投影と寒の雨(2)
「私、猫西先輩に謝りたかったんです」
大栗の声がはっきりと聞こえた。離れていても、彼女のコートの裾がはためくほどの風が吹いても届く、凛とした声だった。
「猫西先輩から鍵をもらった日、不快な思いをさせてしまってすみませんでした」
猫西は、ぎょっとした。
大栗に鍵を渡す前、大学キャンパス内では保護部の噂がひとり歩きしていた。保護部が猫を殺していただの、金を巻き上げていた等だ。質が悪いことに一部分は本当であるから言い返す者もおらず、その結果、猫西を含めた保護部が疎まれた。その後大学にいかなくなったため、現在では噂がどのようになったか知らない。
それでも、猫サークルは保護部のアンチテーゼによって生まれたサークルである。保護部の猫西が、猫サークルの代表である大栗と接触することがよくないのは想像に難くない。ましてや彼女に頭を下げさせるなど、とんでもない!
美しく感じた日の光が、今は猫西を焦がす熱のように思われ、息苦しささえ覚えはじめる。用心深くまわりを見回した後、大栗に向かって頷いた。
「わかった、気持ちは受けとる。じゃあ僕はこれで」
一刻も早くこの場から立ち去ろうとすると、大栗が面を上げる。
「猫西先輩に頼みたいことがあるんです。見当たらなくて、連絡しても既読つかなくて、捜していました」
「悪いけど、これから講義だから」
「チャイムは鳴りました」
「まだ間に合う。大栗も……」
「自主休講です」
大栗は即答した。
「自主休講……。講義をサボってまで話したいことなのか」
「いけませんか。デートの誘いみたいなものです」
大栗は強張った表情のまま、そう言った。デートの誘いとは思えない、鬼気迫る表情だ。
猫西は半歩ほど後ずさり、片頬に笑みを浮かべる。威嚇するように、あるいは彼女に対する恐怖を隠すように。
「断る。謝罪もデートも、今さら虫がよすぎると思わないか」
「本当に断るのなら、今すぐ教室に向かってくれて構いません。そうですね、猫西先輩が行ったなら、あの鍵を別の人に渡してしまうことにしましょうか。どうします?」
「好きにすればいい。僕には関係ない」
「そうですか。でしたら、どうぞ」
わざとらしい大栗の微笑が、猫西を徐々に真顔に戻していく。
鍵。保護部が作成した、大学猫にまつわるゴシップノートの鍵。猫西は鍵を大栗に託した。あの日、かかわるのは最後にすると決めたのだ。
けれども、大栗が別の人に渡すということは、大学猫に関係する情報を握る者が変わるのと同義だ。
猫西の脳内では先ほど会話した影井がちらつくのだった。ついさっきのやりとりを思い出すと、彼の手に渡るのがあまり好ましく思えない。
「誰に渡すんだ」
「関係ないんじゃありませんでしたか」
大栗がおもむろに歩きだし、近づいてくる。
猫西は後ずさった片足に体重を乗せ、いつでも走りだすことができた。今ならまだ欠席扱いにはならないし、留年回避のためにも講義に出たほうがいい。頭ではわかっている。だが鍵を渡す相手が気になって仕方なく、猫西はついに動けなかった。
「誰に渡すか気になります?」
「……多少は」
猫西の前に大栗が立った。顔が近い。前髪を伸ばしておいてよかったと思いながらも、緊張し、視線をそらした。
「行かなくていいんですか。自由になれと言った私に頼られても、気分はよくないでしょう」
「だったら最初から誘わないでくれ。気になって講義に集中できなくなる」
猫西が言うと、大栗の強張っていた顔がわずかにゆるんだ。
「私もそうしたいんですけど、猫西先輩くらいしか話せる人がいなくて」
「鍵を渡す相手は副部長か?」
「あれは猫西先輩を呼び止めるための張ったりです」
「そうかよ」
猫西は首をかいた。ドクドクと脈打ち、まだ緊張感は抜けない。
「でも頼みたいのは、副部長の影井先輩のことです。彼を捜してるんです」
「さっき会ったけど」
「どこで!?」
大栗は猫西の襟を掴んで引き寄せた。彼女の焦りが伝わり、猫西も動揺で瞬きをする。
「法学部棟の廊下で」
「今、影井先輩に会うのはまずいんですよね」
大栗の表情が曇る。
どうして今だとまずいんだ、と尋ねる前に手を取られた。
「とりあえず、ここから離れましょう」
大栗は小走りで、猫西の手を引きながら正門を目指した。
午前の講義中とあって外にいる学生は少ないが、すれ違う学生のなかには猫西と大栗に視線を向ける姿が見える。
「いったん離せ」
と抗議したが、彼女は離さない。
手のひらから汗が浮かぶ。じわり。緊張感が全身に伝わり、背中からも汗をかきはじめた。汗が猫西の肉体の奥にまで染み込んでいき、関節が震えるような感覚を抱く。
保護部や猫サークル、大栗といった単語を囁く声が彼女の耳にも届いているはずだ。危険すぎる。
猫西は手を離したいが、周囲に攻撃したと誤解されるリスクも考えて必死に堪えていた。
はやく終われ。
猫西は祈るように目を閉じた。
暗闇の歩行はじつに不安定で、鼓動の音も騒がしくなる。走る車の音は遠く、溶けた雪が彼の足を滑らせ、バランスを崩そうとする。そんなふらつく足取りを導くように、彼女の握る手は強くなるのだった。
「もういいですよ」
頭がおかしくなりそうになったそのとき、大栗の声を聞いた。目を開けると、彼女がこちらを向いていた。手は離され、いつの間にか大学からも出ていた。信号待ちの中、冬の冷たい風が火照る体に心地よい。
「どこに行くんだ」
平静を装うのに必死な猫西に対し、隣の彼女は落ち着いている。
「モットナルトです。少しお腹空いたので、話をする前に食べようかと」
「そうか」
信号が青に変わり、ふたりは歩きだす。大学に向かう学生の自転車の群れを抜け、道を曲がり、歩いていく。隣で走り抜けていく車の排気ガスのにおいが顔にまとわりついた。
しばらく歩き、ハンバーガーショップのモットナルトに入った。国道かつ大学付近の立地のため、ドライブスルーは数台並び、店内も賑わっていた。一階は席が埋まっているが、レジ前は一組しかいない。
「猫西先輩も何か食べます? 私は朝バーガーとキャラメルラテ、ハッシュドポテトにする予定ですけど」
大栗はスマホを取りだす。
「バーガーとサイドメニューは同じで、飲み物はアイスコーヒー、ミルクとガムシロも頼む」
「わかりました。クーポンあるので、とりあえずまとめて支払いますね」
「了解。じゃあ席とってくる」
「お願いします」
大栗が注文する間、猫西は二階にあがる。話の内容を考慮し、窓際とは反対側、入り口からもっとも遠いテーブル席を確保した。
しばらく席を眺めたあと、猫西は通路側の席に座った。
「座るなら僕が通路側だよな。たぶんそう。うん」
ほどなくして大栗がトレーをもってやってきた。コートを脱ぎ、猫西の向かい側に着席する。
「すみませんが、朝ごはんまだなんで食べますね」
「あ、ああ」
手短に話したあと、大栗は手早く短い髪を束ね、そして紙に包まれたバーガーを、これまた手早く開けた。はむぅ、とかぶりつき、彼女の顔が途端に綻んだ。
「大栗は、このバーガー、好きなの?」
クリーム色をしたニットの袖にソースがつかないかヒヤリとし、思わず声をかけた。
大栗は「はい」と明るい声で答える。
「甘ったるいバンズがたまらないんです。猫西先輩は食べてませんけど、もしかしてお腹空いていませんか」
「食べるけど、はじめてだから少し見てた」
「はじめてですか。好みに合わなければもらいますよ」
はじめてみたのは、大栗が食べているところだ。だが訂正はしない。彼女の袖についても気の利いた言葉が浮かばず、それゆえに彼女が気づけるはずもない。
最低最悪と言われた過去の記憶が脳をよぎった。
口を大きく開けてバーガーとアイスコーヒーを流し込むと、意識は徐々に目の前の現実に戻ってくる。
「……うん、問題ない」
「そうですか。よかったです」
猫西が黙って食べはじめると、大栗も静かに食べていた。無言の時間がしばらく続いた。
夏休み頃から味覚感知が鈍くなっていた。おかげで本当なら苦手なはずの甘いバーガーも食べられる。バーガーは水を含んだスポンジのごとくしっとりして、ハッシュドポテトはもさもさしている。腹を満たせるのならばいい。だから、問題ない。
お互いに腹ごしらえをし、落ち着きを取り戻した頃。
大栗は佇まいを正した。
「猫西先輩には、保護部の残党に潜入してほしいんです」
「残党なんてあるのか」
大栗はスマホを取りだし、メモを見ながら話しはじめた。
「順を追って話しますね。といっても部長の問題が明るみに出たあとのことは、猫西先輩も知ってますよね」
「ああ。部内の問題が相次ぎ、保護部は活動できるような状況じゃなくなった」
アイスコーヒーにミルクとガムシロをいれて混ぜながら、大栗のほうを一瞥した。
「そうです。私は保護部に見切りをつけ、猫サークルを立ち上げました。猫サークルが保護活動を引き継ぎ、保護部は来年度には廃部になる予定です。でも昨年末頃から、猫サークルの変な噂が流れていると友達に教えてもらったんです」
「噂……」
「最初は無視していたんですけど、迷惑してきたので対応せざるをえなくなりました。噂を流しているのは保護部の残党らしくて、その中心人物が保護部の副部長、影井先輩ではないかと言われています」
甘苦くなったはずのアイスコーヒーを、つ、つ、と少しずつ腹に流していった。スマホに目を落とす彼女を見つめながら。
以前はともかく、現在は大栗に、彼女が取りまとめる猫サークルに大学猫の保護活動を一任している。保護活動にかかわらなくなった今になって、なにを求められているのだろう。
猫西が考えを巡らせる間に、アイスコーヒーの氷が溶けていく。
「迷惑するほどの噂って、たとえば、どんなの?」
「猫のことしか頭にないような猫西先輩も気になるんですね」
でもってなんだよ、と言い返す寸前でやめた。彼女から放たれる空気が、軽口を叩ける雰囲気ではなかった。
「僕はしばらくの間、大学に来てなかったから知らないんだ。それに、保護部の残党に潜入すべきなのかどうかも気になる」
「理由が必要ですか」
「猫サークルじゃないし、今は保護活動の話にかかわりたいとも思わないからな」
「噂のほうは、あげたらキリがないので割愛させてほしいですね。ただ、そのせいで猫サークルが正式に認められないかもしれない。これで事の深刻さが伝わりますか?」
「どういうことだ」
「大学は、部活とサークルの区別をしていません。大学に申請し、認められたら部活でもサークルでも部費が出ますし、部室も割り振られます。部活のほうが大会実績などがありますが、それは慣習的な話です」
大栗は一呼吸おき、「だから」と話を続ける。
「サークルを作るときに問題になるのは、大学に公認されるかどうかです。で、このままだと猫サークルは公認されず自主活動になりそうなんです。まだ申請ははじまってないので、あくまで掻き集めた情報をもとにした憶測ではあるんですが」
大学猫の世話を自主活動にしたら、それこそ崩壊する。保護部よりもはやく、あっという間になくなる。
まず頭に浮かぶのは費用確保の課題だ。ただし、これは保護部でも課題であったし、今回は別の問題のほうが深刻である。
自主活動になったときの問題は、人が集まらないことだ。
保護部に入った新入生の大半は、友達ほしさに入ったと話していた。これが大学非公認の活動になったら、見向きもされなくなるのではないか。他の大学だったらまだ希望はあるのだが、ここは非公認で精力的に活動している団体がほとんどないのだ。
人が足りなければ、活動範囲も狭めざるをえない。大学猫の食事管理や健康状態の把握が行き届かなくなるおそれも出てくる。自主活動ではなくサークル活動としてはじめたほうがいい。
「猫サークルが大学に公認されないと思う理由はなんだ。なんとかなる問題もあるだろ」
「ありますよ。猫サーと保護部の差別化とか、まさになんとかなる問題です。来年度、保護部が活動継続の申請をしないことを前提に私たちは準備を進めていますが、保護部が継続すれば大学側が猫サーの申請を認めない可能性があります。でもこれは、活動内容の違いをうまく伝えればなんとかなると思います」
と区切り、大栗はキャラメルラテを飲む。
「おそらくなんとかなるラインの問題でしたら、顧問探しもそうですね」
「保護部の顧問に継いでもらわないのか」
「其浦先生は顧問を降りたいそうです。だから、ほかの先生に声をかけているんですけど、命を預かる活動なので易々と引き受けてもらえないんですよね。でもまだ声をかけていない先生方もいますので、なんとかなるとは思います」
「希望はある、か」
「はい。問題は三つめ、大学猫の保護活動そのものの自粛ムードになるかもしれないことです」
猫西は耳を疑った。
「猫アレルギー持ちの加瀬谷先生でも、そこまで動くとは思えないが」
「加瀬谷先生は無関係です。どうやら部長の騒動が、地元の受験生の耳に入ってしまったらしいです。で、猫サー代表は私じゃないですか」
「元保護部の人が作る猫サークル、か」
「そうなんですよ。大学側は静観こそしてくれていますが、いつ保護活動自体を自粛させようと言い出してもおかしくありません。それを言われてしまったら、現状の猫サーは反論できるだけの実績も信頼もありません。お手上げです」
ふざけるように両手をあげてお手上げポーズをする大栗。
かける言葉が思いつかない。大栗が怪しまれる可能性は考えていなかったのだ。彼女ならうまくやれる気がしていたし、人望もあると勝手に決めつけていた。しかし、彼女はまだ一年生。人望を獲得するだけの時間を過ごしていないのは、考えてみれば当然のことである。
では、なぜ猫西が彼女に信頼を置いたのか。
『猫西先輩については意見が割れたんです。わたしは反対しましたよ。だって被害者じゃないですか。猫サークルには猫西先輩を入れないことを条件に黙ってもらいました』
保護部が崩壊したあと、彼女から女王のごとき統率力を感じたからだ。
「なにか策は打ってるのか」
「SNSでイメージ払拭の活動はしていますけど、やっぱり保護部の残党が広める噂を止めないと難しそうです」
「犯人を見つけるまで難しいだろうし、いっそのこと利用してもいいと思うけどな」
「と言いますと?」
「猫サーが被害者面するとか。味方してくれる人は多そうだが」
大栗は眉間に皺を寄せ、あからさまな嫌悪を表した。
「私はしません。二度と提案しないでください」
「す、すみません」
猫西は背筋を伸ばし、彼女の目から逃げるようにアイスコーヒーに手を伸ばす。
「たしかに、その方法ならうまくいくと思います。でも私は嫌です。保護部を悪にしたら猫西先輩も入るじゃないですか。これでも申し訳ないと思ってるんです。屑たちのせいで猫西先輩まで巻き込まれたこととか、今こうして頼らなくてはならなくなってることも」
「どうしてそこまで……。いや、違うな」
思ったことをそのまま言葉にしていいものか悩み、ストローで口を塞いだ。紙ストローがふやけはじめていた。口を放し、カップからストローを抜く。
大栗は黙っていた。彼女の微笑みすら浮かべる余裕に動揺し、目が泳ぐ。
猫サークル発足を諦めたらどうだ、と言いたくない。猫西自身がそうした発言を突っぱねてきた側である。止める気もない。
ただ、彼女を駆り立てる動機はどこにあるのか、と思うだけだ。
なぜそこまで覚悟ができるのか。
なぜ。
これまでにも問いかけてきた言葉だ。
猫殺しの彼に対面したときは、咎める思いで言った。
フォースの里親候補としてやってきた彼女には、見えない本心が気になって尋ねた。
保護部の活動再開を望む彼には、否定したくて使った。
今までは軽蔑の思いを抱いたうえでの発言だった。
しかしながら、大栗に対して抱くそれは違う。壊れ物を扱うときの緊張感と、壊したときの罪悪感を先に味わっているかのような感覚。それを素朴な疑問と呼ぶ人もいるだろう。純粋な好奇心と考える者もいるだろう。
頭は彼女の領域に踏み入ることが禁忌だと警告する。
にもかかわらず、胸は疼くのだ。
(僕は僕のことがよくわからない。保護部のことを思い出すだけでも吐き気がするのに、話を聞いて気になるだなんて……。彼女に乗せられているのだろうか。とにかく気になってしまった)
大栗を見ることができず、コーヒーを眺めたまま話をする。
「そういう障壁があっても、大栗は猫サークルをきっと作るんだよな。そこまでする理由を聞いても、いいか」
窺うように見やると、彼女の瞳とぶつかった。そこに無視する様子も、熟考している様子も感じられない。それでもなにか、答えるに至らないなにかがあるらしかった。
なにを言えばいいのだろうと考えたとき、先ほど猫サークルにかかわりたくないと言った自分の発言を思い出す。
「かかわりたくないから聞いたわけじゃないんだ。僕が聞きたいと思ったのは、その、……すまん」
「なんで謝罪するんです?」
「頭の中がごちゃごちゃして、言葉にできそうになく……」
「そうですか」
大栗はスマホの画面のほうを下にして机に置き、目を伏せた。
「すまん」
「怒ってないです。私も少し言葉を選ばなければいけないなと考えているところです」
大栗は沈黙する。それから親指の爪の先と人差し指の爪の先とをあわせ、削るように左右に動かした。実際には何も削れないのだが、彼女の所作が、艶のある爪にわざと傷をつけているかのような気がするのだった。
爪弄りをやめた彼女は、
「私は大学猫を守りたい。猫サークルでは見守る体制だけじゃなく、看取るところまで責任を持ちたいんです。部長のような切り捨てるやり方じゃなく……、いつか大学猫をゼロになるように猫サークルを作りたい。そんな活動ができるように協力してほしいんです」
と頭を下げた。
協力したい、と猫西は思った。彼女の理想は、かつて抱いていた信念に重なるものが多い。
それでもフラッシュバックする記憶の数々が、口を重くする。
やめてちょうだいと悲願する母の声。
首を絞めた彼女の光差す瞳。
かかわるのはこれが最後だと決めて、大栗に鍵を渡した日の嵐。
猫西の頭にこびりついた過去の記憶が、上唇と下唇を固く結ばせる。
「見つけた!」
突然、男の声が店内に響いた。叫んだ男は猫西と大栗にめがけてやってくる。猫西が呆然としていると胸ぐらを掴まれ、体が椅子から少し浮いた。