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SGS286 想いは色あせない

 ――――――― 鈴川将史すずかわまさし ―――――――


 マルが「ワンワン」と吠える声で目の前に立っている女性に気が付いた。マルはその女性に遊んでほしくて吠えているようだ。


 誰だっけ? そう思って目を凝らしたが、薄暗い木立の中に差し込む光が眩しくて、女性のシルエットが見えるだけだ。


「可愛いですね。マルチーズですか?」


 問われて思わず頷いた。また、ぼんやりと考えごとをしていたようだ。マルを散歩させながらこの神社まで来て、ベンチに腰掛けてぼーっと過ごすことが多くなった。


 この神社は樹木に囲まれているためか、街の喧騒がほとんど聞こえてこない。今のような朝の時間帯は境内には誰もいない。ベンチに一人で静かに座っていられる。できれば僕のことは放っておいてほしいのだが……。


 1年前に重い病気に罹ってしまった。子供たちを教えることが自分の天職だと思って教師を続けていたが、病気でそれも無理になり、勤めていた学校を辞めた。ペットが飼えるワンルームの賃貸マンションに引っ越して、それまで住んでいた家は止むなく売り払った。その家は父親から相続したもので、両親や妻との思い出が詰まった家だったが、生活費と病院に支払うお金を確保するためには止むを得なかった。


 しかし、生きていられるのもあと数か月か、長くて半年くらいだろう。痛みが酷くなってきたからだ。


 病気が見つかったときは既に手術ができない状態だった。医者からは諦めずに治療を続ければ少しでも長く生きていられると言われたが、治療は受けないことに決めた。辛い思いをして生きながらえる理由が無いからだ。


 僕を心配してくれる家族は誰もいない。両親は早くに他界し、妻は6年前に行方不明になったままだ。テレビでは異世界に行ってしまったとか言って騒いでいたが、おそらく死んでしまったのだと思う。僕が死ねば、あの世でまた最愛の妻に会えるのだ。


 数日前にホスピスに入院する手続きは済ませた。ベッドが空いたら連絡をくれるはずだ。マンションの部屋もいつでも退去できる状態になっている。後はホスピスで静かに旅立ちのときを迎えるだけだ。


 ただ、一つだけ気掛かりなことがあった。マルのことだ。貰い手が見つかっていないのだ。


 僕も妻も犬が大好きだった。7年前に子犬を妻の友人から貰い受けて家の中で一緒に暮らし始めたが、その1年後に妻は行方不明になってしまった。僕たちに子供はいなかったから、今ではマルが子供のような存在になっているのだが……。


「何歳ですか?」


 女性は遠慮なく話しかけてきた。僕は体を竦めて、声を掛けないでほしいという気持ちを表しているのだが。


「マルの年齢? 7歳だよ」


 いつの間にか女性はしゃがんでマルの耳元を撫でている。マルは人と接するのが好きで、相手が初対面の人でもシッポを小刻みに振りながら愛嬌を振りまく。今も気持ち良さそうに目を細めている。


「マルという名前なんですね。7歳、ですか……」


 女性はしゃがんだまま僕を見上げていて、目が合った。今は顔がはっきりと見える。初めて見る顔だ。


 美人。小顔。可愛い。18歳くらいか?


 いくつかの単語が頭に浮かんだが、女性はその言葉だけでは表せない雰囲気を纏っている。それはこの女性が醸し出す不思議なオーラのようなものだ。


「犬が好きなの?」


 若い女性と話をするのは久しぶりだ。少し興味が出てきた。こんな僕でも、まだスケベ心が残っているのかな。


「ええ。わたしのところにもコタローという名前の犬がいるんです。ダックスフンドで可愛いですよ。ちょっと生意気ですけどね」


 女性の優しい微笑みが眩しい。


 撫でていた手を女性が休めると、マルは後ろ足だけで立ち上がってお願いのポーズを取り始めた。後ろ足でぴょこぴょことバランスを取りながら、短い前足を拝むように合わせて上下させ相手におねだりをしている。これをされると誰でもイチコロだ。


「わぁーっ、かわいぃーっ!」


「マルはね、もっと撫でてほしいってお願いしてるんだよ」


「へぇーっ、賢いんですねぇ」


 そう言いながら女性はまたマルを撫で始めた。


 そうだ。もしかすると、この子ならマルを貰ってくれるかもしれない。


「お願いがあるんだけど……」


「はい?」


「このマルを……、貰ってくれないかな?」


 言葉に出すのに勇気がいった。涙が出そうだ。マルと別れたくない。


「なんだか突然……、ですね。理由を聞いていいですか?」


「そうだよね。初対面なのに、変なお願いをして驚かせてしまったよね」


 女性が頷くのを見ながら言葉を続けた。


「実はね、僕の命はあと数か月なんだ。病気が悪化して手術もできないような状態になっていてね。もうすぐ入院する予定だけど、このマルを引き取ってくれる人がいないんだ。だからと言って、マルを保健所に連れていくなんてことは絶対にできない。僕にとってマルは子供みたいなものだからね……」


 自分の言葉にまた涙が出そうになった。


「それは……、なんて言っていいのか分からないですけど……。ご家族は?」


「家族はいないんだ……。いや、妻はいるけど、6年前に行方不明になってしまってね。マルも妻に一番懐いていたんだけど……」


「行方不明の奥さんのことは今でも捜しているんですか?」


 やけに立ち入ったことを聞いてくるんだな。一瞬そう思ったが、この女性に対してなら何でも本当のことを話して大丈夫だと思い直した。なんだか昔からの友人と話しているような親近感と安らぎを感じている。


「自分が病気だと分かってからは捜すのを諦めたよ。いくら捜しても何の手掛かりも掴めないし、病気のせいで体を思うように動かすことができなくなってきたからね。おそらく妻はこの世にはもういないと思う。僕はね、自分が死んだら妻とまた会えると思ってるんだ。だから、死ぬのは怖くない……」


 ウソだ。そう考えないと、死ぬのが怖すぎるのだ。


「まだ奥さんのことを愛してるんですね」


 愛してるとか、そんな言葉で妻に対する自分の気持ちを表したくない。


 マルは僕の足元で仰向けになってお腹を見せている。そのお腹のモフモフの毛を女性の手が優しく撫でていた。


「そうだ。これを見てもらえるかな」


 そう呟きながら肩に掛けていたバッグからクリアファイルを取り出した。その中にA4サイズの写真が入っている。妻と僕が仲良く並んでいる写真だ。妻はマルを抱きかかえて写真の中でにこやかに微笑んでいた。


「病気になる前は休日になると妻を捜して歩いていたんだ。妻を見なかったかと人に尋ねるときにね、この写真を見てもらって……」


 写真を見せようとすると、女性は立ち上がった。


「隣に座ってもいいですか?」


 僕が頷くと、女性は隣に座って写真を覗き込んできた。気のせいかもしれないが、微かに何かの花の香りがして、体が暖かくなったような気がする。


「優しそうな方ですね。でもこの写真、なんだか古い感じがしますけど……」


「写真を撮った日にパソコンのプリンターで印刷したんだけどね。もう6年以上も前のことだから、色があせてしまって……。安物の紙やインクを使ったせいだねぇ。ほら、撮影した日付と場所がここにメモされてる。見えるだろう?」


 僕は写真の片隅を指差した。写真の余白にボールペンで書いた可愛い字が並んでいる。


「妻が書いてくれたんだ。忘れないようにってね。写真が色あせたんで、印刷し直してもいいんだけど、この文字が入った写真を捨てるのが忍びなくてね」


 妻への想いが込み上げて来て、涙声になりそうだ。


「写真は色あせても、奥さんへの想いは色あせないってことですね……」


 女性の言葉に思わず頷いた。さっき会ったばかりの相手なのに、どうしてこんなに素直な気持ちになるのだろう……。


「自分の気持ちは変わっていないし、妻のことは片時も忘れたことはないのにねぇ。この写真だけが色あせていくんだよ。それがなんだか悲しくてね……」


 不思議なことだが、この女性に対しては自分の気持ちをありのまま話してしまいたい。


「この写真はね、妻が行方不明になる前の日にね、近くの公園へ散歩に行って誰かに頼んで撮ってもらったんだ。そのときは、まさか突然にいなくなってしまうなんて、考えてもなかったからね。行方不明だと知ったときは何日も何日も必死に捜しまわったよ。それこそ気が狂いそうになるくらいに……」


 そう言って女性の方を向くと、女性は目に涙を浮かべていた。


「どうして君が泣くの?」


「すみません。お話を聞いていて、つい昔のことを思い出してしまって……。わたしも大切な家族を突然に亡くしてしまったんです。交通事故で……」


「ごめんよ、悲しいことを思い出させてしまって……。でも、君は優しい人だね。僕の話を聞いて泣いてくれるなんて……」


 そう言いながら自分の気持ちが穏やかになっていくのを感じていた。なんだか分からないが鬱積うっせきした怒りや不安が消えていき、安らぎが心の中に広がっていく。


 女性は涙を拭っていたが、少し躊躇ためらうような素振りで口を開いた。


「お聞きしたいことがあるんです。不躾な質問だと思いますけど……」


「うん?」


「もし奥さんと会えるとしたら、どうします? 会いたいですか?」


 興味本位の質問なら怒り出すところだが、この女性はそんな軽い気持ちで尋ねているのではなさそうだ。


「そりゃ会いたいさ。今すぐにでも妻のところへ会いに行きたいよ」


「そうですか。良かった。あなたの気持ちが奥さんと同じで……」


 女性の言葉に違和感を覚えたが、急に眠くなってきた。眠くて眠くて、目を開けていられない……。


 ………………


「大丈夫ですか?」


 女性の声で目を開いた。


「どうして……、僕はここに……?」


 いつの間にかマンションの部屋に戻っていた。自分の布団に僕は横たわっていて、枕元に女性が座っていた。神社で出会った女性だ。


「眠そうな様子だったので、わたしがここまで送って来ました」


 そう言われても、どうやって部屋まで戻ってきたのか思い出せない。たしか……、神社でこの女性に妻の写真を見せて話をしていたときに突然の眠気に襲われたのだった。覚えているのはそこまでで、その後のことは完全な空白だ。病気で頭までおかしくなってきたのかもしれない。

 

「ごめんよ。迷惑を掛けてしまったね。急に眠くなってしまったんだ。たぶん、病気のせいだと思うけど……」


 そう言いながら起き上がって布団の上で胡坐をかいた。


 マルが床に敷いた毛布の上に寝そべっていて、僕の方を心配そうに見ている。


 あぁ、そうだった。この女性と大事な話をしていたのだった。


「それで、マルのことだけど……」


「マルはあなたと一緒に暮らすのが一番幸せだと思いますよ」


「いや、僕にはもう時間が無いんだ。さっき話したように……」


「時間はたっぷりありますよ。もう体の痛みは感じないでしょ?」


 言われて気付いたが、たしかに痛みが消えていた。


「体も軽くなったように感じるはずです。立ち上がったら分かりますよ」


 何かのトリックだろうか……。


 ちらっとそんな思いが横切ったが、言われるまま立ち上がってみて驚いた。


 本当に体が軽くなっている。と言うか、ずっと続いていた気だるい感じが消えているのだ。


「これは……」


 驚きで言葉が出て来ない。


「魔法です。あなたの全身にヒール魔法を掛けましたから」


「ヒール魔法?」


 ゲームに出てくるような言葉だ。そんな馬鹿な話があるはずがない。やっぱり何かのトリックか、それとも催眠術だろうか……。


「わたしはあなたの奥さんの願いを受けて、あなたを迎えに来たんです」


「僕を……、迎えに……」


「ええ。そうです」


 ああ、そういうことか……。これはトリックでも催眠術でもない。遂にそのときが来たんだ。


 まだ数か月は生きていられると思っていたが……。


「もしかすると、あなたは神様? いや、死神……、ですか?」


 妻が僕を呼んでくれている。心の底から喜びが込み上げてきた。


 冥土からのお迎えが来た。妻に会えるんだ。


 ※ 現在のケイの魔力〈1306〉。

 ※ 現在のユウの魔力〈1306〉。

 ※ 現在のコタローの魔力〈1306〉。


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