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8月になった。
末にはアズラ王太子殿下の誕生日がある。
「誕生日が待ち遠しいなぁ」と心を躍らせていると、先生に注意された。
帰りのHRだからいいじゃないと、思ったのが悪かったのだろう。
「放課後、職員室に来るように」と言われてしまった。
「ルチル、一緒に行こうか?」
「いいえ。もうすぐアズラ様の誕生日だなぁと、考え事をしていた私が悪いのです。1人で怒られてきますわ」
「ルチル様は、アズラ様の誕生日に気合いが入りすぎなのよ。寮でもずっとニヤニヤして気持ち悪い」
「そうなの? 誕生日は1日一緒に居られるもんね。僕も楽しみにしているんだ」
ふふふ……私の楽しみとアズラ様の楽しみは違うんですよ。
どんな顔をしてくれるのか楽しみで、妄想が膨らみます。
妄想で、ご飯が食べられそうです。
ごちそうさまです。
「職員室の後はカフェテリアに行こう」
「では、先に行っておいてください。後から合流しますわ」
「職員室の前で待ってるよ」
「でも、アズラ様を待たせてしまっていると思うと上の空になって、お説教が長くなるかもしれませんから。カフェテリアで待っていてください」
王子様を職員室前の廊下で立たせたままなんて、ダメに決まっている。
注目の的になる。
職員室なら他の先生もいるし、マルニーチ先生が既にストーカーになっていたとしても大丈夫でしょ。
それに、先生が覗き見を始めるのは来年からだから、まだ惚れられていないと思うんだよねぇ。
何がキッカケで、ルチルを好きになったかの描写は無かったからなぁ。
授業は分かりやすいし、時々笑いも入れてくれる良い先生だから、ストーカーにならないなら仲良くしたいんだけどな。
なんて、呑気に考えていた私はバカだった……
職員室って先生たちの机が規則正しく並んでいて、何処からでも部屋全体が見渡せるようになっているもんじゃないの!?
アズラ様についてきてもらえばよかった……
職員室は、個別塾や会社の打ち合わせスペースのように、パーテーションで各先生ごとに区切られていた。
1部屋キングサイズのベッドを2個置いても、余裕があるほど広い。
カーテンがあり、カーテンを引いてしまえば個室に早変わりになる仕様だ。
ルチルが後悔しながらマルニーチ先生のところに行くと、ルチルを座るように促した先生はカーテンを閉めてしまった。
困る……非常に困る……
相手は先生といえど、ストーカー気質の男性だ……
襲われたら終わりだ……
「先生、あの私、アズラ王太子殿下の婚約者でして」
「知っている」
感情が読み取れない表情で、目の前の椅子に座っている。
なんだか距離が近いような気がする。
この人はストーカーだと思いすぎているせいで、距離が近いと思ってしまっているのだろうか。
「カーテンとはいえ、このような空間に男女で2人っきりというのは困るんですが」
すると、マルニーチ先生が可笑しそうに笑い出した。
「アヴェートワ公爵令嬢は、俺を男として見ているのか。覚えておこう」
ちっがーう!
性別のことを言っただけで、男として見ているなんて言ってない!
そもそも好みじゃない!!
言い返そうものなら、また違う解釈をされそうなので、押し黙ることにした。
「今日、呼び出した理由は教えてほしいことがあったからだ」
「私、HRで考え事をしていたから怒られるんだと思っていました」
「そんなことで怒らない。周りに人が居ないところで話したいことだったからな。どう呼び出すかと悩んでいたら、丁度いいタイミングでボーッとしてくれた。だから、呼び出す理由にしただけだ」
「分かりました。それで、何をお聞きされたいのでしょう?」
マルニーチ先生が、面倒臭そうに息を吐き出した後、真剣な面持ちで見てきた。
「金色の魔法が、何の魔法か分かったことはあるか?」
思い付いてもいなかった質問をされて、心臓が萎縮した。
どうしてマルニーチ先生が、そんな事を聞いてくるのかが分からない。
「アヴェートワ公爵令嬢は、今魔法の授業で火の練習をしているだろう。魔法の練習は、誤爆して怪我をしないようにするためだ。だから、金の魔法が誤爆しないよう授業で手助けしたいと思っている」
ここでマルニーチ先生は、わずかに唇の端を上げて、乗り出すように身を寄せてきた。
椅子の背もたれがあって逃げられないと分かっているのに、仰け反ってしまう。
喉の奥で笑ったマルニーチ先生が、囁いてきた。
「というのは、表向きの理由だ。実は、神殿から学園側に問い合わせがあった。お前に金色の魔法について聞いて欲しいってな」
お前?
それに、何だろう? 背中がムズムズする。
「1ヶ月程のらりくらり躱していたんだが、向こうが痺れを切らしてな。このままでは学園に来そうな勢いなんだ。『何も分かっていない』そう返答していいか?」
「先生は……どうして、私に相談を?」
なにこれ……体が熱くなってきた……
「お前のことだろ? 他に誰に相談するんだ? それに、俺は神殿をよく思っていない。あいつらは狂気染みてるからな」
マルニーチ先生が、更に距離を詰めてきた。
耳元に顔を寄せられる。
逃げないといけないと分かっているのに、体に力が入らない。
耳に息を吹きかけられて吐息が漏れそうになり、必死に手で口を押さえた。
「さすがは未来の王太子妃。声を我慢できるなんて凄いな」
なんで? 媚薬?
でも、何も口にしていないし、何かを嗅いだわけでもない。
「最近になって、媚薬と同じ効果がある魔法陣が開発された。どこのどいつが作ったのか知らないが、相当強力なものらしい。お前が座った椅子には、その魔法陣が描いてあった。事前に魔力も流していた」
「な……なんで……そんなこと……」
「この魔法陣な、神殿が依頼して作らせたらしいぞ。何に使いたいんだろうな」
もう1度耳に息を吹きかけると、マルニーチ先生は体を離した。
始めのちょっと近いんじゃない? と思った距離まで。
「背中を背もたれから離してみろ」
言われるまま動くのは嫌だったが、言うことを聞かないと何をされるのか分からないので、ゆっくりと背もたれから体を起こした。
あれ? 体の熱が引いていく。
「それが、その魔法陣の対処法だ」
「先生は……」
「なんだ?」
「いえ、なんでもありません」
「アヴェートワ公爵令嬢、大人は子供を守るためにいる。何か困ったことや分からないことがあったら、1人で悩まずに相談に来ること。
分かったなら帰っていいぞ。神殿には『何も分かっていない』と伝えておく」
もう話すことはないという風に、机に置いてあった書類仕事を始めてしまった。
ルチルは立ち上がり、逃げるように職員室を去った。
体が震えていて、思うように歩けない。
怖かった……
逃げられない恐怖が、動かない体が、勝手に熱くなる体が……
このまま何かされ、気持ちいいと感じてしまい、アズラ様に見放される未来が……怖かった……
あたしは、今までルチルとして生きてきた。
何か起きたら対応してきたし、異世界だからといって夢のように軽んじてもいない。
そんなことをしたら、この世界の大切な人たちに失礼になる。
そう分かっていたはずなのに、前世からの延長という感覚が強すぎて、死んだ後にコンテニューをした気分になっていたのかもしれない。
本の中だと知って、より現実味が薄れたのかもしれない。
目の前が真っ暗になるような怖い想いは、前世を通しても初めてで、酸素を求めて息が荒くなる。
最低だ……最低すぎる……
あたしは今まで、全部分かっていたフリ、生きてきたフリだったのかもしれない。
恐怖と不安で痛い心臓が、生きていると訴えかけてくる。
震える体では、もうこれ以上動くことができず、その場に蹲ってしまった。




