追放された彼女はアイドル?
しめやかに、拍手と共に始まった。黒いドレスをまとい、金色の髪を一くくりにしたエリスは、硝子細工に見える靴を軽く鳴らした。それから深々とーー貴族らしい優雅な礼。
照明が髪の上を踊るーー照らし出し、流れ落ちる。鏡のように、光をステージに振り撒きながら、彼女は指先までぴんと伸ばした。すう、と小さく息をしたのがわかる。
意を決して、崖から飛び降りるような悲壮さで、彼女はステージを足で撫でた。かあん、と音が突き刺さる。上体を微動だにせず、鎚で石を彫るように、彼女は空間に自分を刻み込もうとしていた。
舞うような、刺すような、悲鳴のような踊り。
それを、特等席で。
黒髪の貴族が、頬杖をついて見守っていた。
舞台を降りた少女は、晴れ舞台とはまるで逆のごみごみとした裏方に引っ込んでいた。今にももぎ取れそうなドアの前に、大男が仏頂面で立っていた。厚かましい闖入者を追い返すための盾である。
「クラウスが来たと、伝えてくれ」
黒髪の貴族は、これ見よがしに花束を掲げた。大男は無言でねめつけた。空虚な笑みに、僅かに穴が空く。
「クラウスなど、知らんね」
男はつるりと顔を撫で回して言った。はちきれんばかりの体躯に小さな蝶ネクタイが滑稽である。
「私は、エリスに会いに来てーー」
「先日もそういう輩が来ていた。俺がマナーを教えてやった。あんたもマナーが必要か?」
さすがに、黒髪の貴族が気色ばんだ。
「無礼な。こともあろうに、私にマナーを教えるだとーー」
「下町には下町の流儀があるんですぜ、殿下」
急に言葉を崩して、おどけたように肩をすくめる。クラウスは押し退けようとして踏み込んだ足で、たたらを踏んだ。
「だが、私は一国の王子だ。そして彼女は、追放されたとはいえ、臣下である。どうして私の命令を断ることができる?」
「殿下」
大男は不自然なくらいに優しい声で言う。
「あんたは王子だが、あんたの軍隊は今ここにやってこられるかね。一方で、エリスはここの女王だ。そして、命令があろうとなかろうと、彼女のために喜んで礼儀知らずを叩き出す男たちが下町中にいる」
そういって、大男はじろりと王子を見下ろした。
「あんたが追い出した女は、そういう女だ」
クラウスは、聞こえなかったことにした。
ややあって、クラウスは無事、エリスの楽屋に入ることができた。
大男が皮肉たっぷりに、
「クラウスという男が来ています」
と言えば、
「殿下を通してあげて」
と彼の来訪を予期していたように、返事をして、用心棒はその場を一歩避けた。
物は多いが、整った部屋だった。部屋の中だけこまめに手入れをしているように、壁紙は貼り直されている。机は補強されていたが、その痕は一見してわからないようになっていた。
エリスは立って、彼を待っていた。
「お久しぶりですね」
「ああ。……元気そうで、何よりだ」
クラウスは言葉を選びながら、近くにあった椅子を引き寄せる。
「先程のダンスを、見させてもらった。君が、あのような踊りができるとは、知らなかった……」
「殿下にはお見せしていませんので」
それに、と口許を扇子で隠しながら、劇場の女王は笑う。
「あの頃殿下は私ではなく、他のひとを追っていたのではなくて?」
その瞬間、クラウスの脳裏に当時の情景が色鮮やかに思い出された。
鬱陶しいと思っていた許嫁。
自分の周りにいない、聖女の肩書きを持つ少女。
聖女がほしいからこそ、事あるごとに自分に小言をいうエリスを、難癖をつけて国から追い出した。
皮肉にもそれが理由で聖女からは見限られた。高嶺の花は手に入れることができぬまま、神殿の中へと消えた。
しかし、ここに来てまで思い出されるのは、聖女メリルとの甘い恋であり、エリスの事はまったくと言っていいほど記憶にない。
それでも、ここに来たのは過去の汚点を拭うためだ。クラウスは息を整えて口を開いた。
「私の進退が危うい」
「と、いいますと」
「弟がいる。やつを利用しようとする輩が、些細な瑕疵を基に、国を割ろうとしている。お前の父親はまだ、態度を明らかにしていないが……」
「父は政を担っています。ゆえに、王家の決定には不介入を貫いています。どのような決定がなされても、父はそれを受け入れるでしょう」
「義理の息子になったかもしれない男を、見捨てるような真似をするというのか?」
「逆に言えば、王家の決定とあらば娘を追放した男にも忠誠を誓うと言えます」
「だがそれは、私が無事に王位を継承したらの話であろう?」
「でしたら貴方も、義理の息子などではなく赤の他人ということになります」
エリスが淡々と事実を突きつける。クラウスは言葉に詰まった。
「……意地を張っていないで、母国に帰らないか。私が口利きしてやる」
「追放された女が、追放した男に手を引かれて帰ってくるのはあまりにも風聞がよろしくありませんわね」
なにより、とエリスが扇子を畳む。
「私はこの生活が気に入っております。心配していただかなくても大丈夫ですわ」
「こんな生活がか?このおんぼろの生活が?王族に敬意も払わない、野蛮な奴らと一緒にいたいと?」
「私の踊りを見てなにも思われなかった殿下には、ご理解いただけないとは思います。ですが、私は幸せなのです。殿下のお心遣いは感謝いたします」
「踊りだと?あんなものが何になる?」
クラウスは拳を手のひらに叩きつける。
「庶民の前で媚を振り撒いて、娼婦のように体を見せびらかしてその日の金を稼ぐ。それが貴族の、我が国の品位を下げているとなぜわからないのだ!?」
「彼らが見たいのは私ではありません。私の想いや見てきたものを、異なる言葉で理解しようとしているのです」
初めてエリスが感情を顔に出す。それは、憐れみであった。
「殿下は芸術を知識で知っていても、芸に宿る心や魂をご理解できないのですね」
「なんだと……?」
「国を追われた私を救ってくれたのは、父が教えてくれた芸と、表現への誠実さでした。私は父に、何ら恥じることなく顔向けできます。そうして心が繋がっている限り、そのこころを踏みにじる貴方の手はとれません。お引き取りください」
クラウスはじっと唇を噛んだ。瞳は細められ、少女を睨んでいるようだった。
やがて彼は踵を返した。
エリスは、小さくステップを踏んだ。吐息のように小さな音がした。