第50話 理論と論理
亜央は、侯和さんから目線を外すと、止めた足を踏み出した。
侯和さんが掴んだ亜央の手が、するりと抜ける。
「亜央……」
侯和さんは、亜央が答えた言葉に何かショックを受けたようだった。
「お前……まだ……あの時の事を引き摺っているのか……」
侯和さんの言葉に、亜央が何を抱えているのかが見えた。
助けたくても、助けられなかった人がいる。
大丈夫だと……約束をして。
己の限界を知った呪術医は、みんな……そうだ。
それが呪縛となって絡みつく。それは……逃げようとしなかったからなんだ。
だけどその呪縛から解き放たれるには、進む方向を見つけなければならない。
それを……誤ったんだ。
「だったらなんだ? 変わっていないって言い変えるか? 違うだろう?」
「……力を貸せなかったのは……俺も同じだ……」
「……別に。お前の力など、初めから当てにしていなかったよ」
皮肉な言い方をする亜央だったが、漏らす苦笑がそれを否定していた。
亜央は、力なくも呟くような声で言葉を続けた。
「構築した治療方法に間違いはない、だがそれでも改善が見られない。状態は悪くなっていくばかりで、使える薬剤も術式もなくなっていく。なくなっていけば、効きもしない同じ薬剤を、もう少し続ければ効くからと繋ぎに使って、その間に次のものを探し出す。時間稼ぎだ。その繰り返しなんだよ。他に見つからず、使える薬剤が一周すれば、また元に戻るしかない。もう一度、これを試してみましょうかってな。俺は……それがもう効かないって分かってるんだよ……」
「だからって……お前……」
「同じ薬剤がダメだって分かってんだよ……何度試したって、ダメなものはダメなんだよ。だから……プラセボなんだろ」
……プラセボ、か。治療と称して使用しても、偽薬は偽薬だ。その効力は……当然ない。
術式に於いても同じ事が言える。効力などない術式を、効力があると言って使うのだから。
「……そんなもの…… 一時的な誤魔化しだ。暗示だろ」
「ああ、そうだよ、勿論だ……そんなので緩和されやしない事も分かってるさ。だからプラセボじゃないというロジックを使うんじゃないか」
「……馬鹿ヤローだ」
「そうだな……だが……」
亜央は部屋の方へと進んで行く。
「亜央」
侯和さんの呼び止めに、亜央は振り向かなかったが、部屋に入る手前で足を止めた。
「目の前に『奇跡』があるなら、迷わず掴むだろう?」
そう言うと亜央は、止めた足を踏み出した。
「……侯和」
茫然とした様子で、亜央の背中を見つめる侯和さんを、貴桐さんが呼んだ。
「貴桐……」
亜央に言える言葉が見つからなかった事に、悔いている侯和さんのその顔を見て、貴桐さんは仕方がないとばかりに溜息をついた。
「呪術医ってのは、自分で自分を縛っちまうんだな」
「……そうだな」
「ふん……認めるのが随分と早いじゃねえか」
「『大丈夫、必ず治る』……その言葉が自分の持っている力量を超えろと、圧力を掛けるんだ」
「それは自分が自分にだろ」
「……ああ」
「人に言えば期待に変わる……それは自分に課した責務だろ。その言葉を口にしたならな。それだけの事だ」
「……責務……か。でも……それだけ……か。簡単に言うなよ……」
「不満か?」
「不満だろ……」
「じゃあ、やれよ。不満なら」
「貴桐……」
「お前……呪術医だよな?」
「なんだよ……今更……」
「だったら……」
貴桐さんを振り向く侯和さんに、貴桐さんは言った。
それは、胸に響く言葉だった。
「あいつの痛みくらい、取ってやる事、出来んだろ」




