SGS034 暗示魔法を掛けてみよう
あれから40日が過ぎた。原野に狩りに出ることも無く、ハンターとしての訓練をすることも無いまま単調な日々を過ごしていた。
ただし無為に過ごしていたわけではない。こっそりと魔法の訓練だけは欠かさず行っていた。畑の中で作業しているときや、寝る前のベッドの中など、一人の時間だけを使って先輩以外の人に見咎められないよう用心した。
魔法の訓練にはラウラ先輩にも協力してもらった。魔法について相談に乗ってもらったり、使えるようになった魔法を見てもらったりした。その都度、先輩は色々とアドバイスをしてくれた。
一番の成果は魔法の名前だけで魔法を発動できるようになったことだ。最初のころは魔法を使うたびにいちいち頭の中で魔法のイメージを浮かべていた。でもそのやり方では効率が悪い。発動するまでに時間が掛かるからだ。だから魔法便覧に載っている魔法の名前だけで発動できるように訓練したのだ。
何度も魔法の名前とイメージを結び付けて訓練を続けることで、頭の中でその名前を唱えれば魔法を発動できるようになった。これで瞬時に、しかも立て続けに魔法を使うことができる。
使うことができる魔法は少しずつ増えてきたけれど、魔力はたぶん増えてはいないと思う。仕方ないことだが、魔力をフルパワーで使う機会は全くなかった。
………………
それと、呪いの研究も行った。自分のあの病気、つまり女性に対してムラムラする気持ちが起こると、体のコントロールを失ったり、気絶したりする病気についてだ。ラウラ先輩は「誰かに呪いの魔法を掛けられたんじゃないの?」と言ってる。
もし本当に呪いなら、なんとかして解呪しておきたい。だが今は自由に動ける身ではない。それで副長に頼んで調べてもらうことにした。
副長は「その首の噛み痕は呪いじゃないよ」とピント外れなことを言っていたが、強引にお願いして呪いのことを調べてもらった。
副長は知り合いに魔法の達人がいるらしく、その人から呪いの魔法ことを聞いてきてくれた。
「そいつが説明してくれたんだが、世間で呪いの魔法と言われているのは間違いで、正しくは暗示魔法のことだそうだ」
暗示魔法とはなにか。それは、術者が相手の潜在意識の中に何かの条件を植え込んでおけば、条件と一致した状態になったときにその相手が無意識に決められた行動を起こすという魔法だそうだ。その魔法は術者しか知らないパスワードでロックが掛けられていて、他の者が解呪することはできないらしい。古い魔法書に載っている凄く高度な魔法ということで、その達人が言うにはレングランの魔法ギルドには暗示魔法を使うことができる者はいないとのことだった。
その話を聞いて、まさに自分の症状にぴったり当てはまることに驚いてしまった。呪いじゃなかった。自分は誰かに暗示魔法を掛けられているようだ。
なんとかして解呪しなければいけない。いったいどうすれば……。
その方法を探るために、自分が誰かに暗示魔法を掛けてみて、それを解呪してみることから始めようと考えた。そんな高度な魔法を使えるのかどうか分からないが、暗示魔法が存在するのなら自分も使えるかもしれない。
その被験者としてリリヤ先輩を選んだ。あの日から口実を見つけてはラウラ先輩や自分に嫌がらせをしてくるのだ。リリヤ先輩には少し反省してもらおう。
まず頭の中で暗示魔法を使ってリリヤ先輩に何をさせるのか、そのイメージを描いてみた。誰かの歌に合わせてリリヤ先輩が歌いながら踊っているイメージだ。踊り始める条件は誰かが歌うことと、二人以上の手拍子が入ることにした。
隊舎では夕食のときはお酒を飲みながら、みんな、よく歌うのだ。サレジ親方もアンニもケチだから隊員に酒を振る舞ったりしない。酒はそれぞれが自前で持ち込んでいる。
夕食の後なら酔っぱらっている者が多いから、リリヤ先輩が歌ったり踊ったりしても気にする者はいないだろう。オレが暗示魔法を外すパスワードは「先輩って踊りがお上手ですね」という言葉だ。よし、さっそく試してみよう。
リリヤ先輩の後ろを歩きながら暗示魔法を掛けてみた。でもうまくいかない。手応えらしきものが感じられないのだ。数回やってみたが結果は同じだった。やはり高度な魔法は今の自分にはムリなのだろうか。
ちょっと自信を失いかけたときに、以前に副長から魔法のことを教えてもらったときに言われたことを思い出した。そのときの話によると、魔法の優秀な変換器を持っていても魔力が低ければ高度な魔法はほとんど成功しないらしい。だけどそれは、何度も魔法を試してみれば成功するかもしれないってことだ。よし、今度はリリヤ先輩が眠っているときに試してみよう。
ということで、深夜、リリヤ先輩の部屋に忍び込んだ。ラウラ先輩だけには何をするか話してある。ラウラ先輩は少し心配そうにしていたが、「仕方ないわねぇ」と言って許してくれた。
リリヤ先輩とロザリ先輩はそれぞれ二段ベッドの下側で寝ていた。念のため二人が起きないように眠りの魔法を掛けておく。そしてリリヤ先輩に暗示魔法を掛けてみた。失敗……。失敗……。何度やっても失敗ばかりだ。魔法に失敗すると、10秒間くらいすべての魔法が使えなくなる。百回目くらいに、ようやく手応えを感じた。
………………
翌日の夜。夕食後のことだ。レンニが自前の酒で酔っぱらって、ヘタクソな歌を唸り始めた。副長が手拍子を打つ。リリヤ先輩とロザリ先輩は台所で洗い物をしている。台所でもレンニの歌と手拍子は聞こえているはずだ。
お! スルホも手拍子を始めた。
台所でガチャーンと食器を落としたような音がして、リリヤ先輩が踊りながら食堂に入ってきた。後を追いかけてきたロザリ先輩は目を丸くしている。
リリヤ先輩は歌もちゃんと歌っている。両手を頭の上で振り、足でもリズムを刻んで、踊りながらテーブルの周りを回り始めた。まるで阿波踊りのようだ。
みんなは突然のことに驚いた顔をしていたが、そのうちリリヤ先輩の後に続いて踊り歌い始めた。さすがはヨッパライたちだ。事情を知っているラウラ先輩は座ったまま笑いを押し殺していた。みんなが嬉しそうに踊り歌っているので、自分もその輪に加わった。
なんだか久々に楽しい夜だった。1時間も踊るとさすがに疲れたのか、みんな踊りをやめて、歌も終わった。そこでようやくリリヤ先輩も踊りをやめて、床にへたり込んだ。
「先輩って踊りがお上手ですね」
リリヤ先輩の耳元で囁くと、リリヤ先輩は泣き始めた。
「わけが分かんないよぉ。踊りたくなんか、なかったのにぃー」
その後もみんなに踊りを褒められて、リリヤ先輩は複雑な顔をしていた。
これで辛うじて自分も暗示魔法が使えることが分かった。暗示魔法の使い方や効果も理解できた。しかし今の自分の魔力ではかなりハードルが高いようだ。この暗示魔法を使おうと思ったら、よほど相手が油断していて時間的な余裕がないと使えないことも分かった。つまり今の自分の暗示魔法はほとんど使い物にならない魔法ということだ。
それと結局、自分に掛かっている暗示魔法の外し方は分からなかった。
ともかく今は自分の病気が発症しないように、つまりこの暗示魔法が発動する条件に引っ掛からないように注意しよう。今できる対策はそれしかなさそうだ。
………………
数日後、副長が暗示魔法についての追加情報を教えてくれた。例の魔法の達人が暗示魔法のことを詳しく調べてくれたようだ。数年前に魔法ギルドで古い魔法書に記載されている高度な魔法の発動実験が行われたことがあって、暗示魔法もその実験対象になったらしい。実験には魔力が〈100〉以上のヒューマンロードとロードナイトが五人参加して、それぞれが魔法書に書かれている暗示魔法の呪文を詠唱した。魔法の発動は全員が失敗で、10時間ぶっ通しで詠唱を繰り返して誰も成功しなかったそうだ。その結果、「暗示魔法は古い魔法書の中だけに出てくる幻の魔法で今は誰も使えない」という結論に至ったとのことだ。
暗示魔法はたしかに難しい。自分も成功するまでに30分くらい掛かった。リリヤ先輩に暗示魔法が掛かったのは偶然だろうか。それとも自分が特殊なのだろうか。
………………
原野から戻って40日以上の日が過ぎて、もう一つはっきりしたことがあった。自分にもラウラ先輩にも生理が来ないことだ。特にラウラ先輩は軽いつわりが始まっていたから妊娠は明らかだった。
妊娠が分かった後もラウラ先輩は気丈だった。それだけベナドのことを強く慕っているのだろうし、心の整理もできているのだろう。それは女としての覚悟のようなものかもしれない。
そんな先輩の姿を見ていて、自分も落ち着いた気持ちを保つことができた。
そうは言っても不安なことはたくさんあった。奴隷に落とされて売られてしまうことはもちろん不安だったし、将来が見えないことも気持ちを暗くした。
それよりも一番気がかりなことは、自分の首に付いたボドルの印がいつ消えてしまうか分からないことだった。頭の中に霞がかかったような感じはずっと続いていた。たぶんボドルの催淫効果が続いているのだろう。この印が消えたらどうなるのだろうか……。
先輩や自分が落ち着いた気持ちで居られるのは催淫効果のせいもあるのだろうが、印を通してベナドやボドルの存在感をいつも感じているからだろう。それが消えてしまったら気持ちを支えていた拠り所が無くなってしまう。そのとき自分はどうなってしまうのだろうか。
先輩にも自分にも首筋の噛み痕はまだしっかりと残っていた。普通の傷であれば40日もあったら癒えて消えてしまうはずだ。それがしっかり残っているということは、ボドルたちの唾液に印を保つための特殊な効果があるからだ。
先輩には印のほかにもう一つ素敵な拠り所ができていた。お腹の中の赤ちゃんだ。先輩と同じように自分にも生理が来ない。と言っても、女としての経験が無いに等しいから生理が遅れているだけなのか、それとも妊娠しているのかが分からない。
あのときボドルは種付けはしないと約束してくれた。でも自分のほうから強く求めてしまった。排卵日とかは分からないけれど、生理が来ないということは自分も妊娠している可能性が高い。
妊娠を疑って、実はかなり前から検診の魔法を使って自分の体を調べている。でも妊娠の兆候はキャッチできなかった。妊娠していないのか、それとも赤ちゃんが小さすぎて自分の魔法では捉えきれないのか……。
赤ちゃんが居てくれたら……うれしい……。そう考えている女の自分がいる。少しずつ育っていく女としての気持ちが怖い。言い訳はしたくないが、ボドルの催淫作用は自分の体に女の本能を目覚めさせた。もう一方では逆に、自分の心に霞をかけて、男としての魂を少しずつ浸食している。そんな気がする。
これは本当の自分じゃない。元の自分を取り戻さなきゃ……。そんな気持ちがときどき湧き起こってくるが、女としての何かがその気持ちを上書きしていく。
それは、ケイという女性の体と、ケイだった自分の魂が一つに融合しようとしている。そういうことなのかもしれない。
………………
実はさっき、サレジ隊長が護衛の旅から帰ってきた。ラウラ先輩と自分は部屋で待機するように言われている。たぶん隊長はアンニと副長から報告を受けたはずだ。長い時間、部屋で待たされた。そしてまず先に先輩が呼ばれた。
※ 現在のケイの魔力〈60〉。




