偽と善 後編
足を挫いてバランスを崩すも、猫西の手は部長の両足に届いた。警棒で引きはがされそうになり、執拗に絡みつき、止めをさすように足に噛みつく。部長は叫び、暴れた。
長い前髪が揺れ、前髪の奥に潜む黒目が外の世界にさらされる。
部長は、死体のように微動だにしなくなった。
ふたり仲良く地獄に落ちようではないか。きっと難なくたどり着ける。積み重ねた罪の重さで、沈むのはあっという間のはずだから。
猫西が小さく笑ったとき、ぷつ、と意識が途切れた。
〇
猫西は、動物保護団体ひまわりの施設を訪れていた。
出迎えたスタッフは目を見開いているのが見えた。足を引きずりながら、顔面には包帯、腕のあちこちには湿布等が貼られているので仕方ない。
スタッフに案内された応接間は、保護犬や保護猫がのびのびと過ごせるスペースでもあった。
もっとも、猫西は犬猫に目もくれなかった。ソファーに浅く座り、これから話すことをブツブツと復唱する。
ひとりの女性が入ってきた。彼女は望田といい、保護部と連携している動物保護団体ひまわりの代表者だ。
「このたびは申し訳ございませんでした。部の活動停止の原因に関与した者として、本日は謝罪に参りました」
ふらつきながらも席を立ち、深々と頭を下げた。
望田は「いやいや!」と首を横に振った。
「猫ちゃんたちを守ってくれたんでしょう。ありがとうございました。さあ、顔を上げて。座ってください」
望田がソファーに腰かけたあと、猫西も座った。それでも申し訳なくて、顔を上げることはできなかった。
「僕はなにも……。それよりも、フクは無事でしたか。部長から暴行受けてた猫なんですけど」
「フクちゃんは骨折していましたけど、治ればまた歩けるようになるみたいです。治るまでは念のため、こちらで保護していますよ」
「そうですか」
「別の部屋で安静にさせています。見ていかれますか?」
「はい」
足を引きずりながら歩く足音は不規則で、望田が何度も立ち止まっては振り返ってくれる。
望田は隣の部屋の扉を指差し、そして手招いた。
恐る恐る外から部屋の中を覗いた。
フクはギプスをつけているものの、ケージの中で静かに眠っていた。
猫西は安堵のため息を吐く。やっと呼吸ができたような気がした。
事件後、猫西は大学病院に搬送された。
意識を取り戻し、警察官の話でわかったのは、部長のその後だった。
部長は通行人の学生に発見されて逃げたが、幸いにも同学年の間で有名人だった。通行人の学生も保護部の部長だとわかり、すぐに特定されたという。
一部容疑を認めたうえで、部長は示談交渉を希望したという。示談交渉を受け入れると、概ね加害者の謝罪と入院費等の支払いによって事件解決となる。
部長の罪は重い。暴行を繰り返していると自白していたし、計画性もある。ただし、事件を見ていたのは猫西だけ。証拠が少なくて罪に問われないかもしれない。
悩んだ末、猫西は示談交渉を進めてフクの安否確認を優先した。今ここにいられるのも、そうした手続きが一段落したためであった。
「本当にありがとうございました」
「保護部の皆さんが動いてくれたようです。あっ、保護部は大丈夫ですか? なんだか活動の継続が厳しいと聞きましたけれど」
望田の問いに言葉が出ない。
保護部は実質の解体状態であった。二週間の活動停止ののちに再開したが、トラブルが絶えない。
大学猫を連れだす者。
部内外で起きている誹謗中傷。
傷ついて辞めた者。
幽霊部員になった者など。
それでも大学猫の世話に部の問題は関係ない。あってはいけないとも、猫西は思う。
「今建て直しているところです。望田さんにご心配おかけしてすみません」
軽い笑みで誤魔化した。
「いいんですよ。部活の皆さんにはいつもお世話になっていますし、何かあったら言ってくださいね」
「ありがとうございます」
動物保護団体ひまわりの訪問から帰ったあと、猫西は奔走することになる。
大栗の不在と副部長の失踪により、部を仕切る者がいなくなったのだ。
保護部はバラバラになり、猫西が単独で保護活動を行いはじめた。
それも限界を感じると、保護部の建て直しから大学猫の里親探しに切り替えた。
しかし、簡単ではなかった。
まず里親が見つからない。ひまわりの協力もあり里親希望者は見つかりやすかったが、当日キャンセル、大学猫が新しい家に馴染めず返されるなどの問題が立ちはだかり、思うように進まなかった。
目まぐるしく時間が過ぎ、季節は期末試験を受ける頃になっていた。
試験を終えた猫西は、大学キャンパス内のベンチに背を預ける。
「単位、よくて三分の一。下手したら全滅かな」
全滅すれば、留年危機である。
木々の揺れる葉っぱの音が憂鬱な頭に沁みる。外気は、冷房の効きすぎた教室で冷えきった体によく効いた。
心地よさに眠りたくなったが、己を奮い立たせてスマホを起動させた。里親希望者の連絡を確認する。
そのとき、ふいに視線を感じた。
木陰でフォース――ハチワレの老猫――が青い瞳を光らせていた。入部してはじめてご飯をあげた大学猫であり、現在里親が見つかっていない大学猫でもある。
おさまらない動悸をそのままに、猫西はリュックの中からおやつを探した。
そのとき、ひとりの女子大生が近づいてきた。
「猫西先輩、お久しぶりです」
「……大栗?」
大栗は隣に座り、足を組んだ。ロングスカートから細い足首と適度に肉のついたふくらはぎを覗かせた。
「久しぶり、だな」
「最近、大学猫がいなくなってるのは猫西先輩の仕業ですね」
「仕業ってほどでも。里親になるって言ってくれた人のもとに連れていってるだけ」
「新たに猫サークルを作ったんです。余計なことしないでください」
「サークル? 聞いてないけど」
「当然です。今はじめて話しているので」
大栗のブラウンの瞳に怒気が多分に含まれていた。
猫西の肩に力が入る。
「わたしは保護部の偽善活動を終わらせ、クリーンで、大学猫を第一にした活動を目指します。保護部を取材してくださった田丸さんと協力し、猫サークルを立ち上げました。猫サークルでは部長をはじめ、部長に賛同、協力した部員は入れてません」
「……そういうことか。保護部の部長と賛同者を追放し、グレーの僕を窃盗罪に仕立てあげる。それで猫サークルと保護部を完全に切り離せる。地域誌との連携は、周囲の人間から支持を得るため。特に地域との連携にコネクション作りはマストだしな」
今回の件で部員の半数以上が退部もしくは幽霊部員となり、活動が立ち行かなくなった。それも猫サークル立ち上げの演出だったのだ。
恨む気はない。今さら保護部を建て直そうと思わない。里親探しも、これ以上は難しい。
「悪くないんじゃないの」
素直な感想だった。
大栗は表情を曇らせ、罰が悪そうに視線を外した。
「猫西先輩については意見が割れたんです。わたしは反対しましたよ。だって被害者じゃないですか。サークルには先輩を入れないことを条件に黙ってもらいました」
「……」
「いいですか、猫西先輩。保護部はなくなります。猫サークルがすべて引き継ぎます。それでもやめないなら、次はサークルの代表として対応せざるをえません。でも、正直、猫西先輩には自由になってほしいんです。あんな屑たちとは違いますから」
「…………馬鹿ほどよく喋る。善人気取りか、え? 頼んだ覚えねーよ」
猫西は吐き捨てるように言った。誰彼も被害者扱いしてきて反吐が出る。
ちらりと横を見る。大栗はすでにいなかった。
「相変わらず、どうかしてる」
恥ずかしさが込みあげて口を引き結んだ。
仰ぎ見れば木々は揺れ、流れゆく雲はきれいだ。それに比べて、ここにある肉体は人をばかにし、猫さえ守ることもできない。この世界の生物とは思えないほど醜い。
視線をゆっくり落とせば、老猫のフォースが見ていた。苛立ち混じりに凝視したが、反応は変わらない。馬鹿にされているというより、愛想を尽かされたようだった。
猫西はベンチから立ち上がり、帰ろうとした。しかし振り返ると、フォースが見ている。数歩進んだのち、再び振り返ってみる。まだいる。
「だるまさんが転んだ」と言い終えるか否かのところで振り向いた。
「フォース」
猫西の声に反応し、フォースは四本足で立ち上がる。青い瞳が宝石のごとく瞬いた。
勘違いだ。理解した気になってはいけない。灰青の猫を友達だと思い上がった日を忘れない、と己を叱咤する。この長い睨みあいが灰青の猫を思い出させ、右手の古傷が痛むのだった。
その場から離れ、部室のロッカーからキャリーバッグを持ちだす。部室を出ると、フォースが待ち構えていた。
キャリーバッグにフォースを誘い入れると、抱きかかえるようにして持ち帰った。