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ルベルは最悪の朝を迎えた。頭痛が止まらず、食欲がない。もちろん、昨晩のうちに食べたものは、すべて戻してしまっていた。胃の中は空っぽなのに、胃はまだ何かを必死で出そうとしている。
「うっ、気持ちわりぃ。完全に飲み過ぎた」
気持ち悪いといっても、出勤しないわけにはいかない。ルベルは渾身の気力を振り絞って出かける準備をした。部屋を出ると、嫌味なくらいに晴天だった。これが何でもない休日であれば、なんと気持ちのいいことだろうと思うが、今日に限っては太陽が憎らしい。
騎士団の拠点に着いて扉を開けると、そこには昨日と変わらないタークがいた。
「おおっ! ルベルじゃないか。元気か? 昨日は楽しかったな! ちなみにわしは飲み過ぎて、何も覚えてないんじゃがな」
「あっ、おはようございます。隊長、何も覚えてないんですか?」
あれだけ飲ませてきたことを覚えていないことにもびっくりだが、あれだけ飲んだくせに気持ちよさそうに朝を迎えていることにはもっとびっくりだ。
「隊長、どんだけ強靭な体なんですか。まったく」
「そう言えば、マナはどうした?」
「あれっ? 先輩はまだですか?」
「ああ、まだ来てないぞ。昨日飲み過ぎたみたいだからな、体調が心配だな」
昨日、マナは文字通り酒に溺れていた。樽に入った酒を飲み干そうとしたが、途中で力尽き、樽に残っていた酒を浴びならその場で倒れた。そして、遂には自力で立ち上がることはなかった。
「そうですね。さすがの先輩でも昨日の様子だと、ちょっと心配ですね」
「ルベル、ちょっと様子を見に行ってきてくれないか?」
「えっ、流石にそれはちょっと……。ミールのやつにでも頼めばいいじゃないですか?」
ミールはルベルと同期の騎士団員だ。
「ミールは昨日負傷したから、今朝早くに王都へ戻した。ここにいても大した治療を受けられないからな」
「なっ、そう言えば、外に出ていた奴らももしかして一人も生還してないんですか?」
昨日の魔物の襲撃の際、騎士団員は外に五組出ていた。魔物にやられている確率が高いとはいえ、一人くらいは生還できなかったものか。
「ああ、誰も戻って来ない。だから、女性騎士団員はマナしかおらんのだ。すまんな、ルベル。行ってきてくれるか?」
ルベルの頭痛はさらに酷くなった。
ルベルは頭痛を抱えながらも、何とかマナが宿泊している宿に辿り着いた。騎士団が借り上げている騎士団員専用の宿だ。もちろん男女で別れており、今ルベルが立っているのは女性用の宿である。
「な、なんか緊張してきたぞ」
ルベルは昨日の酔いがまだ抜けてないせいか、不思議な気持ちになっていた。胸の動悸が止まらない。心拍の速度が上がるとともに、頭痛の周期が連動する。このはやる気持ちを抑えたいが、止まってくれない。
「なに、ここには先輩しかいないんだ。変な疑いをかけられることもないはずだ。なんせ隊長の命令だからな。正義は俺にある。うん、先輩は普段だらしなさそうだが、一応王国の誉れある騎士団員だ。最低限の嗜みは持ち合わせている……はずだ」
一瞬、急激な不安に襲われたが、酒が抜けきっていない頭ではこれ以上の思考は無意味だと悟った。ルベルは、満を持して宿の入口の扉を開ける。
受付には誰もいなかった。出かけているのだろうか。不用心な。いやいやそうではない。ここを襲う夜盗などいない。そんな奴がいたら逆に勇気を称えたい。ここにいるのは王国最強の騎士なのだ。
「せんぱーい。起きてますか? ルベルです。ターク隊長の指示で来ました。決してやましい気持ちではないですからね。せんぱーい、どこですかー」
ルベルはマナの部屋を知らない。いや知らなくて当然だ。だが、それは一目瞭然だった。廊下にはマナの靴と、靴下が直線状に散乱していた。恐らく歩きながら脱いで部屋に向かったのだと思われる。その脱ぎ散らかした痕跡を辿ると一つの部屋の前へと導かれた。この部屋だ。
ルベルは、部屋の扉の前まで来て、さらにに緊張してきた。マナと言えど、やはり女である。中を覗いてみたい気持ちと、見るのが怖い気持ちが錯綜して、どうしたらいいか分からずしばらく立ち尽くしたまま動けなかった。
「そうだ。普通、まず中にいるかどうかの確認からしよう」
ルベルは、平常時であれば常識であるはずの、基本的な配慮にようやく気が付いた。
「せんぱーい。いますか? ルベルです。起きていたら返事して下さい」
扉を軽く叩きながら、マナが返事してくれることを切に願った。だがそんな淡い期待を裏切るかのように、中からの返答はなかった。ルベルは先程よりも強く扉を叩いた。
「せんぱーい! 起きて下さい。いるんなら返事して下さい。そうしないと開けますよ!」
少し大きめの声を出して呼びかける。だが、部屋の中からの返答はなかった。仕方ない。ルベルは覚悟を決めて扉の取手に手を掛けた。
「開けますからねー。入りますよー」
扉を開けて、部屋の中を恐る恐る覗いてみた。部屋の中は、先程の痕跡と同じように、服が脱がれたままの形で置かれていた。いや置かれているというよりも、そのまま放置されていた。そしてその服を辿っていくと、当然のようにそこには寝床があった。ルベルは寝床の側までやってきた。布団にくるまっているため、中に誰がいるのかは分からない。耳を澄ます。微かな寝息が聞こえてきた。どうやら息はあるようだ。ルベルは一先ずそこに安心した。とはいえ、ここからどうしたらいいものか。だが、手をこまねいていても事は進展しない。ルベルは思い切って直接起こそうと、布団越しに手を置こうとした。すると、急に布団から人が起き上がってきた。
「何者!」
起き上がってきたのは間違いなくマナだった。何者かの気配を察して起きたのだろう。目は虚ろで焦点が合っていなかった。どうやら本能だけで起き上がったようだ。だがマナは服を何も着ていなかった。ルベルは完全に固まってしまった。いや、何も弁解することなく、すべてを状況に委ねるしかないと観念したという方が正確だろう。両手を上に挙げ、かろうじて目は逸らして、『何も見てませんよ』と暗に言おうとだけは試みていた。
マナは本能だけで動いていた。侵入を許してしまった相手を退治するために、寝床の脇にしまっていた剣を抜いて瞬時にルベルに向けた。その動作には無駄がなく、息をつく暇もなかった。ただルベルは、マナが服を何も着ていなかったため、それどころではなかった。
「せ、先輩! 僕です。ルベルです。しっかりして下さい」
ルベルは命の危険を感じ、必死でマナに呼び掛けた。抵抗しようにも目の前のマナは裸である。すると、マナの剣がゆっくりと下に降ろされた。
「ん……。あれっ、ルベル……。何でこんなところに……って、はぁっ!?」
マナはとっさに布団で体を隠す。ルベルはこれ以上は首が曲がりません、と言わんばかりに首を捻じ曲げて目を閉じていた。
「ル、ルベル。あんたもしかして……」
「いや、先輩。違うんです。大きな誤解をしています。こ、これは隊長の命令なんです。先輩が、なかなか来ないから……」
自分は嘘はついていないはずなのに、マナには、まったく伝わらず上滑りしているとしか思えない。ルベルは再び命の危険を感じた。
ちょうどその頃、タークは戻ってこないルベルを心配して、自室の窓から外を眺めていた。ふと、騎士団の宿の方から大きな悲鳴が聞こえてきたので、少し驚いたが、マナが無事だったのだと思い、安心した。そろろそ二人が戻ってくる。彼らには次の重要な任務を任さなければならない。危険な任務だがあの二人ならきっとやってくれるだろう。
タークは、二人への次の任務内容知らせるための資料を取りに席を立った。