婚約者は嫉妬しているか
「イシュタル様。お疲れなのですね。」
その声に、自分が舟をこいでいることが分かり、慌てて“目を覚ますのよ!”と夢の中で叫び、目を何とか開けた。
「申し訳ないありません。国王陛下。お義母様。アブロ様。このような場所で、醜態をお見せしてしまって…本当に申し訳ありません。」
父の国王と最近その寵愛を一身に受けている年若い妃のバニァは、驚いて言葉が出なかった。イシュタルは、父、国王に一番愛されていることを公然と示すためもあり、国王を「父上」、間違いではないし当然ではあったが、と呼び、形式上では義母に当たる父の妃達を、特にバニァには、見下すような態度を示していたからだ。
今日は、父、国王とバニァ妃、そして彼女の婚約者である、国第一の貴族カソ家の長男のアブロとの昼食だった。国王がバニァと愛娘イシュタルとの不和を少しでも解消させたいと思ってなことだった。嫌がるバニァの説得に、泣いて嫌がる彼女を(かなり演技が入っていたが)、かなりの努力をして納得させていた。アブロを同席させたのも、この席が少しでも和やかなものにしたいていう意図があったからである。それがあっさり解消したのである。言葉の上ではあるが、それすら今まで、超えがたいものだったのだ。そのことを察しなかったのか、アブロは、
「最近、毎日、勇者様の夜食を自らお作りになっておられるとのこと。その上、魔法や武芸の修練に励まれているとのこと。さすがイシュタル様と尊敬申し上げますが、あまりご無理なさらないほうがよろしいかと思うのですが。」
しかし、すぐに自分に向けられている3人の目が、“勇者様に嫉妬している!”というものであることに気がついて、
「いや、決して…。」
と慌てたが、にっこりと微笑んだイシュタルが、
「嫉妬していただけるとは嬉しいですわ、それだけ想われているということですから。でも、私と勇者様との間にはそのような関係は全くないありませんわ。どうでしょうか、今晩ご一緒に、勇者様の夜の特訓を見に行きませんか?」
かれは、少し躊躇したものの、
「ぜひ、そうさせて下さい。勇者様には、まだ親しくお話しをしたことがありませんでしたから、よい機会です。」
彼は、努めて、純真そうな表情を装ったのだった。
その夜、彼女が勇者のためのビーフシチューを作り終えたところに、侍女と従者を連れたアブロが現れた。
「お待ちくださいませ。すぐ終わりますから。」
侍女達に手伝わせながら、てきぱきと動き回る婚約者を、アブロは不思議なものを見るような表情を向けていた。
「さあ、行きましょう。」
シチューのナベやパン、ビールなどを持った一行が出発した。
「イシュタル様。国王陛下が、今日のご態度を大変褒めていらっしゃいました。しかし、どうしたお気持ちの変化があったのですか?」
「亡き母が夢に出て、今までの私の態度をお叱かりになったのです。それで反省して、態度をあらためたのです。」
”あの妃が、夢で?”疑わしいというアブロを見て、“本当に、父上の方から言ったのかしらね?この質問は。”
「勇者様。この魔法は?」
「夢でね。前世の記憶か、神の御導きか?ご存知ではありませんか?」
宮廷魔術師は首をひねるばかりだった。陽炎のように周囲がぼやけ、複数の影が現れ、それが現実の人間と区別がつかなくなるものと奇妙な無数の光が体を拘束するものと相手の上から衝撃波が落ちてきて相手を粉砕するものの3つの魔法だった。”まあ、あいつらの秘術みたいなものだからな、こいつが知らなくても当然だろう。あの記憶だけでは完全ではない。何とか、少しでも、話だけでも…取りあえず自分で考えるしかないか、当分は。”
「夢の意味はそのうち明らかになりましょう、勇者様。」
彼は、勇者が考え込んでいたのを心配して、元気つけようとした。
「ありがとうございます。ところで、勇者ではなく。」
とその時、
「勇者様!」
イシュタルだった。彼女の隣にいる若者を見て、”婚約者が付いてきたか。相変わらずのイケメンだな。お似合いの美男美女なんだが、こうして並んでいる姿はな。”ため息をつきたくなるのを、あわてて抑えた。
「勇者様。あの時以来、ご挨拶もせず申し訳ありません。」
頭を軽く下げてから、握手を求めるため手を差し出した。それをうけて握手をしながら、
「皆さまにお願いしているのですが、ヨツユキ・テンチ(四行 転定)ですから、テンチかヨシユキと呼んでいただければと思うのですが。」
曖昧にアブロは笑った。騎士長達も加わって休憩になった。深皿に入ったシチューをすすりながら、
「お前のところでもか?こっちも、見たこともない剣技を見せられたよ、夢で見たとか言ってな。」
騎士団長は愉快そうに言った。
「勇者様と?この数日、共に剣や魔法の鍛錬はしてはいるが、直接には我々とだし、勇者様とは二言三言話すだけだ、何もないさ。」
アブロの従者の問いに大きく手を振って否定した。
「あれから不眠不休の特訓、本当に感服しました。姫様自らお夜食を御作りになる理由がよくわかりました。」
イシュタルが彼のコップにワインを注いだ。ヨツユキのコップには、イシュタルからワインの瓶を取り上げた侍女が中身のワインを注いだ。
「彼ったら、私達を嫉妬しているのよ。」
彼女が、さも愉快そう言ったので、アブロはあわてて
「そ、そのようなこと・・・。」
「私は元の世界では単なる庶民に過ぎません。私の元居た世界にも高貴な方々はおいででした。声をかけていただいたら、感激いたしますが、それ以外の感情は沸いてこないものです。高貴な方々に対しては恐れ多すぎて、恐縮してしまうからでしょう。王女様に対しても同様です。」
テンチは、穏やかな口調で彼の疑いを否定した。彼は半信半疑だったが、”噓つき!”、”未練がありそうだな”、”何よ、焼きもち?”と二人の間で火花が走っているのには、誰ひとり気付くことはなかった。
彼の不眠不休の修練は、12日で終わりとなった。さすがに、12日目の午後には、休息の際、うとうとしかけていたし、夜になると流石に疲労感が強く感じれた。
「勝手を言って申し分けない。明日は、1日休ませていただきます。朝、何時に起きれるか分かりませんので、食事は部屋の前に置いておくようにしていただきたい。」
そう言いながら、少しふらつくようですらあった。食べ、体を洗う、小休止だけで10日以上も不眠不休なのだから、誰もが納得し、夜明けと共に、自分にあてがわれている部屋に向かう彼を見送った。