第36話 駭
Fブロックに圭がいる。
今日そこで術式が行われると言っていた。一体、どんな術式が行われるのだろう。
僕の中に入り込んだ彼が、迷わず僕をその場所へと連れて行く。そうはいっても、僕自身の足で向かっているのだが。
擦れ違う塔の人たちが、僕に頭を下げる。
……どんな立場なんだ……。
術式は気になるところだが、それ以上に圭に会える事に、一番、気が引かれていた。
塔の上へと上がって行く。
だけど……。
僕は、胸にそっと手を当てた。
静かになった圭の心臓。そもそも、圭の心臓がここにあるというのに、圭が本当にいるのだろうか。
当たり前の事を思ったら、僕の心臓が大きな音を響かせる。
Fブロックに辿り着いたが、足が竦んだ。
この扉の向こうに……圭が……。
本当に圭が……?
僕の意思で立ち止まったままだったが、ドンッと背中を押されるような感覚に足が動かされた。
「あっ……」
足が進んだ途端に扉が開く。
目に入ったものの、その異様さに息を飲んだ。
……ここは……おかしい。
椅子に座る数人のペイシェントが、視界の定まらない様子で茫然としていた。
その顔色は皆悪く、だらりと落ちた手が生気の無さを表している。
いくら病人が集まる場所だといっても、全員が全員、同じ状態だなんて……。
それにこんな状態のペイシェントに、誰もついていないのか。何の処置もしないのか。
その先に見える部屋には、数人の塔の人の姿が見えたが、誰もここにいるペイシェントを気にしている者はいなかった。
まるでそこに捨て置かれたように、見向きもされない。
……そして僕は……。
悔しかった。苦しかった。
見て見ぬ振りをする、この体に。
僕は、このペイシェントの前を。
「……た……すけ……て……」
どんな顔をして。
過ぎ去ったんだっ……!
「……なにが……呪術医だ……」
呪法の一つも使えやしなかった。
『彼』が使わせてくれなかった、と、言い訳なんかしたくない。
だって僕は。
ここで僕が何か事を起こしたら、逃げきれなくなると思っていたんだ。
この塔にいる全ての人間を敵に回して、立ち向かえる程の強さを持ち合わせていない事が、自分を引き留めたんだ。
……じゃあ、彼は……彼は僕の味方になってくれるのか。そんな疑問も。
彼の力も、何を考えているのかも分からないだけに、信用出来ないと答えを出した結果だ。
僕の望む事、全て……。
これが……その答えなんだと思ったら、僕はどう答えを出したらいい……。
そんな僕の葛藤にも、何の反応も見せなくなった彼は、ただ僕の足を進ませる。
次に開いた扉を抜けると、僕に視線が集まった。
「やあ……お待ちしていましたよ。何処に行ってしまわれたのかと思いましたが、時間に間に合って良かったです……『先生』」
中年の塔の男が、僕に向かってそう言った。
……先生……?
その言葉を聞いた僕は、侯和さんが言っていた言葉を思い出す。
『先生と呼ばれる人間は、他人の知識体系をインプットした機械だ』
……どういう事だよ……。
混乱し始める僕だったが、彼が中にいる僕はそんな表情など見せていないだろう。
更に中へと歩を進める僕は、僕が会いたいと望んだ姿を目の前にする。
「遅いじゃないか。準備はもうとっくに終わったよ」
……圭……。
「ギリギリまで抜いたんだ。これだけあれば足りるだろう? それとも……」
……嘘だ……。
僕へと近づいて来る圭。
その体は血で真っ赤に染まっていた。
ギリギリ……抜いたって……まさか……。
さっき見たペイシェントが何故、あんな状態なのかが分かった瞬間だった。
……瀉血……。
嘘だ……圭がそんな……。
冷ややかな目を向けて、クスリと笑う。
血に濡れた頬を手で拭って、圭はこう言った。
「死ぬまで抜く?」




