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マナは森の中の結界領域付近を巡回していた。結界領域とは、魔族領と人間領の境界線にかけられた結界の壁のことを指す。この結界のおかげで、人間は魔族領へ入ることが出来ず、魔物も人間領へ入ることができなくなっている。
結界は、魔力を持つものにしか見ることが出来ないため、その付近には基本的には誰も近寄ってはいけないことになっている。この領域は、領域騎士団と呼ばれる者たちにのみ、近づくことが許されている。彼らは魔力を持つだけでなく、剣術、体術に優れており、この結界領域を守護するために選び抜かれた精鋭中の精鋭である。
「あーあ、こんな結界無くなればいいのにな」
巡回に飽きてきたマナが独りごちる。
「先輩っ! いくらなんでもそれはまずいですって。他の誰かに聞かれたら首が飛びますよ。首が飛ぶって、仕事を失うって意味じゃないですからね。まんまの意味ですからっ! 一緒にいる僕まで処罰されるんですからね。気をつけて下さいよ」
一緒に巡回している部下のルベルが、必死でマナを諌めようとする。
「なんで? こんな結界があるから、魔物と日々戯れることができないんだよ?」
「また恐ろしいこと……。この広い人間領の中でも、そんなことを言うのは先輩くらいですよ。僕だから聞かなかったことにできるんですからね。くれぐれも他の人の前で、特にランクルさんにだけは聞かれないようにして下さいね。その場で殺されちゃいますから」
「ははっ、ランクルなんかに殺されるほど私は弱くないよ。でも、心配くれてありがと、ルベル」
「僕が心配してるのは自分の命なんですけど……」
ルベルはマナと組んで一年になる。ルベルは、マナが極度の魔物好きな性格であることを知っている唯一の存在だが、そのせいで彼の気苦労が耐えることがない。
「ねぇ、ルベル」
マナの口調が急に改まったものに変わったので、ルベルは嫌な背筋に嫌な悪寒が走った。
「……なんですか?」
「なにそんなにビクビクしてるのよ。違うわよ。前みたいに魔物を内緒で連れ帰って欲しい、なんてもう頼まないよ」
「あ、当たり前ですっ!」
ルベルの頭の中にかつての悪夢が蘇って身震いした。
「そうじゃなくて。勇者の話、知ってるよね?」
「勇者ですか? もちろんですよ。この結界を大昔に作った人のことですよね」
「そう。でね、この結界を作ったのが勇者…」
マナが急に話を止める。
「先輩? 急にどうしました?」
「しっ。静かに」
マナが人差し指を口に当てる。ルベルも耳を澄ました。遠くから、かすかに呻き声が聞こえる。間違いない。魔物の声だ。しかもこの声から察するにかなり大物だ。
声は次第に大きくなっている。
「先輩……」
「分かってる。向こうもこちらに気がついている」
呻き声が止んだ。二人は全神経を集中させる。
「……来る。上だ!」
「えっ!?」
一瞬の静寂を破って、何かが高速で飛んできた。マナは素早く横に飛んで避ける。ルベルは僅かに遅れ、右足に傷を負った。
「ぐぅっ! いってぇぇ!」
視線を上げると、ルベルの目の前には巨大な四足歩行の魔物がいた。大きな猫のような見た目だが、愛くるしさは微塵もなく、全身で殺気を漲らせている。厄介なことに、その巨躯からは想像も出来ないような速さで動けるようだ。
「ふぅ、あれまともに食らってたら死んでたな」
ルベルの緊張感が一気に増す。これ程の大物が結界を超えてくるのは珍しい。命の危険はあるが、討伐すると勲章ものだ。幸い足の怪我は軽傷である。痛みはあるが気合いで何とかなる……はずだ。相手は次の攻撃で一気に間合いを詰めてくる。そこで勝負を決めたい。
魔物の呻き声が再び止んだ。ルベルを睨んだまま動かない。ルベルも呼吸を整えて攻撃に備える。緊張が極限に達する。
だが、永遠とも思える静けさを破ったのは、マナの声だった。
「きゃゃゃわわわわわーい。しかも身体はもふもふー。やばいやばーい。ルベル、見てこれ! ほらっ、この毛。硬いかと思ったらもふもふだよー」
マナが魔物に飛びついて嬌声をあげる。ルベルは頭を抱えた。また始まった。今に始まったことではないが、マナはいつもこうなのだ。どんな魔物であろうと可愛くて仕方がないらしい。
「先輩……。あっ、危ないっ」
魔物は、自分の顔の周りに纏わりついてくる人間が不快に思ったのか、自分の爪で引き剥がしそうとしてきた。いくらマナでも、あれをまともに食らっては無傷では済まない。
「よっと。おお! この鉤爪もいい感じの長さと硬さだね」
マナは素早く避けて、今度は鉤爪を撫で始めた。
「まったく。どんな神経してるんですか。……で、先輩。こいつをどうするおつもりで?」
ルベルは完全にやる気を無くしていた。この魔物はもうマナの手の中だ。自分の出番はなくなった。あとはいつものように、マナが好きなようにするだけだ。
「ルベル、さっき言いかけたこと言ってもいい?」
「こんな時に何ですか? 早くそいつ何とかして下さいよ」
魔物はマナを振り落とそうとした。だが、マナはそれもひらりとかわし、再び魔物の背に乗って首の辺りに顔を埋めてスリスリしている。
「私ね、勇者になりたいんだー」
顔をスリスリさせながら、ルベルに答える。
「何を今さら……」
剣術、体術、魔法。どれを取ってもこの王国で勝てる者がいない最強の存在。この王国で最も勇者に近いと噂されているマナが勇者になりたいって。
「先輩、何言ってるんですか? 先輩以外に勇者になれる人が他にいますか? 勇者になって、この結界を守ってもらわないとこっちが困りますよ」
魔物は雄叫びをあげながら立ち上がり、マナを振り落とそうとする。マナは振り落とされないよう、もふもふの毛を強く握って耐えた。
「おっと、危ない。落ちちゃったらどうするのさ」
いや、あんたを落とそうとしてるんですけどね。ルベルは心の中でマナに突っ込む。
「勇者になって、やりたいことがあるんだよー」
「そうですかー。分かりましたから、さっさとそいつを何とかして下さいよ」
マナのやりたいことには興味がなかった。ルベルは『この国で一番強い者がなれる』と言われている勇者になろうとは思っていなかった。いや、かつては思っていたのだが、目の前にいる素質の塊を前にして、その夢はとうの昔に捨てていた。
「そうだねー。りょーかい。この子可愛過ぎて、殺しちゃうと可哀想だから、向こう側へ行ってもらうね」
マナは魔物から飛び降り、剣を構えた。マナが魔法を詠唱すると、マナの手から剣に魔力が伝わり始める。マナの剣の周りに小さな風が起こり、その風は次第に大きくなる。ついには剣の周りに竜巻に似た風の渦が発生した。
「出た。先輩の得意の魔剣。いつ見ても圧巻だわ……。これで炎でも何でも出せるんだから反則だよな」
魔物はマナの異様な魔力を感じて、一歩後ろに下がる。
「ごめんね。君はこのままこっちにいたら殺されちゃうの。どうやって入ってきたかは分からないけど、すぐに帰してあげるからね」
マナは剣を両手で持ち直して、斜めに構えた。
「いくよっ! 魔剣、風の巻!」
マナが剣を横に大きく薙ぐ。同時に大きな風の塊が魔物に向かっていき、魔物を吹き飛した。魔物の身体は結界にぶつかったが、そのままの勢いで結界の向こう側に吸い込まれていった。
「ふぅ、これにて一件落着」
ルベルはマナの剣に見惚れていた。
「さすがです、先輩。課題はネーミングセンスだけですね」
「何言ってるのよ。ルベルの魔法に比べたら私のなんてお遊びみたいなものだわ」
「いや、僕はその魔法を戦闘に上手く活かせないボンクラなんで……。で、あいつのこと、上に何て報告するつもりですか?」
「いい質問だね。ルベルくん。これを見たまえ」
マナの手には魔物の毛が握られていた。
「これを見せて、向こう側へ追っ払いましたって言えば、大丈夫でしょ」
マナは満面の笑みでピースしている。そんなマナを見て、ルベルは不思議に思っていた。普通であれば、こっち側に入ってきた魔物は、問答無用で殺すことになっている。ルベルの知る限り、マナはそれをせず、魔物を向こう側へ戻すことしかしてない。マナの実力であれば、殺してしまう方が手っ取り早いはずなのに。この人は何を考えいるんだろう。そんなに魔物が可愛いのか。ルベルはふと、先ほどマナが言っていた『勇者になったらやりたいこと』に興味が湧いた。
(ん、もしかして…。いや、まさか……。いや、先輩ならあり得る。でもそんなことしたら……)
「せ、先輩。ち、ちなみにですが、勇者になってやりたいことって……?」
マナは、まるでそれが当たり前のことだと言わんばかりに、あっさり答えた。
「うん、もちろん。この結界を解くことだよ」
嫌な予感が的中した。まさかと思ったがマナならあり得ると思ってしまった。思い当たる節があり過ぎる。ルベルは空に向かって叫んだ。
「だ、駄目に決まってるじゃないですかーーーー!」