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次から次へと溢れてくる涙が、制服にシミを作っていく。
「ルチル? どうしたの?」
優しくて柔らかい声が降ってきて、顔を上げた。
眉尻を心配そうに下げていたアズラ王太子殿下の面持ちが、眉間に皺が加わったことで泣きそうな表情に変わっていく。
「どこか痛い? 苦しい? それとも怪我した?」
「アズラ様……」
しゃがんで目線を合わせてくれたアズラ王太子殿下に抱きついた。
アズラ王太子殿下は、尻餅をつきながらも抱き留めてくれる。
「どうしたの? 何があったの?」
ああ、よかった。
あたしはきちんと生きてきていた。
あたしとして、ルチルとして、この世界でフリじゃなくて一生懸命楽しく生きている。
だって、アズラ様をこんなにもはっきり愛しいと思える。
この気持ちは紛れもなく本物で、この人に嫌われたら生きていけないと思うほど心を占めている。
痛いほどの恐怖が初めての感情すぎたから、今までの人生が偽物のように感じてしまったんだろう。
あたしは、生まれてからずっと家族とアズラ様に幸せをもらっていた。
怖いものとは無縁で過ごせるように守られ、優しさに包み込まれて生きてきた。
だからこそ、目の前で突きつけられた地獄に簡単に落ち、自己嫌悪を誘発してしまった。
痛みを感じるだけが生きている証明じゃない。
楽しいことも嬉しいことも怒ることも、好きも嫌いも、美味しいも不味いも、幸せも不幸せも、全てが生きている証だ。
そして、何よりもアズラ王太子殿下という、こんなにも生きるための原動力になる人に出会えている。
推しとか尊いとかの感情を遥かに上回る「愛している」という気持ちで幸せになれる。
「ルチル、大丈夫だよ。もう大丈夫だから、泣かないで」
背中を撫でてくれる手が温かい。
「アズラ様、好きです。愛しています」
「僕も愛してるよ」
何分、何十分そうしていたか分からないが、何とか震えは止まった。
ゆっくりと体を起こすと、まだ流れている涙をアズラ王太子殿下が拭ってくれる。
「ルチルが泣くなんて珍しいね。何があったか教えてくれる?」
「……はい」
「殿下、既に目立ってますが、これ以上ここで目立つのはよくないと思いますよ」
上から声が聞こえて視線を上げると、オニキス伯爵令息がいた。
目が合うと、いつもの邪気のない笑顔を返してくれる。
「ルチル嬢、歩けますか?」
「たぶん……」
アズラ王太子殿下が、抱きかかえるように一緒に立ってくれた。
エスコートされる形で支えてもらいながら、ゆっくりと歩き出す。
オニキス伯爵令息は、いつもはアズラ王太子殿下の隣を歩くのに、今はルチルの横を歩いている。
「遅いからって迎えにきて正解でしたね」
「そうだね。でも、最初から一緒に行けばよかったよ」
人が居ない教室を見つけ、3人で入った。
通路を挟んで向かい合うようにアズラ王太子殿下と座り、オニキス伯爵令息はドアの近くで立っている。
「ルチル、話してもらっていい?」
「はい」
思い出すと震えそうになる体を、手を握りしめることで抑えつけようとした。
アズラ王太子殿下が、席から立ち上がり、目の前で両膝をついて手を握りしめてくれる。
こんなにも泣き虫だったのかと思うほど、涙が次から次へと落ちていく。
職員室での事をつっかえながらも話し終わると、立ち上がったアズラ王太子殿下に優しく抱きしめられた。
温かい腕が、安心感を与えてくれる。
「怖かったね。側にいなくてごめんね」
「アズラ様が悪いわけではありません」
「そうですよ、殿下。誰が悪いかで言うなら、確実にマルニーチ先生です。親切心で魔法陣を教えるなら、実践する必要はありません」
オニキス伯爵令息の怒っているような声が聞こえてくる。
「ああ、そうだね。許すつもりなんてないよ。でも、ルチルを神殿から守ってくれているような気もする。今は味方が1人でも多い方がいい」
「味方とは限りませんよ」
「信用はしないよ。さっきも言ったように許すつもりはない。分からないことが多い今だけ、利用しようと思っているだけだよ」
「分かりました。俺も警戒しときます」
「そうしてくれる。それと、父上とアヴェートワ前公爵に報告をお願い」
「はい。俺は報告が終わったら廊下に出ていますので、2人でゆっくりしてください」
「ありがとう。そうさせてもらうよ」
ドアの音が聞こえた。
オニキス伯爵令息が出て行ったのだろう。
アズラ王太子殿下が、少しだけ体を離して、顔を覗き込んでくる。
優しい微笑みが胸を温めてくれるのに、涙は止まってくれない。
「明日は学園を休んで、どっか出掛けよっか?」
「アズラ様……」
「どこでもいいよ。昔みたいに遊びに行こう」
「……部屋で、ずっと抱きしめていてください」
この安心する腕の中から出たくない。
「分かった。王宮の僕たちの部屋に戻ろう」
オニキス伯爵令息に今度はチャロに連絡をしてもらい、迎えに来てもらった。
明日学園を休むことは、陛下や祖父にも報せてもらっている。
祖父には、カーネや護衛騎士は必要ないという言葉も添えてもらった。
王宮に戻り、そこからは、ひたすらベッドの中で抱きしめてもらっていた。
と言っても、泣き疲れたのかすぐに眠ってしまい、夜中に1度起きた時はアズラ王太子殿下は眠っていた。
抱きしめてもらっている腕の中で、ルチルから擦り寄り、温もりに縋るように眠った。
次の日はベッドの上で食事をし、それ以外の時間は後ろから抱きしめてもらい、アズラ王太子殿下の胸に背中をずっと預けていた。
背中から這うように広がっていった、ムズムズした感覚を忘れてしまえるように。
明日の投稿は、お休みになります。
明後日以降、アズラの誕生日前夜祭、アズラの誕生日となります。
ルチルとアズラのターンが続きますので、ニヤニヤしていただければと思います。
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