ってくれるのはブラン。白いボサボサした毛並みの犬だ。ブランはいつもあたしが走るのについて来てくれる。一人で走るのも楽しいけど、二人で走るのも楽しい。
あたしが走るのは早朝。まだ空が暗い時から明るくなる時まで。漆黒の空が濃い藍色にかわり、だんだんと朱が混じって紫色のグラデーションが連なり、一時東の空が燃えるような朱に染まり、そして段々と青い空に変わってゆく。そんな時間に走るのが最高に気持ちいい。青と赤の入り混じる時間。暦によっては月の光と太陽の光が入り混じる時間。そんなはっきりとしない色を持つ時間が、あたしは好きだ。
王都の北の端、川沿いの城壁の上があたしの走るコースだ。そんなに長くはない城壁の上を、店を抜け出して城壁に忍び込んで走っている。この城壁は防衛施設としての役割を川向こうの城に譲ってしまってて、衛兵も置かれていない。この時間、城壁はあたしが走るためだけに存在しているようなものだ。
川から吹く風が気持ちいい。川が水と一緒に上流の山と森から運んでくる風が、あたしの身体から余計なものを吹き飛ばしてくれるようだ。森が恋しくない、と言えば嘘になる。あたしたちの種族は森とともに暮らしてきた。でもあたしは生まれてから一度も森で暮らしたことなんかない。それなのになぜこんなに恋しいんだろうか、不思議だ。実際に森で暮らしたらその不潔さ、不便さで、すぐに嫌になってしまうだろうに。
この城壁にはいくつか塔がある。半ば放置されてて廃墟と化しつつあるものもある。そんな塔の一つがあたしたちの休憩場所だ。この塔の上の方でいつも笛を吹いている人がいる。哀しい調べの曲だ。この時間、この世界にはあたしとブランとこの笛を吹いている人しかいないような幻を感じる。昼も夜も騒がしい王都だが、この時間、この場所だけは静かな笛の音だけが響いている。
誰が吹いているのかは知らない。知りたいと思わないんだ。客だったら気まずいしね。
じゃ、そろそろ帰らないと。抜け出したのがバレたらマダムに怒られちゃうからね。市場もそろそろ開くころだから、寄ってリンゴでも買って帰ろう。
女の子と男の子が一緒に冒険をして、魔王を倒して、結婚して、国を治める。そんなありきたりなことを夢見ていた。
家族は田舎の町で銀細工をしていた。その町でエルフはあたしたち家族しかいなかった。ほかにドワーフもグラスランナーもいない。あたしたち以外はトールマンだけの町だった。
おじいちゃんが森から出てきて、それ以来ずっとあたしたちはトールマンの社会で暮らしている。あたしもこの町で生まれ、森の生活なんかしたことがない。
エルフは生まれたところでずっと暮らす、なんてことはないから、おかあさんも若い時に家を出て、しばらくたっておとうさんをつれて戻ってきたそうだ。そしてあたしが生まれた。
種族的な特性で、あたしは魔法も弓も使える。魔法は習ったことがないから身の回りの多少のことだけだけど、弓は得意だった。あとおかあさんからエペを習った。これは細身の剣を使って、相手の攻撃を防ぎながら、隙をうかがって攻撃するという剣術で、あたしには素質があったようだ。でもエルフの成長なんてものは遅々たるもので、一緒に習っていたトールマンの幼なじみには一度も勝つことが出来なかった。彼はどこかの貴族の剣術師範になって、生涯を終えたらしい。
あたしはエルフで、トールマンとは違うと気づいたのはいつ頃だっただろうか。幼なじみの子どもたちが少年になり、青年になり、いつの間には好きだ嫌いだというようになり、嫌いだと言っていた同士も結婚して子どもを産んだり、その子ども大人になって家庭を持ったり……。
幼なじみがみんな老人になって孫に囲まれて死んでしまったあと、あたしは家を出た。追い出されたというのもある。そろそろ外を見てもいい頃だと。
あたしは女の子と男の子が一緒に冒険をして、魔王を倒して、結婚して、国を治めるというクリシェなことを夢見て、王都にやってきた。
大きな大陸の東側、真ん中におおきな湖がある。それを取り囲むようにして六つの王国があり、その一つの王国の首都にあたしは住んでいる。六つの国は円を描く街道で結ばれている。この街道とそれが繋ぐ国々は「女神様の首飾り」と呼ばれている。どんな女神様なんだか名前も知らないけど、トールマンたちはそう呼んでいる。
この世界にはいろんな人たちが住んでいる。やっぱりトールマンが一番多いけど、あたしのようなエルフやドワーフ、グラスランナー、ダック、ケンタウロスなんか雑多な人達がいる。荒野には危険なモンスターなんかが徘徊している。竜なんかも飛んでるし。
「国」なんか作っちゃうのはトールマンの特性だ。エルフやドワーフに「国」なんかという概念はない。家から追い出されたトールマンの男たちが集まって、その集団の内と外とで抗争して、世界を勝手に分割したのが「国」なんだと思う。でもトールマンじゃないあたしたちも「国」を便利に利用させてもらっている。
「国」の働きで面白くて便利なのは、あたしの住んでいる王都かな。ここはいろんなものが集まってくる。王様がいるってだけで、それに仕える貴族たちがやってくるし、その貴族に仕える人たちもやってくる。そうするとその人たちを養う物もやってくるようになる。人が移動し、集まったりすると噂話が生まれる。本当の話も胡散臭い話もあるけど、田舎の町出身のあたしには本当だろうと嘘だろうと、日々生まれては消えてゆくお話は刺激的だった。
この王国は地方の領主である貴族たちの寄り合い所帯のようなものだ。伯爵、城主、騎士たちが王様の権威に従っている。王様の権威の限界が王国の領域の限界で、確か今の所十一州ある。貴族たちは基本的に田舎の自分の領地にいるけど、王国の役職についているのは王都にいるし、何か行事があったりすると大勢押し寄せる。王都に屋敷を持ってるのもいるし、部屋を借りたり、城壁の外に天幕を張ったりするのもいるかな。
この王国の西部、国境近くに魔王が城を構えている。あたしが物心ついた時にはもういたから、五十年はたっている。魔王は数知れない魔物を率いているという話で、いつ侵攻が始まるかと人々は恐れながら暮らしている。この王国だけではなく、ほかの国々もいつ自分の国に魔王の軍勢がやってくるかと戦々恐々としている。この地には平穏な土地なんかないんだ。
でも皮肉なことに魔王城を抱えている王国の首都だということで、他の国からおエライさん方がやってきていて、それで繁盛している商売もある。人っていうのはたくましいよね。
あたしは王都の娼館で働いている。
都市っていうのは基本的に男性過多だから、都市には常にこういう店がある。女性向けとか男男用とか女女用とかも王都にはあるそうだけど、詳しくは知らない。
ここは王都だから、いろんな所から、いろんな人がやってくる。店の客も様々だ。それを毎日何人か相手している。いろんな客がいるし、いろんな噂話が聞けるからあきることはない。
エルフがトールマンの社会で暮らすのは退屈なんだ。寿命が長いから、トールマンが一生で経験するようなことは大体つまみ食いしちゃっている。いわゆるフツーの生活にはあきちゃっているんだ。この商売はいろんな他人の人生がかいま見れて面白い。
なじみの客で王都の衛兵をしているリュカというのがいる。この子は本気であたしに恋しちゃっている。女の子と出会う機会が少ないんだろうなー。そもそも王都に適齢の女の子自体が少ないし。娼館ってのは肉体的な欲求だけじゃなく、周りに女の子がいない都市の男たちの精神的な欲求を満たす役割もあるんだろうなー、と思う。だからあたしも時間を計る香が燃えている限りは可愛い恋人のフリをしてあげている。
「君が店の借金を返し終えたら、結婚しよう」
あたしは心の中で「あー、はいはい」とつぶやきながら、
「まあ、うれしい」
とか言っている。そもそもあたし、店からお金借りてないし、あんたのおばあちゃんより年上だから。
店にはいろんな事情をかかえた女の子がいる。カリーヌは家族の借金を返すためにここで働いている。西部の魔王の脅威が直接及ぶ地域の出身だ。彼女はあたしを「ジジ姐さん」と慕ってくれている。けなげでいい子だ。
この店は働きやすいところだと思う。女の子を借金漬けにしてずっと働かせる店もあるらしいけど、ここはそんなことはない。肩代わりしてもらった借金を返し終えて辞めていった子もいるし、お金を貯めて故郷に家を建てた子もいる。カリーヌの不幸中の幸いは、この店にたどり着いたことだろう。
うるさいことを言わないのもこの店の良いところだ。早朝店を抜け出して走りに行っても、バレなきゃ何も言わない。本当は知ってるんだろうけどね。あたしにとって居心地のいい場所だ。
あたしはやりたいことがある訳じゃない。他に稼げる技術がある訳でもない。お金を貯めて何かをしたいわけでもない。この仕事をしているのは誰かに必要とされている自分を感じていたいから? そんなことを考えたりもするけど、結局は流されるままにここにきて、その適度な刺激と居心地の良さに、惰性で浸りつづけているだけなんだと思う。