投影と寒の雨(1)
公園で黒い影に囲まれていた。
猫西は土下座をするように背を丸め、腹の下で子猫を抱えていた。子猫は、にゃあと鳴きながら、彼の腹にしがみつくように丸くなっている。
猫西を囲っていた影は、人の形に姿を変える。
『うんざりなんだよ。その猫も、お前も』
影は猫西の背を蹴り、ときに踏んだ。
背骨の沈む音が聞こえる。懲罰を与えるかのように、重みが加えられた。猫西は耐え続ける。懐にいる小さな命を守ってやらねば、という思いで。
しばらくして体が軽くなる。
顔を上げると、人の形をした影が猫西を見下ろしていた。
何もしてこないとわかると、猫西は影に殴りかかった。影に対する憤りが攻撃として放たれたのだった。
しかし、猫西の拳は人影をすり抜け、よろけてしまう。
『ああ、殴ったね』
笑うその声は猫殺し、もとい部の長であった。
猫西が振り向く寸前、影に背を蹴られた。突然のことで回避できず、四つん這いの姿勢になる。
『だから言ったじゃないか。そんな人生さっさとやめたほうがいい』
影は猫西の頭のほうへと回り込み、前髪を掴んだ。影は軽々と持ち上げ、顔を覗き込んでくる。影の嘲笑がよく響いた。
猫西もまた、影の仔細を見つめようと目を細めるのだった。夕日の逆光で影の輪郭しかとらえることができないが、相手の口許が弧を描いて笑っているのはわかった。
『本能では理解しているのだろ。他の不幸が人を幸福にする。猫を守るふりして人を殴ろうとする君がいい証拠だ。猫殺しの俺と同じ、ストレス発散がしたいだけだろ』
と、猫西は投げ飛ばされた。擦れた頬から滲み出る鉄の香りが、飛びそうな意識を繋ぎとめる。
(ここで見過ごしたら、僕は後悔する。一度背負った後悔は簡単におろせない、し、おろせたとしても過ちは残る。死ぬまで覚えているのだ。そうやって、忘れてしまえたらと懇願する人生なら、そんな罪人に成り下がるのなら、生きる意味がない。お前たちにはわからないだろう。わからなくてもいい、いいから、僕の前から消えてくれ。その背負った罪の重さで、直ちに、地獄に落ちてくれ。失せろ!)
猫西の喉は詰まり、感情の発露は不発に終わる。だから、地面に手をついた。腕一本に力を集中させ、上半身を起こしていく。腕は震え、閉じた口の端から息が漏れ、まるで怯えていた。それでも服従できない。
再び影のほうに顔を上げたとき、猫西が見たのは子猫の無惨な姿だった。そばでは痩せ細った灰青の猫が子猫を毛繕いするように舐めている。また、自分のせいで……。猫西の頭は完全に真っ白になり、同時に周囲の景色も白くなる。猫西の目には子猫や灰青の猫どころか、何も入らず、事切れるように静かに倒れた。
『二度と猫にかかわらないでって言ったじゃない』
目の前で消えては浮かぶ言葉が、思考する隙を与えない。
『猫西くんが悪い』
鈴のようなやわらかな声。
影の微笑んでいた口許が丸い円となり、猫西を食らう。バリバリと硬いものを噛む音。口からあふれた粘液が猫西の顔を濡らし、潤んだ目尻をも溶かしていく。
猫西は為されるがまま、耳奥で雷雨を聞いた。
『滑稽だな』
おもむろに目蓋を開けたとき、影の奥で黄金の眼が猫西を窺っていた。
『信念さえ捨て、ずいぶんと惨めな有様だが、それでいいのか』
灰青の猫みたいな瞳を持った少年が迫ってくるのだった。
――猫西は飛び起きた。
痙攣する手で喉元に触れる。
「黙れよ」
白い息とともに声が出て、力みがとれていく。
手のひらには爪を強く立てた跡が残る。毛布は寝汗を吸収し、湿っていた。冬とは思えないほどの熱気が徐々に冷めてきて、寒気に変わる。
シャワーを浴びたあと、大学に向かう準備をする。
グレーのニットに袖を通し、深い色のジーンズに包まれる。黒のコートを羽織る。トートバッグを肩に下げて出ていくとき、携帯が鳴った。
「母さん? どうしたの?」
携帯から聞こえる母の声に相槌を打ちながら鍵を閉める。鍵をポケットにしまい、歩きながら、携帯の向こう側の声に耳を傾ける。
「大丈夫、元気にしてる。年末年始は、ごめん、課題が終わらなくて。うん、うん……。就活はちゃんと考えてる。え、今日? 今日はちょっと、講義があるから。心配しないで。試験終わったら帰るよ。本当。今は忙しいだけだから、うん」
母との通話を切った頃には、大学が見えてきた。
昨夜の雨が深夜の間に雪へと変わり、地面はうっすらと雪が残っている。すでに何人も通ったあとゆえ、燃え尽きた炭よりも淡く灰に染まっていた。
それは大学も同じこと。キャンパス全体がモノクロ映画のように色彩を感じない。教室も明かりはついているが薄暗い。
猫西は大学の教室の最後部座席で、ひとり俯いていた。マイク越しに乗る教授の吐息を不快に思いながらホワイトボードを眺め、ときおり机の上のプリントに目を通した。ホワイトボードの上を走るペンは小さく、インクも切れかかっているようで読めない。
教室に目を向けると、静かに音が鳴っていた。
シャーペンの走る音。机に突っ伏する学生の寝息。隣の学生が携帯を操作するたび画面を滑る爪の音が、カツカツと鳴り、耳心地が悪い。
教室全体の音が、猫西の耳を襲っていた。音質の悪いイヤホンを挿している気分がして、呼吸が浅くなる。
猫西は音も立てず教室を抜け出した。
廊下はしんとしていた。暖房は届かず、冷気がゆるんだ肺を引き締める。
廊下は窓の外からの日差しを受けてキラキラと輝き、さながら海面のように波打って見えた。きれいだ、と猫西は思った。背後から聞こえる教授の声さえ遠く感じはじめていた。
ふと右手の窓が気になった。吸い寄せられるように近づき、窓を開ける。冷たい風が前髪をさらう。黒い瞳が輝く。
窓から身を乗りだした。地面が光を浴びて輝いて、アスファルトも、木製のベンチも、葉を落とした木々も、視界に映るすべてに色がついていく。マロンケーキのごとき髪色をしたボブの女子大生の後ろ姿さえ、風景画の一部のようだ。
この世にあるものとは思えぬ美しさが、そこにある。
触れてみたい。猫西は手を伸ばす。
強い輝きで火傷してしまうかもしれない。それでも触れたら、どうなるか気になる。燃えてしまうか。輝きを失うだろうか。きっと汚れるだろう、こんな指で触れたら。触れたら? 触れられるのか? だって、ここは2階……。今はそんなこと、どうでもいい。触れたいことだけ知っていれば、それでいい。かかとを浮かすあと一歩。
触れたい衝動を振り切り、猫西は後ろを振り返った。
背後で熱を感じたのだ。太陽のそれとは異なる、不安にさせる熱を。地面の輝きとも異なる、禍々しい光を。草花の甘いにおいとは違う、餌を求める獣のような飢えたにおいを。かつて猫殺しと対峙したあの日と酷似した、嫌な感覚だった。
光を見た直後の目では廊下がいささか暗い。目を細めると、猫西の影が伸びた先に真っ黒な人物が立っていた。
「……副部長、ですか?」
「懐かしいね。そう呼ばれると昔に戻った気分がする。でも今のぼくは副部長じゃない。影井だ。なんの肩書きもない、ただの影井」
影井は首まで素肌を覆った黒のニットを着て、黒のニット帽を被っていた。帽子の素肌の間で脱色された髪をちらつかせていた。
「今日は猫西くんに会いに来たんだ。君のおかげで、ぼくは目が覚めた。部長、彼は間違っていた」
「……はあ、そう、ですか」
出し抜けの再会に唖然としていた猫西だったが、影井の言葉で正気を取り戻した。
部長が間違っていたなんて、誰だって、そう思うだろう。なぜ今になって、わざわざ言いに来たのだろう。
猫西の訝る眼差しに、影井はまるで気づかない。
「そして、ぼくは感謝もしなければいけない。猫西くんのおかげで保護部は守られたのだから」
影井は穏やかな声で話した。
「守られた?」
「あの鍵を持っているのは君だ。あれがあれば、またはじめられる」
くすんだ黒い瞳を輝かせる彼から、猫西は目をそらした。彼は何も知らないのだ。気が重い。しかし、言わねばならない。
「僕は鍵を手放しました。保護部はなくなります」
影井は「そうなんだ」と頷き、視線を地面のほうへと落とした。
「誰に渡したの?」
「……」
「猫西くんが持っていたろ? 誰に、渡したの?」
猫西は答えようとして、息を止めるように口をつぐんだ。汗が首を伝う。
影井は「言いたくないのか」と言い、目線をあげた。
「猫西くんの渡す相手だ。おおかた検討はつくけれどもね」
「知ってどうするんです」
「ぼくが取り返そうかと思って」
「鍵を?」
「そうだね。ゆくゆくは保護部を」
「なぜ」
問えば、影井がやわらかく微笑んだ。まるで邪気を知らぬ赤子のような笑みだ。
「やり直すため。あのね、部長……、彼は確かに悪いことした。でも、だからこそ、ぼくらはきっとやり直せる。やり直すべきなんだ」
「どうして、今になってそんなことを言いだすんです」
「君を見つけたから」
影井がスマホを取り出して操作したあと、猫西のポケットに入っているスマホが鳴った。
「猫西くん。今夜、待ち合わせをしよう。君がぼくに共感してくれるなら、ぼくたちやり直せるよ」
いつの間にか講義が終わり、教室から出てきた生徒にまぎれ、影井は姿を消した。
猫西は階段を駆け降りる。法学部棟を出て辺りを見回したが、すでにいなかった。
「上だったか」
建物を見上げたところで、影井の姿は見えない。
諦めて視線を頭上から地上に戻したとき、ひとりの影が視界にはいった。
風が吹き、彼女の茶髪が顔の近くで揺れる。顔についた髪を振り払うように首を振り、猫西と目が合った。その目は冬の日差しみたいにやわらかく、血色のよい顔やリップに保護された唇は、日を浴びるトマトのように瑞々しい。
大栗だ。
彼女の名前を思い浮かべると頭痛がした。体は硬直し、喉はつっかえ、まともに声も出ない。影井と話していたときの汗が冷えて、わずかに寒気もする。
大栗もまた、目を見開き固まっていた。
動けないふたりの間で、チャイムが鳴り響く。
先に動いたのは猫西だった。教室に向かおうと、校舎につま先を向ける。
「待ってください」
大栗は一歩踏みだした。彼女の燃えるような瞳に呼び止められると動けなくなるのだった。