友と残映 後編
大学生になって、はじめての春休みだった。
猫西はスーパーで買い物をしたあと、近くの公園でベンチに腰を下ろした。
海苔が千切れないようにおにぎりのフィルムを丁寧に取り、そして、食べる。噛んで、噛んで、噛んで、飲み込む。また、食べる。飲み込む。食べる。たった三口でおにぎりはなくなった。フィルムをとる時間のほうが長かったほどである。
暇を持て余し、手の中にあるものに視線を落とした。
片方の手にはゴミとなったフィルムがあり、もう片方には硬貨がある。
「百円玉一枚、十円玉八枚、一円玉にま、……ん?」
硬貨が擦れる音の間で、別の音が聞こえた。
猫の鳴き声だ。
ベンチから立ち上がり、足音を立てぬよう公園内を歩き回る。
滑り台の影でぐったりしているキジトラの子猫を発見した。立春を迎えたとはいえ、子猫の体力を奪うには十分な寒さだ。
「保護したい、けど」
猫西は現在、大学で外にいる猫を保護する部、通称保護部として保護活動をしており、子猫を保護することは可能だ。
しかし、つねに保護部の部費に余裕はなく、一部個人負担となっていた。
「奨学金はまだ先だし……」
助けようにも、これでは共倒れだ。
猫西は深くうなだれた。こういう状況になったとき、未だ見て見ぬふりに慣れない。求められてもいないのに、ごめんが口を衝いて出た。
「おい、餌をやるな!」
突然の怒声に驚き、猫西は立ち上がって振り返る。
腹の膨れた、髪の隙間から頭皮が透けている男性が立っていた。中年と見てとれた。
猫西は「あげてません」と首を振った。
「嘘だ。見てたじゃないか」
「見てただけです」
「じゃあ、そこを退いてくれ」
中年男はゴミ袋とガムテープを持っていた。
嫌な予感がして息を呑む。
「何するんです」
「今日こそ捨ててやるんだよ」
「やめてください!」
猫西は中年男の腕に触れ、わずかに体を強張らせた。彼の腕は存外、太くて筋肉質だ。
これまでも野良猫を嫌う人はいたし、口論になったこともある。とくに猫西は小柄ゆえになめられやすかった。そうしたトラブルに遭ってからは、大きいサイズのスウェットを着て体格を大きくみせ、前髪を伸ばして視線を感じさせないようにした。おかげで、あからさまな威圧は減っていた。
バレたらまずい。猫西は後退する。
それでも中年男の動きは俊敏で、すぐに捕らえられてしまった。中年男はほくそ笑み、猫西を地面にねじ伏せるのだった。
「うんざりなんだよ。あの猫も、お前も」
中年男は胸ぐらを掴み、不平不満をぶちまけながら殴ってくる。
揺れる視界で相手を捉えてはいた。しかし気になるのは罵声の声よりも子猫のほうだ。猫の保護費と自身の治療費を忙しく計算していた。ぐるぐる、ぐるぐる、と。貯金が底をつき、子猫を保護するだけのお金も病院に駆け込む手段もない。考えることが無意味なのだ。
やがて自嘲すると、中年男が手を止めた。
「傷つけるなんて、どうかしてますよ」
今度は猫西が中年男を押し倒す。
形勢逆転だ。拳を高くあげる。唾液混じりの喚き声は無視した。
だが、殴らなかった。
ふいに懐かしい声が聞こえた気がしたのだ。その一瞬が、糸が切れるように感情が冷静になる。
中年男は逃げていった。
空を仰ぎ見ると、曇り空が広がっていた。濃く、深く、灰青の猫と酷似している色だ。
視線を地面に落としていき、膝を抱える。
「どうかしてるのは僕も同じだ」
腕をさすっても震えは止まらず、気絶するように目を閉じた。
次に目を開けたとき、空は紅色に染まっていた。
女性の小さな悲鳴がした。視線を落とすと、棒立ちの女性と地面に転がる猫の餌が見えた。
途端、猫西は地面に頭を擦りつける。
「お願いです。保護できないならご飯を与えないでください」
「そ、それより手当てを……」
「僕は昔、同じことをして野良猫が姿を消しました。傷つけてしまったんじゃないか、死なせてしまったんじゃないかと、毎日夢に見るのです。毎日悔やむのです。あなたには背負ってほしくない。お願いです。どうか。……っ、どうか」
猫西自ら発した言葉が、かつて犯した言動を蘇らせ、顔を歪ませた。忘れてしまえたらいいのに、と考えると、さらに恥じ入り、拳を握った。お前は罪人、恥ずべき人間だと何年も唱えてきた言葉を今日も脳内で言って聞かせ、己を軽蔑する。
爪が皮膚に食い込む痛みで、意識は内から外へ向けられた。視界の端では子猫が滑り台の影から顔を出し、しま模様を紅く燃やしている。子猫の前足は土下座する猫西の影を踏み、そして鳴くのだった。空腹を訴えるように。ふたりを責め立てるように。
猫西の伏せた顔は、汗と涙で濡れていた。