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投影と寒の雨(3)

 

「犯人は元保護部のあんただな、先輩」

「なんのことだ」

「猫サーの評判下げしている犯人」

「僕じゃない」



 猫西(ねこにし)は鋭い眼差しで男を見上げた。

 黒髪のマッシュヘアに前髪だけが少しうねり、目線を下げると、薄い唇は閉ざされ、代わりに切れ長な目が怒りを物語っている。



「ふざけんな。あのSNSアカウント運営してるのあんただろうが。大栗(おおぐり)もそう思ったから呼び出したんだろ!?」



 彼の声が裏返る。怒鳴り慣れていないようだった。



安東(あんどう)、猫西先輩は犯人じゃない。今さっき私が確認したから落ち着いて」



 安東は、猫西を(にら)み、ややあってから解放した。

 猫西は乱れた襟元を正しながら、誰だ、と言外に含めて大栗のほうに視線を送る。



「こちらは猫サーの副代表、安東です」

「俺の名前なんかどうでもいい。それよりも、あんたが犯人としか思えない」



 安東は忌々しげに言った。



「猫西先輩に当たらないで」

「黙ってろよ、大栗。俺は今、このうざい先輩に話してる。保護部のくせに猫サーにかかわんないでほしいんすけど」



 彼らのやりとりを見て、猫西の記憶が(よみがえ)る。

 鍵を渡しに猫サークルがたむろしている――かつて保護部の部室だった――場所に赴いた際、安東に会った。感情が顔に出やすいあまり、副代表として大栗をサポートできているとは思えない男だ。現に今、彼の言動は彼女のフォローを無下にした。



「僕からかかわったわけじゃない。でも誤解させたことは悪かった」

「そんな謝罪よりも、さっさと犯人だと認めてくださいよ」



 思わず失笑。「悪い」と猫西が謝罪すれば、彼は目を細めて不快感を表に出した。


 猫サークルの(うわさ)を知ったばかりのやつが犯人であるはずがない。個人(ねこにし)を犠牲にして猫サークルを守るならば、安東の提案は稚拙という言葉では足りない。愚か! まったくもって愚かで、バカげた選択だ。


 猫西が犯人であるというストーリーを創作するのならば、リスクも覚悟しなければならない。

 リスクとは、(うそ)が明るみになった瞬間に猫サークルが終わることだ。

 保護部の失敗がある以上、似た活動をする猫サークルが同じく腐った組織だとみなされた場合、大学から保護活動を禁止する未来もありえるのだ。


 ならば、(うそ)が明るみに出なければいい。

 それは正しい。

 (うそ)を事実にするためには、完璧さが求められる。ジェンガのごとくまっすぐ高く、(ゆが)まないように、(うそ)を、(うそ)のための(うそ)を、積み上げなければいけない。並大抵の努力では完成されない。少なくとも今この場で作った(うそ)に完璧さはない。


 だからこそ、大栗は犯人探しをするのだ。

 彼女は、保護部を悪にした場合の猫西(個人)の巻き込みを危惧した。けれども本当のところは、犯人探しのほうが現実的だからだろう。


 犯人の勝手な行動によって起こった悲劇とすること。

 犯人を断罪すること。

 このふたつが達成できれば、猫サークルは被害を受けた団体となるだけでなく、犯人のいない猫サークルに問題は起こらないと間接的に証明することができる。


 しかしながら、安東は鈍感らしい。彼女の努力を台無しにしていることに気づいていない。初対面のときに感じたように、まるで副代表としての器がない。彼女が彼に話さないのは保護部絡みだからというよりも、愛想を尽かしているせいかもしれない。


 猫西は机に伏せ、ため息を吐く。引き下がってくれたらいいが、と半ば諦めた気持ちを抱きながら顔を上げる。



(うわさ)を流されて迷惑しているくせに、僕のほうは流すのか。やっぱり猫サークルのやつらは終わってるな」

「そっちは真実じゃないすか」

「そんなわけがない! けど僕の話は信じないだろうからな、真実だと仮定しよう。そうだとして、僕を犯人にしたらどうなるかくらい想像できてるんだろうな」

「小物の常(とう)句。どうせお前が潰れるだけっすよ」



 安東は鼻で笑う。



「僕が保護部の部長にしたこと、保護部の部長がどうなったかは聞いてるんだろ」

「ええ。あんたが保護部を解体させた元凶であり、部長を退学させた張本人だと」



 なるほど。不快極まりないが、今は利用すべきだ。



「そんなふうに聞いていて、僕を犯人に仕立てあげたら部長のあとを追って退学することになるかも、とは想像できないの?」

「脅しかよ、だっさ」

「そう受け取ってもいいよ。僕は失うものもないから。そっちこそ、こんなくだらない()めごとで退学になったら親になんて説明するんだ」

「話すり替えんな。そんなにやってないっていうなら犯人連れてこいよ!」



 また、安東の声が裏返った。つかの間の沈黙にも耐えられない様子で、続けて「どうなんだよ」と()える。



「じゃあ連れてこようか」

「は?」

「猫サーに迷惑かけてる犯人だよ。犯人は知らないから容疑者を連れてくることになるがな。望むなら喜んで差しだすし、容疑者の中から好きに犯人探しをしてもらって構わない。制裁もご自由にどうぞ。正直、僕も嫌気が差している。保護部とか猫サークルなんて興味がないし。巻き込まれたくもない。ところで、僕が容疑者を連れてきたとして、そちら様はご満足なの? お望み通り動けば、僕に構わないでくれるのかな? さっきから黙っているけど、どうなんだ、ん?」



 席を立ち、上目遣いで凄む。

 安東は口を閉ざし、張り詰めた空気から逃げるように後ずさった。体が震え、(おび)えているのが見え見えだ。


 猫西は愉快な気分になったのも一瞬、席に座り、テーブルの下で拳を握る。

 引き下がってもらうためであり、彼女の意見を尊重するための行動であり、大学猫を守るために必要であり、悦に浸かるための発言ではない。断じて自分のためではない。自分のためであってはいけない、と戒める。



「猫サークル代表としてのご意向をお聞かせ願えますでしょうか、大栗さん」



 努めて明るい声音で、猫サークルの代表もとい大栗に判断を仰ぐ。

 大栗のため息が聞こえた。



「安東、ごめん。事前に相談しなかった私がよくなかった。でも今回の問題を解決できるのは猫西先輩しかいない」


「本気で言ってるのか?」


「こんなことで猫サーが潰れるほうが惜しい。少なくとも私たちよりも保護部にかかわりのある人だし、彼らと付き合いがある。私よりもずっと、ね。(うわさ)を広めてるのが誰かわかるかも」


「でも……」


「猫サーに直接関係するわけじゃないし、私がさせない。そこは安心して。来年度から猫サーが活動できるようにしたいだけ」


「それはそうだけど」



 安東が理解を示すと、大栗は柔らかい笑みを浮かべる。



「ありがとう。今日のこと他言無用にしてほしいんだよね。私がしっかりしていないばかりに頼ってしまってるわけだし」


「大栗は悪くないだろ! わかったよ。皆には黙っておく。けど、本当にこの人が連れてこられるのかよ」



 安東は、心臓を射抜くかのごとく猫西を指差した。



「心当たりはある」

(うそ)ついてないだろうな?」

「気になるなら僕についてきたらいい。猫サーの人間だと知った向こうが、どのように出迎えるかわからないがな」



 猫西が口の端を上げると、「絶対連れてこいよ」と遠回しに拒絶された。



「じゃあ大栗、俺、帰るわ。じつは夜勤明けからのレポート提出で眠いんだ」



 安東は背を向け、店をあとにした。



「猫サーのやつが働いてる時間に来るなよ」



 たまらずぼやくと、大栗も肩を落とした。



「夜勤って聞いてたからもうあがってると思ったんです」

「とか言って本当は食べたかっただけじゃないだろうな」

「うっ……。そこまで言うならヒヤヒヤさせないでください」



 大栗の目が怒気でつり上がっていた。



「悪かった。大栗の努力を無駄にしたくなかっただけだ。言いすぎたと思ってる」


「私の努力?」


「猫サーはクリーンな活動にするって言ってただろ。僕もそのほうがいいと思う。猫サーが今後活動しやすいように、保護部は悪だとしたほうがいいし、保護部の僕も悪役でいたほうがいい」



 大栗は(うつむ)き、顔が見えなくなる。



「それだと猫西先輩を(かば)う私の努力が無駄になるんですけど」

「なに? 猫を(かば)う?」

「もういいです」

「気になるんだが」

「忘れてください」



 食い下がろうとしてやめる。面をあげた大栗は、もう怒っていなかった。



「それで、猫西先輩は影井(かげい)先輩に接触できそうなんですか」

「ああ。連絡があった」



 猫西はスマホ画面を見せた。そこには副部長の影井からのメッセージが映し出されている。メッセージといっても、送られてきたのは位置情報のみである。



「時間がわからないんだよな。夜とは言っていたが」

()いたらいいじゃないですか。きっと返信きますよ」

「それもそうだな」



『何時に行けばいいですか』と送ると、すぐに既読がついた。



『午後十時。それまでデート楽しんで』



 背筋が凍る思いがした。

 デートとは、大栗が発した言葉だ。あの場に影井がいなければ知るはずがない。少なからず大栗と通じていることがバレている。

 会話を聞かれているのなら、鍵の持ち主が大栗であることも筒抜けになっている。潜入するにはあまりに不利、無謀だ。想像以上に警戒しなければならなくなった。



「どうしました?」

「……なんでもない。夜十時だと」



 ふたりでいる姿を見ただけでデートと表現したかもしれない。彼女に話すのは見定めてからでも遅くない。

 大栗は相(づち)を打った。



「にしても、影井先輩が今になってこんなことするのか、私には理解できません。あのとき失踪しなければ保護部も、もう少し違う未来があったかもしれないのに」

「そこは僕も気になってる。副部長の失踪がいつだったかな」



 大栗は再びスマホを操作する。



「保護部の活動停止期間が終わってからですね。連絡しても返信がきませんでした」

「活動再開後か。たしかに音信不通にならなければ、里親探しはしなかった」

「私も猫サーの代表にはならなかったかもしれません」



 双方、沈黙。

 重い空気を先に破ったのは大栗のほうだった。



「そういえば、影井先輩に会ったんですよね。なに話したんですか?」

「やり直すべきだと言っていた。そう思ったのが僕を見つけたから、らしい」



 大栗は「なるほど?」と(うなず)き、けれども納得いかない様子で(うな)った。



「つまり影井先輩は猫西先輩にご執心ってことですか?」

「保護部員を集めてるんじゃないか。僕が仲間になってくれると思ってるのかもしれない」

「そうだったらいいんですけどね」

「なにか思い当たることでも?」

「さあ。私は知りません」



 大栗はコートを羽織って立ち上がる。 



「あっ、お金……」



 猫西はトートバッグの中で財布に触れる。



「大丈夫です。これから潜入してもらうための先払いです」

「そうか。じゃ、ごちそうさまです」

「その代わりといってはなんですが、ひとつ確認しておきたいです」



「確認?」と猫西は財布から手を離し、コートを羽織る。



「さっき、安東が言いましたよね。保護部を解体させた元凶であり、部長を退学させたのが猫西先輩だと。でも猫西先輩の口ぶりから、あれは本当じゃない。本当は、なにがあったんですか」


「……」


「部長は(うわさ)の絶えない人だったみたいですが、それでも退学はしなかった。でもあの日、猫西先輩とふたりきりになった日、なにかが起きた。それも警察沙汰になるほどの、なにかが……。だからあの人は退学した」



 その質問が、梅雨特有の湿った空気を思い起こせる。

 横たわる猫。

 猫殺しの赤く染まった姿。



「大栗は、なにか知ってるのか」

「さっき言ったとおり、なにも知りませんよ。だから質問しているんです」

「そうか。……部長が退学した理由は知らない」


 

 と、猫西は声を絞りだす。



「あの日のことは知ってるんですか」

「言えない」

「猫西先輩の口から聞きたいんです」

「だから、言えない」

「……わかりました。それでは潜入のほう、よろしくお願いしますね」

「ああ」



 トートバッグを肩に提げ、先に店を出た。最後に見た彼女の瞳は、沈んだ色をしていた。



   ○



 太陽はすでに寝入り、あたりは闇に包まれている。

 猫西はコートの襟を()き集めながら大学内を歩いていた。しだいに雨が降りはじめ、コートに付いたフードを被る。雨を踏みしめる足音はパシャパチャと水を含み、靴は()れ、足取りはさらに重くなる。


 暗い道を歩いていたら、遠くに淡い光を見ることができた。

 工学部棟。ほかの校舎に比べて電気がついていて明るい。夜な夜な実験が行われているのだろう。

 外階段を見上げる。

 あの猫は昨年、部長の手によって落とされた。

 足元に違和感を覚え、猫西はすくむ。見てはいけないものを見たような恐怖を抱く。



「……レオンか」



 ほのかな明かりでもわかる輪郭だ。あどけなさを残す尻尾を揺らしながら、レオンのライオンのごとき勇ましい顔が見上げている。


 猫西は(きびす)を返し、工学部棟を背を向けて歩きだした。

 本当はこの先の、部長が大学猫フクを殴打していた道を通り、それから目的地に向かいたかった。もしかしたら、あの道を通るのが最後になるかもしれない。そうなる前に手を合わせたかったのだ。


 しかし、今からでは約束の時刻に遅れてしまう。

 猫西は断念し、正門を目指した。

 正門を抜け、信号に引っかかる。車のライトが猫西の影を大きくした。眩しい光から逃げるように、フードを深く被りなおした。


 昼間は、ここを彼女とともに歩いていた。

 あのときとは異なる寒さを感じる。



「傘、持ってきたほうがよかったかな」



 ひとりごとに応えるように鳴き声が聞こえた。



「ついてきちゃったのか、レオン」



 レオンは、猫西の足に顔を寄せる。(だいだい)色の外灯に照らされ、ライオンのごとき毛色が高貴な色のようにきらめいた。



「この先は車も通るし危ない。大学に戻るんだ」



 猫西はそう言い、横断歩道を渡る。

 振り向くと、レオンが横断歩道を渡っていた。歩行信号が点滅しはじめた。



「レオン!」



 レオンの歩く速さでは間に合わない。猫西は引き返し、レオンを抱える。走り渡ると車のクラクション音が響いたが、振りきるべく走った。

 クラクションを鳴らした車が走っていき、肉眼で見えなくなってから、徐々に速度を落とし、歩きに戻る。



「危なかった……」



 しかし、レオンをこのまま抱えているわけにはいかない。

 すでに目的地のカラオケが見えてきた。看板が光り、ガラス越しにも店内のきらびやかさがわかる。レオンを入店させるわけにいかない。



「大栗に連絡、は、万一にも影井と接触されるとまずい」



 ぼやきながらも足は止めない。初対面の遅刻は信頼構築にかかわる。ましてや潜入するというのだから、最初のトラブルは避けておきたい。

 カラオケ店前までやってくると、ひとりの男がビニール傘をさして突っ立っていた。キョロキョロと人捜しでもするように見回しながら、季節外れの半袖黒シャツで露出した二の腕を擦っている。それはカラオケ店の制服であった。

 カラオケ店員は猫西に気づくと「あっ!」と小走りで近づいてきた。



「猫西さん、影井先輩がお待ちです」


「店員さんかと思ったんですが、違うんですね」


「すみません。猫西さんは知らないと思いますけど、おれは保護部の者です。今はここで働いてて、影井先輩に猫西さんを見つけたら案内するように言われました。でもいきなり声かけられたらびっくりしますよね、すみません」



 カラオケ店員は小さく頭を下げた。腰の低い男だ。



「わかりました。でも、その前にこの猫を帰したいんです。申し訳ないんですけど、遅刻することを副ぶっ、……影井先輩に伝えてもらえませんか」


「大学猫ですよね? おれが帰してきましょうか」


「ありがたいですけど、もとは僕のあとをついてきちゃったみたいなんで僕が……」


「おれも保護部でしたから大丈夫だと思いますよ」


「……じゃあ、この猫の名前、わかりますか」



 カラオケ店員は顔をしかめるのだった。気に障ったのだろう。



「すみません。あなたを信じたいからこその質問です。この猫の名前を言っていただけたら、あなたが保護部の人であることが疑いようがないので」

「なるほど、そういうことですか」



 カラオケ店員は納得した様子だが、猫西は端からレオンを預けるつもりがない。名前を当てられたところで、保護部の人間であるとの証明にはならないのだ。大学猫の名前は保護部のSNSで知ることができる。


 この質問を投げたのは、集められた者のレベルを知りたいからだ。影井がどのような者を集め、まとめているのか把握することで、彼の目的がわかるかもしれない。


 カラオケ店員の顔の影が濃くなる。



「レオン、ですよね?」



 と自信なさげに見つめ返された。



「そうです。レオンです」

「よかった! 暗いし、間違ったらどうしようかと思いました。これで問題ありませんよね、猫西さん」



 カラオケ店員は明るくそう言った。

 今の発言は(うそ)だ。ここは店内の光が漏れ、看板のライトも届いている。だからレオンの見た目はよく見えるし、保護部員として活動に参加していたのならば答えられるはずだ。


 この店員が名前を当てたのは、おそらく偶然。ライオンのような見た目からレオンと名づけられたので不可能ではない。

 まぐれで当たったことを誤魔化した。

 そうまでして、保護部の人間であるようにみせたかった。


 つまり、カラオケ店員は保護部員でない。そう断言できたら楽だが、さすがに飛躍して考えすぎか。このカラオケ店員が記憶力に自信がないことも考えられる。副部長の影井も、保護部をやり直したいと話していたではないか。


 やり直したい首謀者。

 保護部を装っている可能性がある部下。

 もう少し踏み込んでみるか、と猫西が口を開きかけたときだった。



「――長谷川(はせがわ)、まだぁ?」


 

 突如、カラオケ店の扉が開かれた。

 影井が、ひとり長身の男を連れて現れたのである。



「なんだ、来てるじゃないか。こんばんは、猫西くん」

「どうも」



 影井の首筋に金色の髪がきらめいた。それでも服装や身につけているものが黒く、暗かった。闇と同化していると言ってもいい。



「猫西くんが来たら連絡してって言ったよね」

「すみません。猫がいるから店に入れないと猫西さんに言われて、おれ、預かろうとしてたんです」

「それだけ? それだけで、こんな時間かかる?」



 影井がカラオケ店員――長谷川に詰め寄り、場の空気が変わったのを感じた。



「猫西くん、彼が言ってることは本当?」



 雨に()れた前髪が邪魔をして、猫西のほうから彼の表情を正確に見通すことはできない。けれども、太陽が空にいたときとは違う刺々しさが耳に届くとともに、刺すような視線を感じるのだった。



「ここに向かう途中、レオンが勝手についてきてしまったんです。困っていたらこの人が預かると申し出てくれたんで、ありがたく預けていたところです。長谷川さん、ですか、彼は悪くありません」



 猫西は半ば押しつける形で、レオンを長谷川に抱えさせた。

 保護部の頃の影井には温厚な印象を受けていた。しかし、トップになると威厳を放つタイプの人間らしい。レオンを預けるのは不安だが、潜入するなら穏便に済ませたほうが丸い。



「へぇ。勝手についてきた、ね……。じゃあ長谷川、その猫よろしく。猫西くん、行こうか」



 影井は背を向け、歩きだす。

「どこへ」と尋ねる猫西の声は、雨音と店内のけたたましい音に遮られた。


 レオンのほうをちらりと見る。暴れるかと思ったが、大人しくはしている。長谷川というカラオケ店員は信用できないが、今は任せるしかない。


 猫西は一瞬、景色に違和感を覚えた。視線を泳がせれば、いつの間にか長身の男が背後に回ろうとしていた。長身の男から距離をとるように店内に入る。


 遠い影井の背を追いかけながら、横目に店内を見た。すべてがギラギラしていた。ビリヤードやダーツを楽しむ若者の姿は普段の学生のそれではない。まるで敏腕社長のごとき、大物を演じる声量と身振り手振りで、なにもかもが大袈裟(おおげさ)だ。


 視線を前に戻すと、影井が手招いていた。



「なにするんです?」



 彼に追いついたとき、猫西は先ほどよりも心持ち声を張った。



「カラオケにきたら歌う以外ないでしょ。あ、猫西くんは、なに飲む?」



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