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対局前日。
会場である湯川グランドホテルに俺たち三人は来ていた。美しい大型の日本庭園があるそこは和風のホテルで、温泉も源泉掛け流しだ。
温泉に入れない京司郎には申し訳ないが、俺と類瀬博士はゆっくり湯に浸からせてもらうことにした。
「主殿! 湯加減はどうでしたか?」
温泉の出入り口前で待っていた京司郎が、飼い主の帰りを待ちわびていた犬のように駆け寄って来た。
黙っていれば浴衣の似合う和風美男子だというのに実に残念だ、と内心で苦笑する。まぁ、そこが可愛いのだが。
「うん、気持ちよかったぞ。ごめんな、お前は入れないのに長湯して。というか、部屋で待っててよかったのに」
「そうはいきません。浴室内で主殿が襲われた時に誰が守るというのですか!」
「温泉で襲われるなんてことあるわけないだろ」
よっぽどの恨みを買っていたらあるかもしれないが、俺は人を恨みはしても人に恨まれるようなことはない。
「類瀬博士は?」
「先に部屋に戻られました」
「博士はやっぱり早いなぁ」
自分も長風呂するタイプではないが、類瀬博士はさらに早い。こうして対局前日に会場入りしてホテルの温泉に入ることもしばしばあるが、彼女より先に風呂から上がったことはなかった。
「じゃあ俺達も部屋に戻るか」
「そうですね。戻りましょう。もしよろしければ部屋であん摩を致しますよ」
「ああ、じゃあ頼――」
「あ、譲ここにいたんだ。探したよー」
部屋に戻ろうとした俺達を呼び止めた声に反射的に足が止まった。
この声は振り返らなくても分かるが、名前を呼ばれてしまったので無視するわけにもいかない。というか、無視して逃げたところで奴は地の果てまで追いかけてネチネチと名前を呼び続けるくるだろう。そういう奴なのだ。
俺はのろのろと振り返った。
「あー……、久しぶり、ユキヒロ」
そこには、将棋界の貴公子の名は伊達ではないと思わせる輝きっぷりの伊大知征弘九段――ユキヒロが立っていた。茶髪にピアス、そしてだらりとした佇まい。とてもその見た目はプロ棋士とは思えない。
「久しぶり。相変わらず疲れた顔してんね。とても風呂上がりとは思えないや」
ユキヒロは小馬鹿にするように笑って、右手に持った奴の好物である抹茶ラテをちゅーとすすった。
「はは、ははは……」
さっきまでは温泉で心身共にリフレッシュしていたはずなのだが、嫌いな人間の威力とはすごいものだなと感心する。
「というかちゃんと髪乾かさないとだめじゃん。昔からそうだよね。だから髪いつもボサボサなんだよ」
そう言って伸びてきたユキヒロの手は、俺の前でパシッと乾いた音を立てて払われた。
「主に触るな、この下衆が」
「相変わらず鬱陶しいねぇ。この犬ロボ」
敵意を露わにした鋭い目で睨みつける京司郎に、ユキヒロは肩を竦めた。
「犬ではない。貴様はついに犬と人の区別もつかぬほど愚昧なったか。よくそれでプロ棋士が名乗れるものだな」
「わぁ、さすがだね。冗談が通じないこの感じ、いかにもアンドロイドって感じ。だから俺に一度も勝てないんだよ」
「……貴様をここで殺して不戦勝ということもできるがどうする?」
「ちょ、おまっ、ストップ、ストップ!」
敵意が殺意に進化した瞬間を目の当たりにして俺は慌てて間に入った。
「京司郎! こいつの煽りに乗るな! 相手の思うつぼだぞっ」
「す、すみませんっ。ついカッとなってしまい……」
目を尖らせて注意すると、ついさっきまで撒き散らしていた殺気を霧散させしゅん、と項垂れた。
「はは、犬の躾も大変だね。これを躾けるより譲が将棋した方が俺に勝てるんじゃないの?」
「……ッ、お前がそれを言うか!」
ユキヒロの煽りに乗るなと注意したそばから、今度は自分が奴の無神経な言葉にカッとなった。
実は言うと、俺もかつてはプロ棋士を目指していた。父、祖父、そして兄、弟もプロ棋士の将棋界では名の知れた名家でもある。
父や祖父、兄の将棋を指す凜とした姿に憧れて、自分もいつかプロ棋士になると夢を見ていたのだ。
ユキヒロとは、祖父同士がプロ棋士で仲が良かったため、よく昔は一緒に将棋を指していた。その頃の俺はユキヒロと同じくらい、いや少し強いくらいでもあった。
だが、俺は極度のあがり症で、本番では緊張のあまり実力の半分も出せなかった。それでもプロ棋士を目指して頑張っていた。
しかし、その健気な頑張りは、十歳の時の奴との対局で崩壊した。
あまりにもトラウマ的な出来事なので仔細を話すことは憚られるが、端的に言えば緊張のあまりトイレが近くなり対局終盤で漏らしてしまったのだ。
もちろん対局中でもトイレに行くのは自由だ。しかし、席を外せば自分の持ち時間が減る。下手すれば時間切れとなってしまう。当時の俺はついに弟に級位を抜かされ焦っていた。だからどうしてもその対局で勝ちたかったのだ。
なのにユキヒロは自分の持ち時間をギリギリまで使い、対局の時間を長引かせた。考えるまでもない時でさえ、焦らすように熟考した。
それがわざとでることに気付いたのは、俺が漏らしたと同時に、獲物のかかった蟻地獄を見下ろすような嬉々としたその目を見た時だった。
そして奴はこう言った。
『今度、俺がおむつをあててあげようか?』