IV
私は自分の朝ごはんとして別に用意されていたソモンという魚を食べ終えて水を飲んで一息ついていると、背中の方へとキッチンの窓から射しこんで照らす陽光の温かさにウトウトと眠気に襲われていた。
――ゴンッ!
椅子に座ったままいつの間にか私は舟を漕いでいたみたいで……、思いっきり額を机にぶつけてしまった。
「イッ、タタタタタタタタ……。」
ぶつけた額を片手で擦った。
「あまりの気持ちの良い陽気に、つい寝ちゃってたみたいね……。昨晩は興奮してしまった所為もあってあまり眠れなかったし――。」
昨晩の事を思い起こしながら、私はふと窓から外を見た。
「陽の温かさも、空の青さも、――日本があった元の世界と何ら変わりはないのね。」
今私が居るこの場所がまさか異世界だとは、昨日――いえ、生前の私は想像にもしてなかったな……。
「三毛猫の魔王か……フフッ――――。」
なんだか言葉にすると面白いなと、心ともなく笑みが零れた。
猫しかいないこの国は猫大好きな私にとっては正にパラダイスであり、不安だとかといったマイナスな感情は微塵も湧いてこなかった。
「朝食を食べる以外にやることも無いし……まだ呼ばれてもないけど、そろそろ魔王様の様子を見に行ってみようかな。」
呑気――。
そう言われれば確かにそうだが……。
一度は死んだ身であるし、正直帰りたいかと聞かれたとしても夢も、叶わずに不満を抱えつつ働くしかなかっただけの元の世界になんて――帰りたくはない!
だってここは私にとっては正にパラダイスだし、元の世界に対してもこの世界に対しても今のところは特に心配事もない状態なのだから、この第二の人生を思いっきり楽しむしかないと決めたのだ。
――コンッコンッコンッ!
魔王様からも宰相からも返事はない。
少し躊躇われたが、私はダイニングの中へと入った。
「失礼しまーす――――。」
部屋の中に入っても静かで、もうここには居ないのかなとソォーッと先程食休みの為とさっきアルマン魔王が移動した続き間となっている横の部屋をなんとなしに覗いてみた。
――プーゥ……スーゥ……スー……。
「かっ――! かわっ――――!!」
まさかこんな姿を見られるとはと期待もしていないタイミングで目に飛び込んできたその光景に、私は驚きのあまりに思わず反射的に歓声をあげそうになり、両手で自分の口を咄嗟に塞いだ。
――可愛い……。
今私の視線の先ではソファの上でアルマン魔王がスフィンクス座りで頭を枕の上に置いた状態で寝息をたてており、その上に寄り添うようにしてフレデリク宰相が覆い被さる形でアルマン魔王の頭の方の毛繕いをしていた。
――可愛すぎて和むわ~。
期せずして見てしまった二人のその微笑ましい光景に私は頬が緩み、ついそのままニヤニヤとずっと見つめてしまっていた。
傍から見れば、それは変態ストーカーの姿そのものであったのは言うに難くない。
誰にも見られなくて良かったと、後で少しだけ反省した――――少しだけ。
でも――これってアルマン魔王が雰囲気的にはリラックスしてフレデリク宰相に甘えているのかなって感じではあるが…………スフィンクス座りという事は周りを警戒しているということ……。
私の知っている地球の猫と同じくこの世界の猫たちも同じで睡眠時間が長いらしいし、夜も昼も食事の後も身分を問わずに誰もがガッツリと寝るのが習性なのだと聞いた。
にも拘らず、アルマン魔王はこの城に住みだしてからよく眠れていない様子なのだとフレデリク宰相がぼやいていた。
つまりは常に睡眠不足なのだということだ。
――暗殺を恐れてあんなに気を張っていたんじゃそりゃ眠れないよね……。
食休みだからと王冠もマントも外して体を小さくしている素の姿が垣間見えるアルマン魔王は、何故かまだ母親の助けが無ければ生きてはいけない子猫みたいに見えた。
実際、服飾品を付けていないほぼ裸に近いアルマン魔王の姿を私が見たのは初めてで、その何も着けてはいない姿は傍らにいるフレデリク宰相と比べても小柄であった。
――守りたい……。
私は改めてそう思った。
初めて会った時から威張り散らして偉そうにしているなという感じではあったがその心は臆病で、小柄な体躯も相まって魔王様らしさを際立たせる装飾品のない素の姿は頼りなげで弱弱しい印象しか受けなかったのだ。
魔王様に選ばれたばかりでまだ味方も少なく、国民の皆に認めてもらう為に今は頑張って『魔王様』という強く強大な存在を演じているって感じなんだろうな。
きっと――――。
「誰だっ!?」
自然と湧いた子猫のようだという思いから私の心に体が反応し、その頭を撫でたいという思いにかられて無意識に歩みを進めていた私の足音に警戒していた耳がレーダーの如くピクッとこちらに向いた!
――かと思うと数歩近寄った所でアルマン魔王が目を覚ましたのである。
「なんだ……お前か。」
「お休みしてたのに、邪魔してごめんなさい。」
「別に良い。なんだ?」
「えっと――何かご用事はないかなと。私、まだこの城の中の事もよく分からないし、やる事がないとどうしたらいいのか……。」
「あぁ――――。」
視線だけこちらに向けて話をしていたアルマン魔王は少し面倒くさいなと言った風に欠伸をしながら私に返事をした。
「まぁ、そろそろ起きようと思っていた頃だったし――。ミクと城内を散歩でもするか……。」
そう言ってアルマン魔王がやおら立ち上がってグーンと体を伸ばして猫特融の伸びをしていると、フレデリク宰相が尋ねてきた。
「散歩――――ですか?」
「今日はその予定ではなかったが――天気も良いし、連れ歩いて皆の者にミクの存在を知らしめねばなるまいて。それに、たまには使用人たちの働きぶりも抜き打ちチェックしなきゃニャ。」
「……では、護衛にモルガンでも付けましょう。」
フレデリク宰相は傍の机の上に置いてあったベルを鳴らした。
「モルガーーーン!!」
「ハッ!」
その返事の速さに私は一瞬息が止まり、体をビクリとさせた。
いや、名前を呼んでから数秒しか経ってないよ?
名前を呼ばれる前まで何処に居たのさ…………。
まるで忍者が如く気配を感じさせないままにシュタッと颯爽現れ、間髪を入れずに返事をしたその素早さにビックリした。
その不思議なほどの行動の速さに思考と体の動きがピッと止まっていると、次に私の名前をフレデリク宰相が呼んでいてそこでハッとした。
「ミク。この者は先程会ったディディエと同じ、三獣士に属する『モルガン』だ。」
そう紹介されて目の前に立っている猫は自分よりも背の高い私を品定めする様に上目遣いでキッと睨みつけ、誰よりも大柄で私の背丈に近いその緑色をした大きな目から放たれる痛いほどの目力は私を後退らせるぐらい迫力があった。
「ど、どうも……。」
圧倒されてたじろいでしまった私は愛想笑いを浮かべてそれだけ言うので精一杯だった。
怖いって程でもないが迫力に気圧され、どうにも上手く口も動かずに良い感じに対応できなかったのだ。
まるで野生動物の縄張りにうっかりと入ってしまったところを見つかった時の様な……。
背丈もだが――被毛の所為もあるだろうが横幅もあり、全体的にグレーの色をした斑模様のフワフワとした長毛は気品があり、素の姿はサイベリアンの様であった。
「この者は魔王様が召喚した人間だ。そう警戒せずとも――。」
「いや――大事な魔王様の御身を、一番近くで預かる事を任された某は誇りある三獣士の身。魔王様が召喚した者だからとて、それだけが理由ではそう易々とは某は信用もできん。むしろ知らない者を初めて見ればその者を慎重に見定め、誰よりも警戒して事に当たることこそが魔王様を真にお守りする某らのお役目。」
「モルガンは相変わらずだな……。」
ジッと黙ったまま私の見た目ではなく中身を見る様に鋭い目付きで観察していたモルガンに対し、フレデリク宰相は肩を落としてハハハッと苦笑いしていた。
「貴殿も知っておろう? 魔王様に召喚された者は、何人であろうとも召喚主である魔王様には危害を加えることのできぬ制約――――いや、呪いがかけられているということを……。」
――えっ?
「しかし……。」
「特に此度の下僕は『人間』だ。史実によれば呪いの力が一番よく効く生き物だとか……。だからそんなに心配するでない。貴殿は昔から頭が固いというか何というか――。忠義に厚いのもけっこうだしそれ故に慎重なのも良いが、誰も彼もを敵と見做して初対面からそう睨みつけるものではないぞ。もう少しその時その時の状況を見て臨機応変に考えて動けるよう、もう少し考える力をだな……。まぁ、ディディエみたいになってもらっても困るがな。」
フレデリク宰相が融通の利かないモルガンにあれこれとお小言を並べていたが…………、私はそれどころではなかった。
「あっ、あの――――。呪いって……。」
「んっ? ミクにも最初に話したであろう――。史実に残る大昔に召喚された人間が『カワイイの呪い』だとか言っておってな。なんでも――人間らにとっては我ら魔ニャンの見た目が問題なのだそうだ。魔ニャンにお願い事をされれば、その姿を見てしまった人間だけは如何ともし難い程逆らえぬカワイイという呪いにかけられるそうで……。他の種の生物にもやってみてはいるが、どれも人間みたいに強くはかけられぬ呪いだったので無理だったが――それが召喚されてきた数々の下僕らの中で唯一『人間』という種だけが首輪もされぬ理由なんだぞ。」
――ホエッ?
私は思いがけない言葉に口をポカンと開けて首を傾けた。
「首輪?」
「召喚の儀式によって刻まれた印は召喚主である魔王様が召喚者の行動を支配するものだ。魔王様に危害でも加えようと動こうものなら印によってビリッとした強い痛みが全身に走って動けなくなる。それ故に絶対に裏切り行為は働けぬ。だが心はまた別物だ。元の生物としての思考を消す事もできないので心までは支配できぬ。だから主従をハッキリと精神深くにまで覚え込ませる為に首輪をつけるのだ。だが『人間』には呪いの力があるので必要ないからと、ミクにも着けておらんだろ。」
――オゥ! 衝撃の事実……。
――いや、呪いって……。
私は少しホッとした。
首輪をしなくて良かったという事に対してもだが、『呪い』というのもおそらくは――うん、分かる。
無害だ。
たぶん合っていると思うのだが――――以前に召喚されたという人間は極度の猫好きだったのだろう。
そりゃこんなに可愛い生物が人間と同じ言葉を喋っていて意思疎通ができて、その姿でお願い事なんかされたら断れない。
もう、何でもしちゃう!
その気持ち、すんごくよく分かる!!
確かに猫に関しては盲目的になり、自分自身の事を後回しにするほどに自分を激しく突き動かすこの見えない力は何なのかと問われれば――――それを『カワイイの呪い』と言うのがピッタリだろうな。
可愛いものには勝てないからなぁ……。
どんな我儘でも聞いちゃうっ!
自分の猫を持てなかったから猫カフェに居た猫たちに散々オヤツやオモチャを貢いできた私には分かり過ぎる『呪い』だった。
やっていることはキャバ嬢やホストに貢いでいる酔っ払いと大差ないだろうに……、猫相手だと誰も咎めたりする人もいないので大っぴらに大金をつぎ込んでも許されちゃうあのどうしようもない『呪い』。
幸せな『呪い』だから、寧ろ常にかけられていたいって感じよね。
私も御多分に洩れず、以前に召喚されたという人間と同じくかなりの猫好きなのでバッチリと『カワイイの呪い』にかかっております!
「モルガンさん、私もアルマン魔王様の事が大好きよ! 昨日今日会ったばかりの若輩者が信用なんてって思うかもしれないけど……、私だって守りたいって思ってる。嘘じゃないわ。だから――――私とも仲良くしてほしいな。」
「…………。」
私の言葉にモルガンは沈黙で答えた。
会ったばかりの、しかも異種族の人間が言う話をすぐに信用しろってのが無理だろう。
それは分かっていたからいい。
私だってあったばかりの人間に「自分の事を信用して!」って言われても無理だし。
ただ、敵視して警戒するだけでそっぽを向くのではなく、信用に値する存在なのだと私のことをよく見て考えてほしかったのだ。
「――考えといてやる。」
私の真剣な思いが伝わったのか、漸く聞き取れるぐらいの小さな声でポツリとモルガンは呟いた。
「モルガン……。」
アルマン魔王はモルガンのちょっと軟化したその様子にフッと優しく笑った。
「さて、話も済んだようだし……。それじゃあ散歩に行ってくるかな。モルガン、ミク、吾輩についてこい!」